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【100分de名著】日蓮の手紙②について

こんにちは。2月18日(金)04:35です。

2月17日(木)のclubhouseでのルーム「100分de名著を語ろう」、体調不良のため、ホストでありながら欠席してしまいました。21時台には一度目を覚ましたのですが、身体が言うことを聞いてくれませんでした。申し訳ありません。ご出席くださった方々、お話しを進めてくださった方々に、心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

2月度の「100分de名著」では、やや趣きを変えて、1つの著作からではなく、日蓮の遺した数多くの書簡からチョイスして紹介・解説されています。今回(2月14日)の第2回放送分では、①富木常忍、②四条金吾、③池上兄弟(宗仲、宗長)らの著名な「男性」信徒(女性信徒については、特に第3回放送分で取り上げられます)たちが直面した様々な難題についての、細やかで具体的なアドバイスが解説されています。

これらからうかがえるのは、日蓮が極めて実践的・実用的な側面を重視していたことです。ともすれば、宗教家は「法」を重用して、形而下の事柄については、むしろ軽視するとのイメージがあるのではないかと思います。しかし、日蓮は、「あなたの『いま・ここ』を大事にすることが、法華経を重んずることになる」との指導をしています。そうしたアドバイスの前提として、弟子や信徒の現状を、事細やかに把握していたことを挙げるべきだと考えます。つまり、日蓮は細やかな「気配り」の人でもあったのです。

こうしたことは、次のような手紙からもうかがえます。つまり「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞ」(四条金吾にあてた『崇峻天皇御書』より)、すなわち、「釈尊がこの世に出現した本当の理由というのは、人として尊い日常的な振る舞いを示すことだったのですよ」ということです。

放送に先走ってつけ加えると、日蓮においての「覚り」とは、西方浄土のような「あの世」で成仏することや、金ピカの「仏様」になるということなのではなく、いま、この現実において「幸福」を勝ち取ることだったのではないかということなのです。

ともすれば、知識層の方々は、宗教の「彼岸性」を重視しがちです。つまり、この現実世界を「穢土(=穢れた世界)」として忌避し、そこを離れた清浄な世界で解脱することが「尊い」とすることが多いように思われます。しかし日蓮は、徹底的に「現実世界」での「幸福」「勝利」を重視した人でした。ここから「現世利益」重視の人であり、宗教性に乏しいものであるという、やや偏った見方が出てきたのだと思われます。

さて、次週2月21日(月)に放送される第3回では、門下たちの妻や母、つまりは女性信徒たちにあてた書簡が中心に取り上げられると聞いています。御存知の通り、日蓮が依拠した経典は『法華経』でしたが、その『法華経』の大きな特徴として、①女人成仏と、②二乗作仏を挙げて、この稿を閉じたいと思います。何となれば、この2点があったからこそ、日蓮は『法華経』を最重要視していたのではないかと、私には思えるのです。

仏典に限らず、女性の救済(の有無)ということは、宗教にとって大きな問題であり続けました。仏教でも、さまざまな経典において、女性は成仏できないと説かれ続けてきたのですが、『法華経』に至って、竜女と呼ばれる女性の成仏が解き明かされます。竜女は、①女性であり、②畜生であり、③さらに「子ども」である(=子どもとは人間「未満」の存在と見なされていた)という、三重のハンデを負っていました。しかし、その竜女の「即身成仏」、つまり、そのままの姿での成仏が明かされます。それまでは、何千年も修行を重ね(=死んでは生き返ることを繰り返す)、初めて成仏が許されていたのですが、竜女は「いま・ここ」で成仏を遂げたのです。この、竜女一人の成仏が、「全ての女性」の成仏へと開かれます。この点が、『法華経』が優れているとされる点の1つでしょう。

もう1つの優位点が「二乗作仏」です。ここで「二乗」とは、自らの知性や才覚、修行によって成仏を遂げようとする生命状態であるとしてご理解いただきたいと思います。しかしながら、この「二乗」も、経典によっては成仏を明記されてはいませんでした。むしろ、「できない」としている経典が多いとさえ言えます。

その理路を書いておきます。つまり、「二乗」は自らは修行によく耐え、成仏を得ることができるだろうとしていました。しかし、二乗よりも境涯(=生命状態のランキング)が低い衆生(=おおよそ「一般民衆」のこと)たちは修行によく耐え得ず、成仏しないだろうとしていたのです。つまり、一切衆生(=全ての生命)の成仏を信じることができなかった=不信に陥っていたのです。その「傲慢さ」を喝破されていたのです。しかし、『法華経』では、それら「二乗」も成仏すると説かれています。

こうして『法華経』では、全ての衆生が区別なく成仏することが説かれるのです。『法華経』の論理展開では、ある一人の成仏を突破口として、あるいは象徴として、全ての人々の成仏が説かれます。『法華経』が、無差別の平等の法であるとされる所以です。

すっかり長くなってしまいました。今回はこのくらいにしておいて、3回と4回の放送を待つこととしたいと思います。お読みくださり、ありがとうございました。それではまた!


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