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さよなら、ひらがな

はじめまして、こんばんわ。いしだです。誰だよ。
ブログを書くこと、これがはじめての事であり、まぁ何を書いたら良いのかわからないし、誰に目掛けて書くべきかもわからないし、そもそも読む人がいるのかもわからないとあっては自分は何のため書いているのだろうか、などというまいど本当にまいどまいど行き着く袋小路に入りそうになったのだけれども、書くということ自体がほとんどの人にとってサッカー少年の壁当てのようなものなのだろう。ひたすら蹴り続けるのみ。

ただ誰が何と言おうとこれが自分にとってのはじめての記事?ブログ?エッセイ?であるという事実はゆるぎようがなく、だったらせっかくなので、とか言って「書く」ことにまつわる話を書いてみようかなと思います。

謎の読書感想文入選

自分は小さい頃から正直言って書くことが苦手で、嫌いで、気に入らなかった。
小説を書くなんてことは頭の中の細胞を顕微鏡で調べ尽くしても見つからなかったであろう。
夏休みの日記は「今日は〜をしました。楽しかったです」で万事済ませていたし、読書感想文の気の進まなさといったら、夏休みの一日目からいずれ書かねばならぬのか〜と憂鬱な気分を抱え続け、ではさっさっと終わらせて晴れやかに夏休みを過ごせばいいものをそうはいかず、最終日になり追い込まれて止むに止まれず手をつけるといった具合だった。

だけども間に合わせで書いた、「みにくいアヒルの子」の感想文はなぜか見事にクラスの代表に選ばれた。勉強も運動も芸術もどれをとってもオール平凡でクラスを代表するなにかに選ばれたことなど一度もなかったのでとてもうれしかったのだが、同時になんでだろうと不思議に思っていた。
だって規定枚数三枚の内、一枚半は文字数稼ぎのためにあらすじをつらつらと書き連ね、残りの半分は「みにくいアヒルの子を可哀想だと思った」ただそれだけのことをありとあらゆる方法で引き延ばし文字数を稼いだだけだったので、自分でも決して褒められた内容ではないとわかっていたのだ。

気になってなぜ自分の感想文を選んだのか放課後先生に聞いてみると何のことはない、クラスで読書感想文を書いてきたのは自分を含め二人しかいなかったそうな。しかも、もう一人は規定枚数に達しておらず、泣く泣く自分のを選ぶしかなかったというわけだった。自分で聞いたとはいえ知らないでいた方が幸せだっただろう。
こっちは嫌々書いてきたってのにクラスメイトは適当にサボっていたことにも、消去法で選ばれたことにもモヤモヤして如何ともし難い気持ちになった。

もちろん翌年の読書感想文は書かなかったし、後にも先にも入選したのはこの消去法一度きりだ。

ひらがな至上主義

そんなことが重なり書くことに対する苦手意識は年々強まっていくのだが、そもそも創作するという点以外でも、物理的に書くまたは描く作業は苦手だった。
芸術的センスを母親のお腹の中に置き忘れてきたのかもしれないと思うほど、何を書いても造形的な美しさを生み出すことができない。絵を描かせれば視界が斜めになったのかと錯覚するほどのアンバランス構図、文字を書かせれば全てがミミズが這いまわるへのへのもへじ、小学校低学年で芸術の世界で生きていくことは諦めた。(ちなみに小学校の時に通っていた唯一の習い事がなぜか習字なのだが、その辺のごろつきの方が数段字が上手かった。)

そして小学生のいしだ少年を何よりも悩ませたのは漢字だった。序盤にならう山、川、木あたりまでは良かったが、だんだんと複雑怪奇になっていく造形を頭に叩き込んでいくことも、それを綺麗に書くことも困難になっていった。そして決定打となったのは図書館でたまたま手に取った漢字辞書だった。
この世にはほぼ無限と言えるほどの数の漢字が存在していることを知り、いくら目の前の忌々しい漢字を覚えたところで先には終わりなき道が続いているのだと思うともうやってられなくなった。

それ以降漢字を覚えるという作業を完全に放棄し、ほぼ全ての文章をひらがなで書くようになった。ひらがな至上主義者めでたく爆誕。

ひらがなは良い。
有限。50音さえ覚えてしまえば何だって書けてしまう。
造形。あのふにゃふにゃとした形が愛らしくゆるキャラっぽい。抱きしめたい。
音色。漢字もひらがなも最終的に頭の中で再生される音としては一緒ではないか。
裏技。あの憎たらしい読書感想文もひらがななら文字数が稼げる優れモノ。

ようは漢字を覚えるのがかったるかっただけなのだが、上記のようなトンデモ理論を唱え続け、読む先生方の苦労を顧みず、ひらがな至上主義者として中学3年になるまで頑としてほぼひらがなだけの文章を書き続けた。

さよなら、ひらがな

ひらがな至上主義との別れは突然おとずれた。
それまでどんなに読みづらかろうとも、ひらがな至上主義としての尊厳を守るために活動してきたのだが、現実的な問題に直面してしまう。高校受験である。
これまでは大目にみられてきたけれど、入試問題(特に歴史!)では漢字で書いていないと撥ねられるため大幅に点数を落としてしまうことになる。
これまで通り「とく川家やす」と書いても丸がもらえない。当たり前か。

ひらがな至上主義者としての誇りと、入試の得点を天秤にかけ、私は割とあっさり誇りを捨て去った。そこからこれまでのツケを払い、「音」で覚えてきた用語を単語帳にまとめて書きまくり、地獄をみることになった。
こんでんえいねんしざいほう、とうかいどうちゅうひざくりげ、ふたばていしめい、びょうどういんほうおうどう、まぁよみづらいわな、いままでせんせいごめんなさい。

ひらがな至上主義もとい平仮名至上主義にさよならを告げ、今では人並みに漢字を書けるようになったのか、変換ボタンに頼っているのかは伏せておくが、今でもやはりひらがなが頭のなかで響かせる音は漢字とはまた違う趣があって好きだなぁと思うのです。

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