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【100分de名著を語ろう】『カラマーゾフの兄弟』の回を振り返って

こんにちは。

11月4日から25日の各木曜日の21時から、定例となったclubhouse内でのルーム「100分de名著を語ろう」を開催いたしました。今月は亀山郁夫さんの解説による、『カラマーゾフの兄弟』について扱いました。

なお、今回は放送予定が繰り上がっての再放送だったようです。カバーに利用している写真は、本放送時に入手していたテキストによるものです。以下、「目次」を記載しておきます。

第1回:過剰なる家族
第2回:神は存在するのか
第3回:「魂の救い」はあるのか
第4回:父殺しの深層

今回は、4回実施したルームを前提としつつ、新規にnoteを書き起こしてみました。ですので、ルームで話し合われたことと一致するものではないことをお含みおき願えればと思います。おつきあいください。

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1)4つの「層」から読み解く

放送の冒頭で亀山氏は、2つのことを前提として『カラマーゾフ~』を読んでいくことを勧めていました。その1つが、4つの層が折り重なっていることから読み解いていくというものです。その4つとは、以下の通りとなります。

①物語層:『カラマーゾフの兄弟』本編で展開されていく内容についての層。

②自伝層:ドストエフスキーの個人史に関わる層。特に、父親が殺害されていたことと、死刑寸前の恩赦によって作家活動に復帰できたことという、2つの近しかった「死」の影響について。

③歴史層:農奴解放によって横行するようになった拝金主義と土着のロシア性との葛藤や、皇帝暗殺事件等の実際の歴史上の背景との関連について。

④象徴層:神が「全きもの」であるにも関わらずはびこっている「悪」をどう考えるのか。神なき時代にあって、人間であらんとするにはどうするのか、と言った論点について。

2)「第2部」を前提として読む

ドストエフスキーは、物語本編に入る前段で、読者に向けて起筆されていない「第2のカラマーゾフ」の存在を示唆しています。そしてそれは、より重要な物語となるだろうことを宣言していました。

この、「第2のカラマーゾフ」の中心となるのは、亀山氏の推理と構想では、ゾシマ長老に仕えていた3男で、信仰に生きようとするアリョーシャでした。

「第2のカラマーゾフ」を想定すると、いかに長大な『カラマーゾフの兄弟』とはいえ、その結末は、物語の「折り返し点」に過ぎないことが説かれています。

3)「父殺し」とは

物語は、「女とカネ」を巡って起きたものとされた、3兄弟の父・フョードル殺害が中心となって進んでいきます。

結論から言ってしまうと、容疑者の長男・ドミートリーは無実で、実行犯は、ある意味カラマーゾフの「第4の兄弟」であるスメルジャコフであり、その犯行を「黙過(もっか=黙認、追認すると言うほどの意味)」し、「そそのかした」のが、次男・イワンだったのでした(ネタバラシですみません!)。

ここでは「父殺し」というモチーフが、ある意味では「普遍的」なものであったことを指摘しておきたいと思います。知ったかぶりでしかありませんが、オイディプス王や阿闍世王などの神話や説話の昔から、父殺し(または王殺し)というモチーフは繰り返し現れています。

また、「神の子」であるはずの人間が、「神の時代」を滅ぼすという、ワーグナーの『ニーベルングの指環』なども、このモチーフの変奏であろうと思っています。

ここでは、ドストエフスキーの時代で、「皇帝暗殺」という形をとって現れる「父殺し」、を紹介しておきます。これは、先述した「物語層」「自伝層」「歴史層」「象徴層」の4つの層が、複雑に入り組み、また、相互照射していることであると言えそうです。

4)人としての「再生」について

最後に、ドミートリー、イワン、アリョーシャの3兄弟のそれぞれが、人として「再生」または「(宗教的)回心」をしている点に着目して、本稿を終えたいと思います。

ドミートリーは父フョードル殺しの嫌疑をかけられます。実際のところ、彼は「無実」なのですが、フョードルへの殺意を抱いていたことがある点では、罪は逃れられないとして、その「誤審」を受け入れます。これは、イエスの受難を想起させるものでした。

イワンも、スメルジャコフが独り罪を負うものではなく、自分もまた同罪であると主張するに至ります(確か・・・)。

アリョーシャはゾシマ長老の遺体が腐臭を放ったことで、その信仰心が揺らぐのですが、彼も信仰心を「再燃」させるに至ります。満天の星空の下、大地に倒れ伏し、涙ながらに大地を抱擁し、キスをする。全編でも、特に美しいシーンであると言えます。

一方で、自らの「原罪性」に思い至らないままの人物もいます。巻末でアリョーシャに向かい、「カラマーゾフ万歳!」を叫ぶコーリャ少年です。彼には、無垢さと残虐さとが同居しています。亀山氏は、このコーリャがテロルへと走ることが、「第2のカラマーゾフ」の柱の一つであるとしています。ことによると、ドストエフスキーには、原罪性について無自覚なままの無垢さ、イノセンス、純粋性を指弾する意図があったのかもしれません。

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今回は以上といたします。生きているうちに、もう一度全編を再読しておきたいと思わせてくれた1か月でした。最後までお読みいただき、ありがとうございました。気に入ってくださったら、サポートくださいますと励みとなります。それではまた!

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