【読書日記】100分de名著テキスト『群衆心理』を読んで
私はclubhouse内で、毎週木曜の21時から、数人の友人の協力を得て、Eテレ「100分de名著」のファンクラブ的なルームを運営してきています。clubhouseを始めてすぐに、このルームを立ち上げ、幸い6か月ほどですが、欠かすことなく開催してくることができました。篤く御礼申し上げます。
今日9月30日で、2021年も上半期が終わるのですが、今夜は木曜日でもありますので、ルームを開きます。テーマは、9月度に取り上げられていたル・ボンの『群衆心理』に関してで、番組テキストの執筆と出演は、ライターの武田砂鉄さんがご担当されていました。今回は、そのルームに先立って、番組録画を見、テキストを読んだ感想めいたことを綴っておこうと思います。
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社会心理学者のギュスターヴ・ル・ボンは、フランス革命についての知見を元として、主著『群衆心理』を著しました(1895年)。公刊された当時のヨーロッパでは、市民革命と産業革命とが進行していて、歴史的にも新しい局面を迎えていました。その一側面が、「群衆」ないし「大衆」とされる一群の人々が歴史の前面に躍り出て、歴史を決定的に左右するようになったということだろうと考えます。この「現象」を捉えた歴史的知性は何人もいましたが、今期の「100分de名著」では、ル・ボンにスポットが当てられたということです。
人間は、尊貴な一側面を確かに持ってはいるが、ある条件下に置かれると、「群衆」という、愚かで危険な存在に堕してしまう。そのことをル・ボンは指摘し、その分析にあたったのでした。
人間は、「群衆」としても振る舞うことを避け切れない存在である。そのことは自覚しすぎることはないでしょう。十分に知悉することこそが、必要な処方箋を編み出すこととなるからです。
さて、テキスト筆者の武田さんが、ル・ボンを解説することに託したメッセージとは何だったのかを、考えたいと思います。それは、おそらくは「考えることを放棄してはならない」ということになると思っています。考えることとは、つまりは自分が自分であること、あり続けることについて、「責任」を持ち続けようとする「意思」の現れなんだと考えます。考えることを放棄するとは、自分が自分であること、自分自身の主人たろうとすることの放棄であるのに等しいと、武田さんのテキストは訴えかけているように思われました。
振り返ってみると、昨今は「わかりやすいこと」が優先されるべき価値として大手を振っているように思います。そこから、相手に対して「わかりやすい」説明を求める態度と、自分が「わかろう」とするコストを払うことを忌避し、むしろそのことに居直ろうとして恥じない精神性にまで、あとわずかの距離しかありません。「わかりやすい」語りを求めるべきなのは、話者の側であって、それを聞く側ではないはずです。それがいつしか、「このオレ様にわからないような言い方をするとは、けしからん!」となってはいないだろうか。そんなことを懸念してしまいます。
ル・ボンが指摘した、単純で反復される断言とは、「群衆」が好むものでした。そこには、反知性、反価値的な態度をとろうとする者がつけ入るスキが生まれてきます。
人間は、尊貴かつ醜悪な存在である。では、どうしたらその醜悪さの顕現を少なく押し止めることができるのか。そのことこそが考えられなければならないだろうと思うのです。
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今回はここまでとしておきます。このあと、「100分de名著を語ろう」ルームで語り合われたことと併せて再説する機会があるかもしれません。その時は、またよろしくお願いいたします。最後までお読みくださり、ありがとうございました。ではまた!