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【エッセイ】変革と心の傷

本を読んでいると、人生が変わる瞬間がある。まるで、小説の中で主人公ではなく、ヒール。つまり、悪役に感情移入して賛同してしまった時のように。

そうなると、非常に不思議なものでこれまで「自分が正義だ」と思っていたことが、本当にどうでも良いことに感じてしまう。自分の根幹を揺らがせる出来事、衝撃というのは、きっとそんなことなんだろう。

価値観が一変するということは、「自分が価値を感じたことに価値を感じなくなる」ということなんだから。もしくは「大事だとは思っていたけど」という感情から、「死ぬほど大事だ」という印象に切り替わるのかもしれない。

人生を変える瞬間、きっかけというのは、きっと人生でそうは多くないはずだ。毎日の生活の中で、度々価値観や視点が変わるきっかけはある。だが、毎回自分の人生を大きく揺らすような出来事に発展するかといわれるとそうではない。

人は変化を恐れる生き物だ。変化を嫌い、今そこにある現実にしがみ付く事で精一杯の、とても悲しい生き物なんだと思う。ちょっとした出来事で、すぐにナイーブな感情を抱き、割と簡単に「もう人生がつかれた」と口にする。

口にしたところで、特に何も思わない。だって、それは「表面上本当にそう感じていること」だからだ。なんとも贅沢な悩みだと思うが、現代人は「今自分が幸せだろうか?」という問いを、自分に投げかけることができる環境にある。

しかし、この問いかけが最も非情な問いかけだ。だって、「もしかしたら」という問いには、答えがないからだ。答えもないし、自分の選択や信念を揺らがせる出来事しか、人生では発生しないんだ。
だから余計に、「私はさらに幸せになれたんじゃないか」「実は不幸じゃないか」という疑問がわく。この疑問は不思議なもので、気が付いた瞬間には「私は不幸である」という結論を導き出しているのだ。

他者視点で見れば、「なんだか不思議」である問題だが、この疑問のすり替えは、よく見られる。それは、僕のような若い世代には特に顕著だ。
メンタルが弱くなった、と言って批判する人もいるだろう。確かに、人にやさしい世界になり、きっと多くの人は「優しい環境」で育ったかもしれない。そして、「傷つくことに慣れていない」ということも、実際問題あるだろう。
僕だって、殴り合いの喧嘩なぞほとんど経験がない。物理的にも心理的にも、傷つく事を簡単に許容するのは難しい問題だ。

だからこそ、今は「傷つけない」という方法がとられている。多くの人が「他人を思いやって」という。この反面、「自分を押し殺せ」「求められるキャラクターを演じろ」となっているのだ。これは、不思議なことで「自分を失うことでお互いを守る」という状況なんだ。

さて、本来守りたかった「君」と「私(僕)」という存在はどこにいるのだろう?演じた、求められた、そんな自分しかいない空虚な世界で、何を守り、どう自分を庇護し、生きていけばいいのだろうか?

僕たちは「互いを思いあう」という行為の代償に、「自分を見失い、ガラス細工の心を差し出す」という行為をしている。ただ、それは本当に辛いことで、ちょっとしたことでその心は深手の傷を負うことになる。

壊れた心の修復は容易ではない。本当に守りたいものは何だろうか?ただしい世界の形はどうなっているのだろうか?

そんなことを考えながら、今日も本を読む。
ちょっとだけ、人を傷つける勇気。傷つけられる勇気をもって、行動していくことが求められているのかもしれない。
そう思いながら。

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