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ミスター・ロンリー

切なくて哀しくてすこし滑稽な映画、『ミスター・ロンリー』。

マイケル・ジャクソンの物真似をし続けている一人の男。彼は彼自身として生きることができず、常にマイケルなのです。彼は孤独で、自分が何者なのかわからない。と、いうよりは自分と向き合うことが怖くてできないのです。他人の人生を借りて生きることが彼にとって唯一生きていく方法なのでしょう。憧れのマイケルになっている間はマイケルとして生きていられ、自分自身を意識せずにいられるある意味幸せな時間。自分の孤独もスターだからこそと思えば耐えられるのかもしれません。
そんな彼がマリリンとして生きる女性と出会い、そっくりさんばかりがあつまるコミュニティへと導かれるのですが…。
誰もが自分を他人だと思いこもうとしているけれど、それでも他者と触れ合うことでどうしてもその世界に齟齬が生じ始めるのです。
マイケルはマリリンに恋をし、マリリンもマイケルに惹かれ始めるけれど、マリリンにはチャーリーがいる。抗えない恋心、けれど結ばれることのかなわない二人。そして訪れる突然の別離。
この哀しい結末はもしかしたら二人が自分自身として生きることを選択していれば避けられたのかもしれない。彼はそう思ったからこそ、今度こそ自分が何者なのかを見つける決心をしたなではないでしょうか。
誰かの生を借りることで、自分の身に起こっている全て、孤独や疎外感や情けなさ、哀しさ、そうしたものから目を背けていたけれど、誰かを愛するという人の1番プリミティブな部分が動き出すことで自分自身から目を反らすことができなくなったんじゃないでしょうか。
マリリンはどうしてあの結論を選んだのか。彼女も彼女自身を意識し始めていたし、自分自身として生きることを考え始めていたんじゃないかと思います。けれど彼女の方がほんの少しマイケルより事情が複雑だった。マイケルと共に行くには、捨てなくてはいけないものも多かったし、そしてかつて確かに自分が愛したものへの思いにも苛まれていたから。彼女は逃げたのかもしれないし、もしかしたらあの結論を選ぶことが唯一彼女自身に戻る方法だったのかもしれない。
そして彼女はマイケルの心に深く深く刻みこまれ、彼に語りかけるのです。「あなたはあなたの人生を生きて」と。
ほんの一瞬だけ交差した二人の人生が、それぞれに本当の意味での人生を取り戻させる、運命だった恋。
そんなストーリーと決して交わらない所で起こる修道女たちのパラシュート無しでのダイビングの成功という奇跡がコラージュされています。
一方では起こらなかった奇跡が世界の別のどこかで違う形で起こっている。もしかしたらこの先も奇跡は交差しないかもしれないし、奇跡なんて彼には起こらないのかもしれない。
でもこの世界の“ここ”ではない“どこか”で奇跡は起こっている。
それはもしかしたら幸せな事実なのかもしれないし、ある種希望となるのかもしれません。
どこか滑稽で哀しくて荒涼とした孤独の中にいる人々が美しい色と音楽で彩られ、けれど否応なしに彼らの孤独の深さを突き付けられる不思議な映画。
平凡さも、臆病さも、不器用さも罪ではない。それが罪だったら私なんて生きていられない。そんな自分の中にある不完全な部分を、ほんの少し諦めて受容することで、もしかしたら人は自分自身に立ち帰るのかもしれません。他者からの受容、そして自分自身の受容。難しくて一生を費やすかもしれない葛藤。けれどそれが自分自身を生きるということなのかもしれません。
愛する人に出会い、愛し愛されて受け入れあえること、もしかしたらそれが人生の中に起こるささやかだけど1番の奇跡なのかもしれません。
それが永遠に続くとは限らないし、失えばその奇跡を得る前よりももっと深い闇や絶望の中に陥るかもしれません。
でも、それでも、人は自分自身のコアな部分を受け入れて愛してもらいたいという欲求を持つし、そしてそうするにはやはり自分自身と向き合わなくてはならないのでしょう。
マイケルのマイケルとしてではない旅は愛を失った所から始まるけれど、今までいた“ここ”ではない“どこか”へと旅することで、もしかしたら“奇跡”に出会えるのかもしれない。

そんな淡い美しい希望を感じられる映画でした。

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