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重ね夢

著:水瀬 文祐 約6000字


 隙間風が吹いている。行燈の火が揺らめき、女の影が踊るように揺れる。
 行燈は女の後ろに下げられ、女の顔は黒い影となって塗りこめられていた。隣に座って、酌をしていたときに嗅いだ金木犀のような香り、それしか覚えていない。
 どんな顔をしていただろうか、啓之進は自分の顔形すら確かめるように火照った頬をつるりと撫でた。
 つい飲みすぎた。同僚の同心の石塚が女、それも美しい遊女の前でほめそやすものだから、いい気分になって勧められるままに杯を重ねてしまった。初心な啓之進は女と何を話していいものか分からず、かと言って朴念仁と思われるのも自尊心を傷つけるので、酒を飲んで誤魔化した。
 その石塚は、いつの間にか姿を消していた。目の前の遊女の他に、もう一人いたやせぎすで、器量が劣る遊女の姿もない。
「わたくしがお分かりですか、啓之進さま」
 女の声が踊る影の中から響いてくる。
 啓之進は左手で刀の鞘を握った。冷たく滑らかな漆塗りの鞘の感触は、心を落ち着けてくれる。
 目の前には非力な女が一人。何を恐れることがあろう。この刀があれば、女が何を企んでいようと、首を刎ね飛ばすことぐらい、造作もないこと。
啓之進は狂気を帯びた笑みを浮かべた。
「わたくしは永夏(ながなつ)。しがない遊女にございます」
 永夏は諸手を突いて頭を下げた。永夏の姿の奥に、布団が敷いてあるのが見える。
 啓之進は獣じみた笑みを浮かべ、そして表情を強張らせ、顔色がさっと潮が引くように青ざめた。
 布団には誰か眠っていた。人の膨らみが見て取れる。そしてその袂には香炉が置かれ、線香が一本煙をくゆらせていた。
「貴様、一体何を企んでおる」
 永夏は凄んで声を荒げた啓之進が可笑しいのか、ころころと笑った。
「何をそんなに怯えなさいますか。ささ、近づいて見てやってくださいな。本人も喜ぶでしょう」
 啓之進は二の足を踏んで畳の上で踏み込んだ右足をじりじりと近づけてみたり、引いたりしてみたりした。
 永夏はほほ、と笑った。「お武家さまの癖に、気弱でございますこと」
 永夏の侮辱ともとれる言葉に、啓之進の頭に一気に血が上った。それは酒の酔いの助けもあったかもしれない。酒は、間違いなく啓之進をいつもより豪胆にすれば、浅慮にもした。
 のっしのしと畳を踏み荒らし、永夏を押しのけて布団のそばに胡坐をかいて腰かけ、覗き込んだ。布団の主は部屋に蔓延る闇に飲み込まれていて、その顔が見えない。
「ええい、見えんではないか」と吠えて啓之進は行燈を引き寄せる。影が釣り上げられた魚のように激しく揺れた。
「お久しゅうございます。わたくしの兄の、一ノ瀬重玄(いちのせしげん)でございます」
 啓之進は行燈を手にしたまま動けなかった。そこに眠るように横たわっているのは確かに一ノ瀬だった。額がざっくりと割れて傷は目まで達し、顔面は蒼白だ。生きているようには見えなかった。
 だがおかしいぞ、と酔いと目の前の現実とに混乱していた頭でも、一ノ瀬の葬儀と、間違いなく埋葬された場面は思い出せた。ならば、目の前のこの一ノ瀬はなんだ?
 一ノ瀬重玄は啓之進の上司に当たる与力で、年は三つ下だった。蘭学を学んでいたとかで西洋かぶれなところがあり、啓之進たちのなすことにいちいちケチをつける鬱陶しい上役だった。何も知らぬ若造の癖に、と心中で言い返したのも一度や二度ではない。表面は従順を装ったが、一ノ瀬の言うことなどどの同心も聞かなかった。
 その一ノ瀬は、今から一年前のちょうど今日、辻斬りにあって殺された。刀も抜かず、背中を斬られていたことから、戦わずして逃げたのだと嘲笑の的になった。啓之進も同僚と一緒になって笑った。
「違いますでしょう」、永夏は啓之進の心中を見抜いたかのように、湖面のように凪いだ声で言った。
「あなたさまが、率先して噂を流したのではありませんか。一ノ瀬重玄は刀も抜かずに逃げ出し、無様に背中を斬られた、武士の恥さらしだと」
 そ、それは、と声を上げようと膝を立たせかけた啓之進を、永夏は人差し指をそっと唇に当てて、艶然と微笑み、押し留める。
「兄が、申したいことがあるそうでございますので、お静かに」
 啓之進が弾かれたように布団に横たわる一ノ瀬を見ると、彼は傷を負っていない右目を開けてじいっと啓之進を見つめていた。
 ひいっと悲鳴を上げて尻もちをつき、下がろうとする啓之進を、一ノ瀬は地の底から響くような冷ややかな声で笑った。
「啓之進。わしは痛いぞ。背中の傷が。だがそれより痛いのは、下手人がお前だと見てしまった、とどめの額の傷じゃ。なぜ、背中の一太刀で仕留めてくれなかったのか」
 は、は、はと一ノ瀬は声高らかに笑った。体を揺すって笑ったので、半ばまで切り裂かれた左の眼球が目から零れ落ち、ころころと転がって啓之進の目の前で止まった。
 眼球はじっと見つめていた。物こそ言わねども、恨みが立ち昇っているような気がした。
 むかむかしてきた啓之進は、立ち上がって足で眼球を踏み潰した。柔らかく、また弾力のあるものを踏んだような、気色悪くも不思議な感触だった。音を立てて眼球は潰れると、粘液をまき散らした。啓之進の足にもそれがつき、その不快さに舌打ちした。
「お前は犬のような男よ、啓之進。群れなければ何もできず、怯懦な性質じゃ」
 黙れ、と叫んで啓之進は腰の刀を抜き、横たわる一ノ瀬の首を刎ね飛ばした。
 一ノ瀬の首は跳ねて襖に当たり、襖に描かれた山水が朱に染まった。
 首はくふふ、と笑い、「犬が吠えておるわ。のう、永夏」と啓之進を一瞥し、永夏に親し気な眼差しを送った。
「可愛らしい子犬のようでございますわ」と永夏もそれに応じてくすくすと笑う。
 啓之進は完全にのぼせ上り、正気を失いつつあった。「己ら、愚弄するか」と悲鳴にも近い叫び声を上げると、永夏に突進し、彼女の髪を掴むと首を一文字斬りに斬り落とした。
 激しく息を吐きながら永夏の首を投げ捨てると、彼女の首もまた転がって啓之進の方に向き直り、「すこしおいたが過ぎたようでございますこと」とほほ、と可笑しそうに笑った。
 部屋の隅に置かれた、ずんぐりとした造形の、土偶のような人形。だが、顔だけは生々しいほど美しい少女のものだった。その人形が口をかたかたと揺らして笑った。
 一ノ瀬、永夏、人形。三者の愉快そうな笑い声は部屋を渦巻き、啓之進の平衡感覚を狂わせた。長く聞いていれば狂気の淵に落ちてしまいそうな、魔性の声だった。
 啓之進は声を振り払うように耳を塞いでいやいやをした。それでも止まぬと分かれば、刀を手に取ってでたらめに振り回した。
 啓之進が我に返ったとき、部屋の中は人で満ちていた。薄い影の色を纏った人の群れ。その中には見覚えのある顔もあった。功ほしさに罪をでっちあげて捕まえた職人の若者。刀の試し斬りに斬って捨てた夜鷹の女。その他、自分が死へと追いやった者たちがそこで蠢いていた。そしてみな等しく、匕首を手にしていた。
 啓之進は吠えて刀を振るうが、影のような彼らには斬った手ごたえがなく、揺らめきながら近づいてくるのを止める術がない。
 一ノ瀬と永夏は声を揃えて笑い、「一切合切己を裁くのは己でございます」と言うと、人形がそれに応えるように、「因果応報」と野太い僧侶のような声を放つ。
 影たちは一斉に啓之進の体に匕首を突き刺していく。悲鳴は蠢く影の中に吸い込まれるように消えていった。

 はっと目を開けると、自分がぐっしょりと汗をかいていることに啓之進は気づいた。顔に風がそよいでいる。視界の隅を団扇がかすめては消え、かすめては消えていく。誰かがおれの顔を仰いでいる、とまだぼんやり思考が定まらない頭で考えた。
「お目覚めですか。随分とうなされていらしったようですけど」
 頭の下に柔らかい感触がある。頭を動かしてみると、若い、美しい女の顔がすぐそばに見えた。どうやら女の膝の上にいるらしい、ということは分かった。
 視界がぼやけている。だが耳に響く声には覚えがある。
 混濁した意識がはっきりすると、啓之進の前に永夏の顔が現れた。彼は飛び起きて永夏から離れ、腰の刀に手をかけた。
「まあ。そんなに怯えなすって。よほど怖い夢を見てらしたのね」
 永夏はゆっくりと啓之進の腰のものに視線を落とすと、おもむろに顔を上げて啓之進に微笑みかけた。
 啓之進は部屋の中を見渡した。部屋には煌々と灯りがたかれ、影や闇になっている部分はない。隣の間に布団が敷いてあるが、人が寝ているということもない。
 体を探ってみても、影たちに刺された無数の刺し傷は消えていた。襖には夢で見た山水の画があったが、血の跡はどこにも見当たらなかった。
「夢であったか」と啓之進は刀から手を離して額の汗を拭った。汗はすっかり冷え切っていた。
 ふうと一息吐いて顔を上げたとき、部屋の隅に土偶のような少女の人形が置いてあることに気づいた。
「永夏。あの人形はいつからある」
 永夏は振り返って人形を認め、ああ、とさして興味もなさそうに頷くと、「いつからでございましょう。わたくしがこの店に来る前からあったのではありますまいか」と感情のこもらぬ声で言って、「さあ一献いかがです」と銚子を啓之進の方に差し出した。
「とぼけるな。知っておるだろう」
 啓之進は鯉口を切って刀を抜き、永夏の首筋に突きつけた。
 永夏はひるむ様子もなく、「お斬りになったらいかがです」と小首を傾げて微笑んだ。
「斬られようと喋らぬ。そういうことか」
「いかようにも解釈なされませ」と笑顔で頷いた瞬間、啓之進の刀は永夏の首を刎ね飛ばしていた。
 人形と永夏、それからいつの間に現れたのか、一ノ瀬の首が啓之進を囲んでかたかたと笑っていた。それから灰色の影が現れた。影たちは匕首を構えていた。
 啓之進の絶叫が、響き渡る。

 はっと目を開けると、自分がぐっしょりと汗をかいていることに啓之進は気づいた。顔に風がそよいでいる。視界の隅を団扇がかすめては消え、かすめては消えていく。誰かがおれの顔を仰いでいる、とまだぼんやり思考が定まらない頭で考えた。
「お目覚めですか。随分とうなされていらしったようですけど」
 頭の下に柔らかい感触がある。頭を動かしてみると、若い、美しい女の顔がすぐそばに見えた。どうやら女の膝の上にいるらしい、ということは分かった。
 視界がぼやけている。だが耳に響く声には覚えがある。
 混濁した意識がはっきりすると、啓之進の前に永夏の顔が現れた。彼は飛び起きて永夏から離れ、腰の刀に手をかけた。
 これでは夢と同じではないか、と啓之進は歯ぎしりした。
「これは夢か、現実か。お前はそこにおるのか、永夏。それとも存在しない化生か」
 永夏は見るものを蕩かすような甘い笑みを浮かべると、「重ね夢、ご存じですか」と内緒話をするように声をひそめて訊ねた。
 いや、と短く答えながら、啓之進はじりじりと距離を詰め、刀の鯉口を切る。だが、永夏の首を飛ばしたところで意味がなさそうなことは、彼にもうすうす分かってきていた。
「夢に夢が重なり、それが螺旋のように続くのです。終局まで向かった夢はまた始まりに。永劫出ることが叶わぬ夢の牢獄、それが重ね夢でございます」
 ばかな、と鼻息荒く言って啓之進は一歩前に踏み出す。
「夢ならば覚めるが道理。眠り続ける人間など聞いたこともないわ」
 永夏はすっと立ち上がり、裾を払い、「あなたさまが信じたいようになされませ」と踵を返すと、部屋の隅に置いてあった土偶のような少女の人形を抱え、襖を開けて出ていく。
 永夏が消えたことで我に返り、啓之進は永夏が消えた襖や、他の襖や障子を開けようと力を込めるが、どれ一つとして開かなかった。そして二度と、永夏が現れることはなかった。代わりに匕首を持った無数の影たちが現れ、啓之進は悲鳴を上げる。

 永夏は畳の上に仰向けに倒れ、何かを掴むように両手を差し出したまま痙攣している男を冷ややかな眼差しで見下ろしていた。
 男は目を見開いたまま、だが瞳孔は小刻みに震え、何ものも捉えない状態で、口からは泡を吹いていた。体も凍え死ぬ寸前の犬のように震えている。
「金治、おりますね」と永夏が呟くように言うと、「ここに」と膝を突いた老爺が襖を開けて、油断ない足取りで永夏のそばに控える。
「完全に術に堕としました。もう殺して結構です」
 感情の宿らない瞳で痙攣した啓之進を一瞥すると、永夏は袖を翻して踵を返した。
 はっ、と短く答えた金治は腰の刀を抜くと上段に構え、気合の声とともにそれを振り下ろした。
 太刀筋は淀みのない軌跡を描き、刃は畳に触れる寸前のところで止まっている。
 ごろり、と切断された啓之進の首が転がり、金治は懐紙で刃の血を拭うと、刀を鞘に納めた。
 切断されたはずの啓之進の胴体は変わらず細動し続け、目や口はかたかたと震え続けた。
 金治は背負った暗紫色の風呂敷を下ろすと、桐の箱を開け、慣れた手つきで震えている首をその中に収めると、一緒に背負っていた塩を塗りこみ、流し込んで塩漬けにして蓋をし、麻紐で厳重に縛ってまた風呂敷で包んだ。
「首は例のごとく、依頼人に」
 そうね、と鷹揚に永夏は頷いて、「胴体は小太郎たちに始末させなさい」と指示した後で、「御意」と金治が下がろうとするのを呼び止める。
「確か脱藩の依頼がありましたね」と思い出したように言う。
「ええ、何でも無実の罪を押し付けられて裁かれるのだとか」
 ふうん、と永夏は人差し指を顎に沿わせて思案し、「今回の体、そっちの依頼で使えないかしら」と振り向いて言う。
「むう。難しいですが、やりようによっては」
「なら、精々活用させてもらいましょう。仕込みは金治、あなたに任せるわ。わたくしは罪を押し付けてのうのうと逃れている、真の悪人を重ね夢の中に堕としましょう」
 永夏の美しくも凄惨な笑みに、長年そば仕えをしてきた金治ですら鳥肌が立った。やはりこのお方はただものではない、と金治は確信して微笑し、「おひいさまの思し召しのままに」と答えて部屋を後にした。
 永夏は唇を尖らせ、ふうと行燈の火を吹き消す。部屋の中には完全な闇が落ちる。するすると衣擦れの音が、芝居の幕が下りるように響き、そしてやがて無音が訪れた。だが、よく耳を凝らすと聴こえるはずだ。無限の夢の中に堕とされた啓之進が、少しでも進もうと蠕動する音が。

〈了〉

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