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【日記と考察】『モモ』から学んだ「聴く」ということ

こんにちは。

ミヒャエル・エンデの傑作『モモ』に関しては、既に語り尽くされている感はありますが、ここにもう一つ駄文をつけ加えさせていただくことをお許しいただきたいと思います。しばらくおつきあいくださいますと幸いです。

この作品は、後半の「時間泥棒」たちとの戦いや、時間の源やその秘密といったことが、多くの人々の心を捉えているものと思われます。そこからは、「時間を大切にしたい」という感想が引き出されることが多いように感じてきました。

しかしながら、ぼくはその前半で出てくる、人の話を「聴く」ということについても、負けず劣らず重要な話であると感じています。と申しますのも、ぼくはうつ病(のちに双極性障害と診断が変更)を病むまでの5年間、コールセンターで人の話を聴くことに専従し、かつ、人に話を聴くことを仕事とするよう指導もしてきたという経緯があるからです。また、発症したあとも、産業カウンセラーの養成講座を受講するなどして、「傾聴」の手法を学んだということもあるからなんだと思っています。

物語に即して言うと、モモの元を訪ねてきた、諍い合っている2人の男が、それぞれに話をしていると、いつのまにかその諍いが収まってしまうということが書かれています。ここでモモは、ほとんど何もしていません。敢えて言うならば、「聴く」ことをしていたわけなのですが、それを注意深く読んでみると、いわゆる「傾聴」というのとも違うようなのです。

たった今、ぼくは「違うようなのです」と書きました。しかし、実はそれまでは、「モモのように」聴くことが大事であって、そのように聴けるようになりたいし、ならないといけないと感じてきていました。でも、それは違っていたのではないかというのが、最近の直感です。つまり、ここではモモは、傾聴など「していない」ことに気がついたからでした。

とはいえ、『モモ』全体としては、ぼくは「聴く」というのは、後半の時間泥棒との戦いと、時間の秘密ということと併せて、重要な柱の一つであると考えています。そこから、ではなぜ「聴くこと」と「時間」という、一見関係がなさそうに見えている2つのテーマが、この『モモ』に投げ込まれて並立しているのかという「疑問」が起こってくると思うのです。

結論を申し上げれば、「聴く」という行いは、自分の時間を差し出すという行いであり、時間を共に過ごし、熟していく過程を「共有」することであるという点で、「聴くこと」と「時間」というテーマ性は、関係し合っていると思われるのです。つまりここからは、「共に在り、共に生きる」というテーマ性が導き出されてくるように思えます。転じて、時間泥棒との戦いとは、それ(=共に在り、共に生きること)を不可能にするものとの戦いであるということが言えるのだと思うのです。

ふむ。

何か、ひと区切りついてしまった感じがしてます。今回はここまでとして、後日「続き」が書けそうであれば書いてみようと思います。お読みくださり、ありがとうございました。それではまた!





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