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月の涙

 波の音を枕にして眠る。白い砂浜に身を横たえ、じりじりと照り付ける太陽の熱を一身に受けながら。目を瞑っていても、視界は鮮やかな赤に染まる。自分の中に流れる血と、波の音が、私がまだ生きているのだということを教えてくれる。いや、思い知らせてくれる。
 ここは本土から離れた無人の孤島だ。電気もガスも水道もない。雨風を凌ぐ家はあるが、食料は自生するバナナの他は海の魚を釣るしかない。知識さえあれば、食べられる野草もあるかもしれないが、一度試してひどい目に遭ったので、それ以来口にしていない。後は季節ごとに一度だけ食材や衣類などの配給があるが、すべてをそれで賄うことはできない。
 私が孤島の生活に甘んじているのは、それが私に課せられた刑だからだ。懲役三十年。その刑務所がこの天然の孤島というわけだ。そしてその刑期は、まだ半分を終えて折り返し地点に差し掛かったに過ぎない。
 唯一の楽しみは電池で動くラジオだ。ラジオもこの孤島まで届くのだと知ったときは、感激で涙が溢れてくるのを禁じえなかったほどだ。
 浜から上がってくると、今日もスイッチを入れる。放送局はずっと一か所に合わせたままだ。「ラジオ・フレニール」、フレニール社という会社が運営するラジオ放送局らしいのだが、残念ながら私はその詳細な情報を入手できる立場にない。ラジオもそれは教えてくれなかったが、「サエコ・フレニール」という女性がメインパーソナリティーを務めているから、彼女、ないしは彼女の身内が経営する会社なのだろう。
 「ラジオ・フレニール」はニュース番組から娯楽番組、通販番組(私には無縁なものだが、聴いているだけでも楽しい)、我が国の歴史や、学生に向けた教養番組など幅広く放送してくれるので、飽きることがない。
 「サエコ・フレニール」は私が配流されてきた年に初めて二十五でパーソナリティーを務めたから、今では四十になっているだろう。ラジオから知ることができた限りの私生活では、結婚し、子どもも二人いるらしい。可愛らしい男の子と女の子。だが、その耳に心地よい、温かなぬるま湯に浸かっているような声は些かも衰えない。
 そのサエコの引き締まった真剣な声がラジオから響いてくる。
「さて、本日は月の涙事件から十五年の日。わたしたちはあの事件を忘れてはならないと、毎年特集を行って参りました。そこで今年は特別ゲストにスタジオにお越しいただいております」
 私はこの日のために取って置いた貴重なコーヒー豆をミルで挽き、コーヒーを淹れた。そのカップをテーブルに置き、バナナをスライスして焼き、はちみつをたっぷりかけたバナナステーキを並べると、椅子を海側の窓に向けてそこに腰かける。
「十五年前、殉職された浅賀議員の一人娘、愛佳さんです」
 しばし間があり、感情を抑えた低い声で、「浅賀愛佳です。よろしくお願いします」と緊張しているのだろう、声が小刻みに震えていた。
「愛佳さんには辛い思い出の話になるかもしれませんが、よろしいですか」
 サエコの声には心からの労りが感じられた。もし浅賀愛佳がやっぱり無理だと拒否しても、サエコはそれを快く受け入れるだろうと思った。浅賀愛佳のフォローも忘れずに。
「父は当時国民のみなさんから嫌われていましたから。でも、いえ、だからこの場に来たんです」
 浅賀愛佳の声は決然としていた。それはどこか、選挙遊説を行っていた彼女の父の姿と重なるな、と思った。
「確かに浅賀議員の目指していたことは、この国の政治理念に反するものでした。だからといって、国民がみんなあの事件の首謀者たちの味方だとは思わないでください。むしろ、世論はあの過激派の行為を非難していたのですから」
 サエコの言葉が熱を帯びる。加速する。今彼女の頭の中は、パーソナリティーである自分、リスナー、そして浅賀愛佳のことしかない。その三者の関係を彼女特有の演算装置で計算して言葉を選んでいる。言葉が熱量をもつのも、冷えるのも、すべては彼女の計算だ。彼女は一見人情に篤い一面を多く見せるかと思えば、毅然とした意見を呈することもある。情熱と冷静がせめぎ合い、その狭間で超然としているのがサエコ・フレニールというラジオパーソナリティーなのだ。
「それでは、当時の事件のことを振り返ってみましょう」
 サエコは熱を抑え、事務的な口調で言った。
 コーヒーを一口啜り、安楽椅子に深くもたれて揺らしながら、目を瞑る。小さな宝玉がこすれ合って奏でるような波の音を耳にし、椅子に揺られていると、原初の揺り籠にいるようだった。私の思考が、時を遡る――。
 私は二十代の頃、「赤い灰猫」と名乗る反政府組織に所属していた。反政府組織といっても、政府が国民の意を無視した舵取りをしなければ、ただ集会を行って政府の動向を確認するだけの集団だった。武器、弾薬の類は保有していたが、それを使う日がくるなどとは、組織の指導者を始め、誰一人として予想していなかった。
 元は大学のサークルの集まりだった。ソフトボールをするサークルで、ソフトボールだけでなく、飲み会も頻繁に行ったので、メンバー同士すぐに打ちとけた。すると後のリーダーの斉木が自分は未だに戦隊ヒーローに憧れがあると打ち明けた。
 それをみんな面白がって囃し立て、じゃあああしたらとかこうしたらと笑い話を進めている内に、この国の正義を見守る五つの集団(戦隊シリーズは五色が定番だった)を作ろうということになり、五つの集団を実際に作った。そして私はリーダーである「赤」の集団に所属することになった。
 テレビや新聞の報道、ネットの情報を元に、私たちはあの議員は許せないとか、政治と金の問題はなくならないな、と喧々諤々議論を戦わせて、それで酒を飲み満足していた。
 だが、リーダーの斉木の兄が省庁の職員だったが、議員の要望(悪事に目を瞑れという)に応えなかったために抹殺された事件をきっかけに、斉木は裏のルートから武器を仕入れたり、犯罪に加担して資金を集めたりと、不穏な動きを見せるようになった。けれど、斉木は理性的な男だったし、復讐心を暴発させるようなことはあるまいとみんなタカを括っていた。政治的にも、国の根幹を揺るがすような、それほど大きな問題は起こらないと根拠なく信じていた。
 だが、政府の中に危険な思想をもつ一派が現れた。我が国の議員は、かつては国民の代表などと持て囃され、己の職責を亡失した愚かな政治を行う時代があったそうだが、今では国民の僕として、主に仕える如く政治を行うべし、というのが政治の在り方だった。
 しかしその一派、浅賀義人率いる、義人派と呼ばれる集団は、かつての政治の在り方に復古すべし、と声高に主張して、テレビやネットなどのメディアを利用することを厭わなかったため、国民への悪い影響力が大とみなした「赤い灰猫」は、長く、繰り返した議論の末に、義人派の議員を誅殺すべし、という結論に至った。
 斉木は一人でもやる、と息巻いていた。だが、斉木が事を行えば、メディアは兄の事件と関連付け、斉木の復讐劇に仕立て上げられてしまうかもしれない。それは斉木の本意とするところではない。
 だから、当時幹部だった私は、義人派が都内のホテルで会合を行うことを入念な調査の結果把握し、斉木が動き出す前に、武装した構成員五名を連れて、義人派の会合を襲撃したのだ。
 最新鋭のライフルやマシンガンで武装した我々にたかが議員の護衛の歯が立つわけもなく、私たちは易々と集会の会場に乗り込むことができた。そこで私は浅賀義人を押さえつけ、正義により誅殺することを宣言し、浅賀の頭を吹き飛ばした。それを合図に、構成員は銃を乱射し、その場にいた議員及び関係者全員を射殺した。
 すべてが終わり、死体の山とむせ返るような硝煙と血の臭いに包まれたとき、私に去来したのは虚しさだった。中には高揚感に歓声を上げている構成員もいたが、私は到底そんな気にはなれなかった。
 浅賀や多くの議員の命と引き換えに、私は自分の人生を捨てたのだ。人生は一度しかない。国の政治がどうあろうとも、自分の命と人生を守ってくれるのは、自分しかいない。そう考えれば、浅賀の主張がごとき、蟷螂之斧であり、一顧だにする価値のないものだったのではないかと思えて仕方なかった。私たちは斉木の復讐心に引っ張られ、狂気を加速させ、進むべきではない道に進んだのではないかと。
 私は起こした事件の責は負わねばならない、と説得して、五名を逃がし、私一人が会場に残って警察がくるのを待った。自決することも考えた。だが、それでは責任をとったことにはならない。然るべき裁きを受けてこそ、この事件の贖罪となる、そう考えた。
 私には結婚を約束した女性がいた。美しい人だった。黒髪に青い瞳。麦わら帽子を被って空色のワンピースを着た彼女の姿が、脳裏から離れなかった。何度も頭の中で謝罪を繰り返した。
 浅賀にも家族がいることは分かっていた。それ以外の議員にも。妻や夫や子ども。各々大切な守りたいものがいたのだ。生きる目的は同じだったのに、どうして我々はボタンを掛け違ってしまったのだろうか。十五年経った今も、私には分からない。誰も教えてくれない。サエコ・フレニールでも。
――これが、月の涙事件の全容です。
 どこか遠くで、サエコの声を聴いている気がした。
「ここまで振り返ってきて、浅賀さんは、主犯格の鳴河に対して思うことはありますか」
 コマーシャルを挟んで明けた第一声でサエコは、浅賀愛佳にそう訊ねた。
「父を殺してくれたことを、感謝します」
 徹底的に凍てついた、浅賀愛佳の冷たい言葉にあのサエコですら、「え?」と呆気にとられて固まった。
「それはどういう意味、ですか?」
「言葉通りの意味よ。メディアは父を悲劇のヒーローに仕立て上げたいみたいだけど、あたしはそんなこと許さない。父はヒーローなんかじゃない。暴君だった。気に入らないことがあるとあたしや母をよく殴ったわ。家の中のものを手当たり次第に投げるから、家の中は滅茶苦茶。母はお客様に無礼があってはならないと父にきつく「しつけ」られていたから、片づけに必死だったわ」
 私は心臓が早鐘を打つのを感じていた。私の行いは一人の少女を救ったのかもしれない。だが、だからといって正当化されるものでもない。けれど、私は恨まれていたかった。浅賀愛佳に呪詛の言葉をぶつけられることを期待してラジオのスイッチを入れた。誰かに恨まれている、その実感を得られることこそ、この長い刑期の救いのようなものだった。
 浅賀愛佳が恨まないなら、誰が私を恨んでくれる。他の議員の遺族か。だが、ラジオ・フレニールが今回のようなリスクを承知で他の遺族を呼んでくることは考えにくいし、何よりあの事件では浅賀義人こそが象徴だった。他の議員では印象が薄い。
「あたしを摘まみ出す? これ以上喋られたら番組にならないものね」
 挑戦的な口調で浅賀愛佳は言い放つ。サエコは思案しているのか、声を出さない。やがてディレクターなどが入ってきて浅賀愛佳を連れ出そうとすると、サエコは厳しい声でそれを咎め、「番組はこのまま続行します」と断言した。
「浅賀愛佳さん」
「なにかしら」
 彼女の声音には虚勢を張った空虚さがあった。
「わたし個人の話をしてもいい?」
 サエコは浅賀愛佳の緊張を解きほぐすように穏やかで優しい声で問いかけた。声はするりと浅賀愛佳の中に入り込んだのか、彼女は「ええ、どうぞ」とつっけんどんではあるが、サエコの言葉に反応した。
「首謀者の鳴河は、わたしの昔の恋人です。結婚を約束してもいたわ」
 スタジオがざわつくのが分かる。私はコーヒーを取り落とし、思わず立ち上がっていた。
「だめだ。やめるんだ、サエコ」
 かさかさに乾いて軽い響きしかもたない私の声に、自身が驚きながらも、届くわけがないと分かっていたが訴えかけずにはいられなかった。
「彼はリーダーの斉木に罪を犯させないため、自分が実行犯になった」
 ふん、と浅賀愛佳は鼻を鳴らした。「そんなの斉木の手記を読んで知ってるわ」
「じゃあこれは知ってる?」
「なによ、もったいぶらずに言えばいいじゃない」
 サエコは息を飲んだ。そのまま、言葉を飲み込め、と私は念じる。
「浅賀議員の抹殺を命じたのが、わたしだということ」
 スタジオのざわめきが強まる。遠くで止めろ、という声が聞こえるが、放送は止まらない。ディレクターは何をしているんだ、と私は焦れた。だが、サエコは走り出してしまった。そうなったら、誰にも止められない。
「はあ? なんであなたが……」
「わたしは鳴河とではなく、フレニール家に嫁入りすることが決まっていた。ラジオ・フレニールは反浅賀の立場をとる放送姿勢だった。それが気に入らない浅賀は不祥事をでっちあげてフレニールを潰そうとしたの」
 テーブルを叩く激しい音がした。恐らく浅賀愛佳が叩いたのだろう。「だから殺したの!」と鋭く叫んでいた。
「そう。フレニールを守るにはそうするしかなかった。わたしは鳴河に頼み、彼はそれを承諾した。だから、本来裁きを受けるべきなのはわたし。彼は今も一人遠い孤島で己の罪と戦っている。でも、一人じゃない。わたしも共に償うから。ごめんなさい。わたしはいつもあなたに甘えて、困らせてばかりで。一緒に償う覚悟ができるまで、十五年もかかってしまいました。この言葉を聴いているか分からないけど、あなたに届くことを祈っています」
 頬を叩く甲高い音が鳴って、「人殺し!」という浅賀愛佳の絶叫が響き渡る。
「どうしたの。お父さんを恨んでいたのではないの」
「恨んでいたわよ。でも、政治の、理念のために死んだと思っていたかった。くだらない父親だったからこそ。あんたの、家の保身のためなんて。しかも、仕掛けていたのが父だなんて情けない……」
 浅賀愛佳は泣きじゃくっていた。
 サエコはゆっくりと、「ごめんなさい」と口にした。それが誰に向けての謝罪だったのか、私は安楽椅子の上に力なく崩れてしまって、その後の混沌の坩堝のような放送を聴いてはいなかった。
 翌日、習慣のようにラジオ・フレニールを点けると、メインパーソナリティーが若い娘に代わっていた。一日中ラジオにかじりついていたが、結局サエコが現れることはなかった。その次の日も、さらに次の日も――。サエコの声がラジオにのることはなかった。
 そしていつしか、私はラジオを聴くことを止めてしまった。そうすると、一日の大半が虚無の時間となった。食料を調達したり、湯を沸かして体を洗ったりと、身の回りのことを惰性のように済ませる以外、空っぽだった。
 浅賀愛佳は私を恨んでおらず、サエコは私との関係、罪を暴露して姿を消してしまった。私は自分の感情をどこに置いたらいいのか分からなかった。贖罪。贖罪とはなんだ。この空虚な時間に、己の罪を悔いて許しを乞うことか。だが誰に。神にか。生憎と私は無神論者だ。その場合、誰が私を許す? そもそも許しを乞うという考え自体、都合がいいのではないか。世間が期待しているのは、大事件を起こした犯罪者が自分たちの近くに戻ってこないことだ。なら、永遠に戻らない方が望ましいのでは。
 私は何ももたず、海に飛び込んだ。少し進むと足が立たないほど深くなり、引き寄せる波の力も強くなる。私はあっという間に魔物のような海流に飲み込まれ、いざ溺れてみると恐怖に駆られ、混乱して体の中にあった酸素を吐き出してしまう。手で足でもがくが、何も掴めない。上下左右が分からなくなるほど流れに揉まれる中で、私は一匹の小さなクラゲが流れるように泳いでいくのを見た。クラゲは海の月と書くな、と思った。
 あの事件が月の涙事件と呼ばれるのは、あの日の夜、事件があったのと同時刻、一つの流星が月から涙のように零れ落ち、流れて見えた現象が確認され、世間の話題となったことに由来する。
 海の中の月、クラゲはその触手をたなびく涙のように伸ばしていた。私が逮捕されるとき、それを群衆の中で見守り、涙ながらに振り切ったサエコのように。
 気が付いたとき、私は元の島の波打ち際に倒れていた。視界の先を小さな蟹が横切っていく。
 生きたのか、生かされたのか。
 私は仰向けになって、空を眺めた。いつの間にか夕刻になって、赤と青のせめぎ合いの狭間に、輝く星々と月が見える。
 生きよう、と思った。誰が恨もうと恨まなくとも。この世に生まれ落ち、他者の命を奪って生き延びている以上は、生きる義務があると思えた。サエコもどこか遠い空の下で生きている。浅賀愛佳も。生きることは、もう死んだ人間にはできない。だから、生きねばならない。
 海月が海を泳ぐように。流星が月から零れ落ちるように。

〈了〉

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