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編集者K氏の想い出③/ラストの一文

確か、K氏の講座の最初の回だったと思う。ある文章のラストの一文について、これは必要が、必要でないか、という問いがなされた。こうした問いは、あとにもずっと続いていくことになる。

ラストの一文が必要か必要でないか? これは、答えのあるものではない。
大切なことは、「説明をしない」ことの方が、より良い文章になる可能性がある、ということだろうか。文章を書いたときに、どうしても最後に結論的な文章を加えたくなる。しかし、それは、時として2重になってしまう。必要か必要でないかではなく、作品の中で、何を訴えるのか、が描かれているかどうか、と言える。

その部分が弱かったならば、最後に説明的な文章があることで、わかりやすくはなるかもしれない。しかし、本文の中で十分に描かれているならば、ラストの説明的な文章は必要ないということになる。

酒の席でK氏に聞いてみたことがあった。

宮部みゆきの『火車』のラストについてである。個人的に『火車』のラストは好きである。無駄な説明は少なく、ある行為が描かれる。一般的な評価では、「よくわからない」「ラストが弱い」なんてのもあるのだ。

K氏の『火車』のラストについての話には、驚かされた。
「あれは、まだ弱いんだよ。まだ、書きすぎなんだ。あれを書かないで終わらせることができたなら、もうひとつ、上に行けるんだ」と言っていた。
小説のラストというものは、本当に興味深い。

K氏の話からは離れるが、藤沢周平『蝉しぐれ』のラストは、新聞掲載時と書籍とは違っている。数行が書き換えられている。僕の感想となるが、直接的な文章から、自然の風景の描写へと、書き換えられている。ちなみに、練馬区大泉図書館に藤沢周平コーナーというのがあり、ここに『蝉しぐれ』新聞掲載時のラストが展示されている。

プロの作家の書き換えと言えば、安部公房の『終りし道の標べに』は興味深いものだった。若いときに書かれた最初の真善美社版と、後から書き換えられた新潮社版とでは、かなり違っている。

講座の中では、ひとつひとつの文章を、詳細に検討することもあった。
どちらがいいか?
普通に考えたならば、書き換えられた新潮社版の文章の方が良いと言えるかもしれない。しかし、真善美社版は、若さ、勢い、情熱のようなものがある。
話は、やや脱線してしまったようだ。申し訳ない。

僕は文章を読むときに、「ラストの一文がどうか」「説明の少ない具体的な描写であるかどうか」みたいなところに、目が行くようになった。
そうした視点で読むだけで、小説を読むときの面白さが数倍に上がっていくように感じる。

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