言葉と愛と物語と─『The Dictionary of Lost Words』by Pip Williamsを通して
はじめに
日本語版では『小さなことばたちの辞書』というタイトルで小学館から刊行されているようだ。
僕がこの本を読んでみたいな、と思ったのはアサミメーコさんのこの記事だった。
大地にしっかりと足を付けて歩く、転びながらも、自分なりに歩くような、素朴で温かさの感じられる感想に惹かれた。
読む目的かつ自分の中で大事にされているものが明確な方なのだろう。
反戦を念頭に置く僕は、教えていただくばかりで、いつも彼女の読書されているものに興味深くなる。
バオ・ニンさんの戦争の悲しみ、大岡昇平さんの野火なども教えていただき読んだものたちだった。
また、僕の家族は他言語や文化とも繋がりの深い家族でもあり、言葉について考えることも多い。
これは家族で読もうと思い立ち、拝読後、購入。
言葉について僕はここ数年とても考えるようになった。
クリスチャン(カトリック)なのもあり、言葉すなわちロゴスは愛そのものだとも僕は考えている。
マレー博士について
サミュエル・ジョンソン博士の英語辞典が刊行されたのは1755年のことである。
ジョンソン博士の英語辞典を以前僕は少し読んだことがある。
シェイクスピアが引用されていたり多くの詩人たちが引用されていてそれだけで文学的要素が非常に高いものに僕は思えた。
また、ジョンソン博士の辞書序文が素晴らしいので紹介しておきたい。
前述のヨハネ福音もそうであるが、いかに言葉をむかしのひとたちが大事にしてきたか、聖書や辞書から伝わってくる。
著者のあとがきを昨日ようやく読み終えて、作中のDr.Murrayは実在したジェームズ・オーガスタス・ヘンリー・マレー(James Augustus Henry Murray, 1837年2月7日 - 1915年7月26日)は、文献学者で、『オックスフォード英語辞典』第一版の編集主幹)であることをモデルとしていたことを知った。
時代の性差別と言葉
この時代の性差別が辞書編集にも流れていることを著者は見抜き、そこにフォーカスしてEsmeという女性の辞書編集に携わる女性を生み落とした。
注目したいのは著者Pip Williamsが男性の視点からこのEsmeを描いていることだろう。
僕の世代ではなぜこのようなことが起こるのか理解しがたいが、当時は性別や身分の違いで使われる言葉の言い回しもかなり異なり、そうしたものはジョンソン博士やマレー博士の時代には重視されなかったのだろう。
この塵と化してしまったかもしれない言葉の裏に、そうした背景があるのは非常に大きい。
僕の家にある祖父所蔵の英英辞典を引っ張り出してきてみると、驚いたことに、bondmaidが載っていなかった。
著者はそうした区別の末に差別され見放された「Lost words」たちを主人公の小さな女の子Esmeに集めさせ、メイドのLizzieのトランクに詰め込ませる。
非常によくできた構成だなと感心した。
Esmeは母親Lilyと彼女が物心つく前に死に別れてもいる設定で、Lilyと花のLilyをかけあう父の姿が序盤に出てくるのだが、少し胸を打たれた。
辞書編集を行う作業場ScriptoriumでLost wordsをテーブルの下で拾うときのEsmeのキラキラした瞳を想像する。
Esmeの彼女なりに恋をしたり過ちを犯したりしながらも成長していく過程そのものが彼女の言語獲得と普段の僕たちの言語獲得や言語そのものが時代によって変化していくことを想起させたりもした。
おわりに
さて、日本での言語の変化だが、日本語はわずか100年ちょっとで読めない文章になってしまっていることにやはり驚きを隠せない。
明治維新や敗戦後の国語教育などで、簡易化され、使用されなくなった言葉たち。それらで作られた物語たちを掬い上げたい。ひいては、社会格差や差別の隙間に落ちている言葉たちを掬い上げていきたい。
そんな気持ちがなおさら強くもなった。
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