un 僕らはアン 伊兼源太郎
あるけど、ない。ないけど、ある。
それぞれの事情で社会から「ない」存在として生きてきた子供達を描いた物語。
『ぼくらはアン』というタイトルの“アン”とは接頭辞の“un”だ。
過去の思い出と現在が交錯して語られていく。
無戸籍の双子・諒祐と美子、ヤクザ組長を父に持つ・誠、不法滞在の姉弟・マヨンチットとククリン。
彼らは学校にも行けず、田舎の山や川で遊んでいる時に偶然出会う。お互いの事情に頓着せず仲良くなる5人、そしてそれを受け入れる双子の“母上”、山奥で隠遁生活を送る“じいちゃん”。彼らは身を寄せ合いながら暮らし、母上とじいちゃんに様々なことを教わりながら成長する。学校に行けないからといって、無学になってはいけないと、母上とじいちゃんは様々な方法で彼らに学びを与えていくのだ。
そんな楽しい暮らしもククリンの死や母上、じいちゃんの死によって揺るぎはするものの、それまでの教育によってまた4人は寄り添い助け合い、生き抜いていく。
そんな生活が誠の失踪という綻びから脅かされていくのだ。
誠はなぜ失踪したのか、これまで無関心だったヤクザである彼の父は、なぜ彼の行方に執着するのか、何が起ころうとしているのか。そんなミステリーだ。
いわゆる「普通」からはみ出してしまっている4人。そこに「ない」者とされてしまう、社会的に透明人間のような彼らだが、そこに悲壮感はない。ささやかだが楽しく、創造性に満ちた山でのじいちゃんとの思い出は、ノスタルジックで美しい。困難の中にあるということを感じさせない子供達の姿は不思議に希望に満ちている。
大人になって自身の才覚で生活しなくてはならない時になっても、彼らの中にある母上とじいちゃんの教えが確かに彼らを支えているのだ。誠の失踪によって彼らの生活に危険が近づいても、社会と法の網目からこぼれ落ちて生きてきた彼らは慌てたりはしない。これまでしてきたのと同じように、社会と法に頼らず自分たちの力で抗うことができるからだ。
諒祐と美子が無戸籍になってしまったのはある複雑な事情からだ。彼らの母が何から逃げていたのか、何を恐れて子供達を無戸籍にしてしまったのか。出生地主義ではない日本の国籍法のために無戸籍にならざるをえなかったマヨンチットとククリンの兄弟、親を選べず親の因果を背負わざるをえなかった誠、社会的な問題を描きながらも押し付けがましさは無く、可哀想な存在として描くわけでもない。
身を寄せ合って生きていく、境遇を受け入れてそこに立つ彼らの強さが美しい。
徐々に誠の失踪の真相に迫っていくことで、諒祐と美子の母が隠していた彼らの父親の存在、そして誠の父の本当の目的が明らかになっていくのだが、諒祐と美子とマヨンチットを守るために誠が選んだ結末は悲しいが、彼がそうまでして守りたいと思える者と出会えたことに暖かさも覚えるのだ。
家族、と呼べるような存在と出会えたことは誠にとってどれだけ大きなことだったか、そしてそれは他の者にも言えることなのだ。いない者として扱われる彼らが、その存在を確かに感じ合えるものとして過ごせる居場所、その大きさと彼らの繋がりの強さが感じられる。
彼が抱えていた過去の罪、そしてじいちゃんの死の真相、全てが繋がっていく時、物語は壮大な展開へと移っていく。
誠の失踪から始まったミステリーが大きな冒険譚へと変わっていくのだが、全てが繋がり、誠とじいちゃんの仕掛けたことが3人を救う結末と、タイトルへと物語が収束していく心地よさが爽やかな読後感をもたらしてくれる。
新たな人生を手に入れる3人、彼らの今までとこれから。
悲しみや苦しみをただ描くのではなく、生き抜こうとする強さが描かれた、ミステリーというジャンルに収まりきらない物語だった。
あるけど、ない。ないけど、ある。
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