見出し画像

20200407_Book_若い読者に贈る美しい生物学講義〜感動する生命の話

320ページ 
読書時間:8.5時間

サイエンス ダイヤモンド社 更科功

筆者について
1961年東京都生まれ
東京大学教養学部基礎科学科卒業
民間企業勤務を経て大学に戻り東京大学大学院理学系研究科修了。

/*ざっくりとした本のポイント
生物学の細かい内容については正直ミトコンドリアとかデオキシリボ核酸とか、難しすぎて読み飛ばしてしまった。興味がある人は読むといいと思う。でもそれよりも、この更科さんの強いメッセージとして、「どんな学問も生物も美しく優劣などない、そしてその美しさを見つけられるかいなかは、それに向き合う人の目しだいである。」この考え方が素晴らしいと思った。また、もう一点、科学とは?の内容にある、「科学における仮説形成→検証のプロセス、100%正しい仮説は存在しない」という部分の説明がわかりやすく、特に面白かった。*/

◼︎はじめに
◼︎◼︎過去の科学と現在の科学に対する考え方の変化
/*要約:「万能の天才」が消えた今、便宜上分断された科学だが、それでも科学は一つである。*/

ネッサンス期に生きた、万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてミケランジェロ。
ドイツの文豪で科学者のゲーテ。
科学の世界においてはイギリスのロバートフック 
物理学の領域ではバネの弾性に関するフックの法則を提唱し、化学の分野でも、気体に関するボイルの法則を作るのに重要な役割を果たし、生物学の分野でも、細胞を発見し、地学においては進化論を唱えていた。

だが現代の科学はあまりにも巨大化し、一人の人間が全ての分野を精進することは不可能になってしまった。

しかし、いくら巨大化したとしても科学は一つで、物理学、化学、生物学、地学などと分けることもあるがそれはあくまでも便宜上のもので
それぞれの分野は密接に絡み合っている。

だから本当は、「万能の天才」のように、科学を広く研究したい。
だけどそれは無理なので、たくさんの科学者が協力して科学を広く研究している。それは仕方ないのだが、そうすると科学全体を視野に収めることはなかなか難しくなる。それでも少しでも広い視野を持つことは大切だろう。

◼︎◼︎科学における生物学を紐解く本書の目的 
/* 生物学に興味を持ってもらうことを目的とする */

この本は、「生物学のすすめ」ではない。例えば化学を専攻しようと考えている学生に、化学より生物学の方が面白いよ、
と伝えるための本ではない。

科学は一つなのだから、どちらを専攻してもその価値は変わらない。
それは科学に限った話ではなく、経済学や文学などを専攻しても、その価値は変わらず、どんな仕事であっても、その価値は変わらない。
そして必ずしも仕事をしている必要もない。生きているだけでも、それはかなり立派なことだ。

私は不良が出てくる漫画が好きで、とはいえ漫画を読んで明日から俺も不良になろうとは思わない。
それでも私の人生の時間は漫画を読むことに費やされ、私の人生を(たぶん)豊かにしている。
不良にならなくても、不良の漫画を読む価値はあるのだ。

この本は、生物学に興味を持ってもらいたくて書いた本である。
タイトルには「若い読者に」と書いたけれど、正確には「自分が若いと勝手に思っている読者に」だ。
好奇心さえあれば年齢は問わない。

◼︎◼︎内容の紹介 
/*一つ目と二つ目の項目が特に汎用性が高く面白かったのでこの要約では重点的に取り上げる。*/

・生物とは何か(1、3〜6章)
・科学とはどんなものか(2章)
 生物学も科学なので、その限界についてきちんと理解しておくことが大切だからだ
・私たちを含む動物や植物などの実際の生物の話(7〜12章)
・進化や多様性などの生物に共通する性質(13〜15章)
・ガンやお酒の影響などの身近な話題(16〜19章)

◼︎◼︎メッセージ
私は、人に誇れるような人生ではないにせよ、そこそこ楽しい人生は送ってきた(まだ終わっていないけれど)。
その楽しさの一部を私に与えてくれたのが生物学だった。
だから、もしも読者が、少しでも生物学が面白いと思ってくれれば、それだけでこの本を書いた甲斐がある。
生物学に関係がある生活をしていても、していなくても、生物学を面白いと思うことはきっとあなたの人生を豊かにしてくれる。
そして、この本を読んだ後で、生物学を好きになろうが不良になろうが、それはもちろん、あなたの自由である。

◼︎第二章 イカの足は10本か /* 科学とは */
/* 要約:科学とは、推測を行うことで新しい知識を広げることであり、100%正しい結論を出すことはできない。*/

生物学とは、生物に関することを科学的に調べることだ。
科学的という言葉には、客観的で揺るぎないとか、答えが一つに決まるというイメージがつきまとうが、科学は決して100%正しい結果は得られない。
この世の真理というものがあったとしたらそこにゆったりと近づいていく。
それでも決して真理に到達することがない。それが科学というものだ。

真理に決して到達することができないなら、科学なんかやる意味がないのではないという考えもあるかもしれないが、そうは思わない。
例)車を運転して会社に行くときに信号が赤になったので人は止まる。なぜそんなことをするのか。
信号を守っても100%安全なんてことはない。
いくら交通ルールを守っても決して100%の安全が得られないのなら、守る意味なんかないのではないのだろうか。

交通ルールを守っても、確かに100%は安全にはならない。でもかなり安全になるからだ。
世の中はゼロか100かのどちらかだけではない。中間がたくさんあるのだ。

科学の結果は完璧には正しくないけれど、かなり正しいからだ。
しかし★なぜ科学では100%正しい結果が得られないのか。

◼︎◼︎推測と演繹の違い
科学は100%正しい演繹ではなく、100%は正しくない推測を行うものである。

科学で重要なことは推論を行うことだ。
推論とは、根拠と結論を含む主張が繋がったものである。

・根拠:イカは足が10本である
・根拠:コウイカはイカである
・結論:したがって、コウイカの足は10本である

推論には推測と演繹の2種類ある。

推測:100%正しい結果は得られない
演繹:100%正しい結果が得られる

◼︎◼︎◼︎推論_1. 演繹
科学は新しい情報を手に入れようとする行為だが、演繹では、新しい情報は手に入らない。
演繹をしても情報は増えないのである。

根拠が成り立っていれば必ず結論が導かれるということは、結論は根拠の中に含まれているということである。
だからいくら演繹を繰り返しても、知識は広がっていかない。

◼︎◼︎◼︎推論_2. 推測
推測は100%正しくないが結論が根拠の中に含まれていないから、推測を行えば知識は広がる。

例1. )演繹
・根拠:池に落ちた
・結論:服が濡れている

 結論は100%正しいが、池に落ちれば必ず服は濡れるから結論を出しても話の聞き手は「当たり前だ」という反応になる。

例2. )推測
・根拠:服が濡れている
・結論:池に落ちた
 
 服が濡れているからといって、池に落ちたとは限らない。雨に濡れたかもしれずホースで水をかけられたかもしれない。
 だからこそ、これを話すと聞き手は「えっ、そうなの、知らなかった」という反応になる。

※補足情報_正しい主張と、逆・裏・対偶
 正しい主張は、逆裏は正しいとは限らない。そして対偶は必ず正しい。

逆:足が10本ならイカである
→エビも足が10本なので成り立たない

裏:イカでないなら足が10本ではない
→エビも足が10本なので成り立たない

対偶:足が10本でないならイカでない
→正しい

◼︎◼︎科学における推測の手順
科学は推測を行う。よくあるケースは、推測により仮説を立て、
この仮説を観察や実験により検証する。
検証結果により仮説が支持されれば仮説はより良い仮説となる。
だから、たくさんの観察や実験の結果によって、何度も支持されてきた仮説はより良い仮説となる。
そういう仮説は「理論」「法則」と呼ばれるようになる。
逆に支持されなかった仮説はより悪い仮説になる。

しかし、どんなに良い仮説であっても、100%正しくはないのである。それはなぜだろうか。
科学の手順にはいろいろあるが、以下2つの流れが多い。

1_仮説の形成
2_仮説の検証

◼︎◼︎◼︎推測_1_仮説の形成
※補足情報_コウイカの説明
 コウイカは、亀の甲羅に少し似た殻を体内に持つイカで、脊椎動物を覗き最も知能が高い動物である可能性が高い。

あなたは、暗黙の前提として、「イカは海にすんでおり足が10本である」ことを知っているとする。
その上であなたは、「コウイカが海にすんでいる」ことを観察した。
その証拠から、「コウイカはイカである」という仮説を立てたとする。

仮説形成の例)
・証拠:コウイカは海に住んでいる
・仮説:コウイカはイカである

あなたはこの仮説をどうやって立てたのかというと、証拠をうまく説明できる仮説を立てた。
ここで説明という言葉を使ったが、「説明する」とはどうゆうことか。

説明するとは、演繹をするということだ。
つまり、「コウイカはイカである」という主張が正しければ、「コウイカは海にすんでいる」という主張も100%正しいということだ。

◼︎◼︎◼︎推測_2_仮説の検証
仮説を検証するには、仮説から新しい事柄を予測しなければならない。
検証とは、証拠として使った事柄とは別の事柄を仮説から予測して、それが事実か確かめることだ。
もちろん新しい事柄は、仮説から演繹されるものでなければいけない。

仮説検証例)
・証拠:コウイカは海に住んでいる
 ↓(仮説形成)↑(説明=演繹)
・仮説:コウイカはイカである
 ↓(検証)  ↑(予測=演繹)
・新しい事柄:コウイカの足は10本である

あなたは、実際にコウイカを観察し、「コウイカの足は10本である」ということが事実であると確認したので
仮説は実証された。つまり、仮説はより良い仮説となった。

ところが、もしも新しい事柄が事実でなかったら仮説は反証され、より悪い仮説となる。

ここで注意すべきなのは
仮説は実証されたからといって100%正しくなったわけではないし、反証されたからといって100%間違っているわけではないということだ。

◼︎◼︎科学がどうしても100%の正しさに到達できない理由
科学の正しさは、仮説の正しさとイコールである。

仮説検証例のプロセスを見ると、仮説に向かう矢印は、仮説形成と検証であり、それは説明と予測(どちらも演繹)の「逆」である。
100%正しい主張の逆は正しいとは限らない。
★科学では仮説による説明や予測を「演繹」にしなければいけないので、
仮説の正しさを保証する仮説形成や検証が、どうしても演繹の逆になってしまう。
だからどうしても仮説に対し100%の正しさを保証できないのである。

/* 解釈:仮説検証例では「仮説」は一つしか記載がないが、仮説を「推測により生み出した結論」と言い換え、
「新しい事柄」もここでは「仮説」として読むと納得する*/

★新しい事柄を知るためには、100%の正しさは諦めなくてはならない。これは仕方ないことなのだ。

◼︎第3章_生物を包むもの /* 生物とは何か_1. 仕切り /仕切り・代謝・複製*/
◼︎◼︎生物とは何かを考える前提
ものの定義は変わる。だから生物の定義もあくまでも今現在の私たちのもつ知識で知っている定義であり、変わりうる。

例)時代で変化した電話の定義
・昔:私が子供の頃は電話の定義は「遠くの人と話せる持ち運べない機械」と答えただろう
・今:持ち運べない機械、とは答えないだろう。多くの携帯が持ち運べるようになったからだ。

生物とは何かの問いに答えることは難しい。
なぜなら現在の私たちは地球の生物しか知らないからだ。

◼︎◼︎現在の知識で考える、生物の定義
多くの生物学者が認めている生物の定義とは以下の3つの条件を満たすものである。

・外界と膜で仕切られている
・代謝(物質やエネルギーの流れ)を行う
・自分の複製を作る

意外と簡単な定義だが、今のところこの3つの条件を全て満たすものは生物しかいないのだ。

>>>省略>>>
◼︎◼︎細胞膜
◼︎◼︎◼︎細胞膜の細かい仕組み(〜P.62)
全ての生物は細胞でできている。そして全ての生物は細胞でできている。そして全ての細胞は細胞膜で包まれている。
一つめの条件である膜とは細胞膜のことだと考えて良い。

どうして生物は膜で外界と仕切られる必要があるのだろうか。
代謝を行ったり複製を行ったりするには、いろいろな化学反応が必要。
膜で仕切られた内部なら反応物質の濃度を高めることができるので化学反応を効率的に行うことができるからだ。

ではどんな膜で仕切ったら良いか。
生物は水中で誕生したと考えられている。理由はいくつかあるが、一つは化学反応が起きやすいからだ。
例)イカを乾燥させてスルメにすると腐りにくくなる。これは腐敗の科学反応が進みにくくなるからだ。

水中で仕切りを作るには、水に溶けないもので作るしかない。
脂である。(一般的に、液体のものを油、固体のものを脂という。)

しかし脂は水に弾かれるので、水面に押し出されてしまう。でも生物は、化学反応が起きやすい水中にいたい。
そこで疎水性(水に弾かれる性質)の油で仕切りを作りその両側を親水性(水に馴染みやすい性質)の物質でコーティングすれば
水中にいられる。これにぴったりの物質が両親媒性分子(一つの分子の中に、疎水性と親水性両方の部分を持っているもの)だ。
(細かすぎる)
◼︎◼︎◼︎何十億年も変化しない細胞膜
<<<省略<<<

◼︎第4章 生物は流れている /* 生物とは何か_2 代謝 /仕切り・代謝・複製*/

◼︎◼︎私たちと自動車が似ているところ /* 2 代謝_エネルギーが流れる*/
私たちは運動すればお腹が空く。運動で消費したエネルギーを、食べ物で補充しなければいけないからだ。
自動車も同じである。

でも私たちは何もしなくてもお腹が空く。

自動車でも似たようなことがある。自動車が止まっていてもエンジンが回っていればガソリンは減っていく。
しかし自動車はエンジンを止めればガソリンは減らない。これは私たちにはちょっと真似できないことだ。
でも真似できる生物もいる。
分子生物学の研究室では、しばしば大腸菌を冷凍保存する。冷凍してから10年以上経っていても回答すれば再び大腸菌は蘇る。
まるでエンジンを止めた自動車みたいだ。

とはいえ、冷凍保存されている状態を、生きていると言えるかどうかは微妙である。
ここでは冷凍保存されていない状態、つまり生きている状態の生物について考えていくことにしよう。

◼︎◼︎私たちと自動車が似ていないところ /* 2 代謝_物質が流れる*/
/*要約:代謝がおこること(エネルギーだけでなく物質も体の中を流れている点が自動車と異なる。)*/

生物であることの2つめの定義 代謝は、「生物の体におけるエネルギーと物質の流れ」のことである。
生物と自動車は似ているが、自動車の場合はエネルギーが流れるだけで物質は流れない。
ガソリンは確かに物質だが、エネルギー源として使うだけなのでここではエネルギーに含める。
車体などの純粋な物質は自動車が走っても変化しないのだ。

一方生物の体の中では、エネルギーだけでなく物質も流れている。少し汚い話だが、私たちの大便は栄養を吸収された食べ物の残りカスだけではない。その3分の1は、小腸から剥がれた細胞だ。つまり私たちの体そのものである細胞も毎日私たちの体の中から流れ出ていくのである。

では、どうして象徴の細胞は剥がれてしまうのだろうか。

それは、小腸の中が細胞にとって過酷な環境だからだ。
象徴の中にはバクテリアがたくさんすんでいる。いわゆる腸内細菌だ。人の体の細胞が約40兆個と見積もられているのだが、バクテリアはその10倍以上と見積もられている。

その凄まじい数のバクテリアが、消化されかけた食物の中にうようよしている。不潔極まりない環境だ。
しかも小腸には筋肉があり、食べ物を送るために運動している。そんな環境で忙しく働く小腸上皮細胞の寿命はとても短く、
だいたい5日、最前線で働ける期間は1日とも言われている。そして体外へ排出されてしまう。

毎日体の一部を外へ捨てている。そして同時に体を作っているわけだ。この点で私たちは自動車と似ていない。
私たちの体の中ではエネルギーとともに物質も流れているのである。

>>>省略>>>
◼︎◼︎散逸(さんいつ)構造
貝の貝殻のように一生変わらないものもあるが、生物の体の多くの部分はいつも入れ替わっており、
私たちの体も10年経てば、かなりの部分が入れ替わる。
10年前のあなたはもういない。今のあなたのほとんどの部分は、新しい材料でできているのだ。
それなのに、あなたはあなたのままである。全体の形もあまり変わらない。なんだか生物って不思議なものだ。

このように流れの中で形を一定に保つ構造を散逸構造という。

◼︎◼︎◼︎生物は平衡状態ではない
あなたの目の前に水の入ったグラスがあって、しばらく見ていてもグラスの中にはなんの変化も起こらない。
この状態を平衡状態という。しかし、なんの変化も起きていないのは見かけだけで、分子レベルでは動的な状態、つまり分子が活発に動き回っている状態である。

液体中の水分子の一部は空気中へ飛び出す。空気中の水分子の一部は液体の水に飛び込む。飛び出す数と飛び込む数が同じなので、見かけ上は何も起きていないように見える。これが平衡状態である。

平衡状態は動的な状態だがそこに流れはない。流れとは例えば川の水のようなものだ。
川の水分子の中には上流に向かって動くものもあるが下流に向かって動く水分子の方が圧倒的に多い。
したがって前提的に見れば川の水分子は下流に向かって動いていると言える。これが流れである。

平衡状態の場合はエネルギーの流れもない。見かけ上、何も起こらない状態である。
そのため平衡状態は「死の世界」と呼ばれることもある。明らかに生物は平衡状態ではない。生物には流れがある。
つまり、生物は生きている間は形がほとんど変わらないにも関わらず、非平衡状態なのである。

◼︎◼︎◼︎生物は散逸構造である
ガスコンロの炎はしばらく見ていても炎の形は変化しないが、分子レベルでは動的な状態にある。
ここまでは平衡状態と同じだが、炎は非平衡状態にある。
炎の場合は物質にもエネルギーにも流れがあるのである。
炎が一定の形をしているのは、エネルギー源としてガスがガスコンロから供給され続けているからである。
炎のように非平衡状態なのに定常状態(形が変化しない)である構造を、散逸構造という。
<<<省略<<<

◼︎第5章 生物のシンギュラリティー /* 生物とは何か_3 複製 /仕切り・代謝・複製 */
シンギュラリティーは技術的特異点と訳されるが、具体的には人工知能が自らの能力を超える人工知能を自分で作れるようになる時点のことだ。
シンギュラリティーを迎えると人は終焉を迎えるという説を唱える人もいる。
1980年代も人工知能という言葉がブームとなったが現在もまだシンギュラリティーは訪れていないことから、まだ先かもしれない。

しかしすでに起きてしまったシンギュラリティーもある。それが生物のシンギュラリティーである。

シンギュラリティーを説明する例え話)

怠け者が、農作業をするロボットを作った。ロボットは壊れてしまう。また作る。
今度はロボットを作るロボットを作った。一体のロボットが、一体のロボットを作るようにした。
しかし完全に複製することは難しいようでたまに、前のロボットと少しだけ異なるロボットができる時もある。
そしてある時一つのロボットが、2つのロボットを作った。怠け者の家に燃料は1体分しかない。
ロボットは農作業が終わると家に帰り自分で燃料を入れるようになっていたので
早く家に帰ったロボットの方が燃料を全て自分に補充し、もう一体のロボットは燃料が得られず動かないままとなった。
燃料が限られた中、生き残れるのは性能が良いロボットだけなので
2つのロボットを一つのロボットが作るようになった時を境に、自然選択(※後ほど補足)という原理が働くようになり、
ロボットの性能は急速に良くなっていき、農作業は早く終わるようになった。
十年後には怠け者の能力をはるかに上回り、男の言いなりにはならなかった。
家はロボットが住みやすいように改造され、ロボットを壊そうとすれば襲われる。
ロボットの方が男よりも賢く強いのだ。
男は泣く泣く家を出て行くことになる。

話はここで終わらなかった。
ついにロボットは自分で燃料を採掘するようになり、数をどんどん増やしていった。
とはいえ全てのロボットが生きられるわけではない。
一体が2つロボットを作るので3年で600億体を超えてしまうからだ。
生き残れるのは性能が良いロボットだけなので、数はどんどん増え、どんどん賢くなりとうとう地球全体を支配するに至った。
もはや人間の姿はどこにもなかった。

これは例え話だが、まさに地球上で生物のシンギュラリティーが起こったことと同じことである。
私たちの地球ではおよそ40億年前に生物が生まれたと考えられている。
生命のようなものの一つに、自然選択が働き始め、それは一気に複雑になり、どんどん多様化し、ついには地球に満ちた。
自然選択が起きた時が、シンギュラリティーである。

/*
※補足:自然選択とは
自然選択説(しぜんせんたくせつ、英: natural selection)とは、進化を説明するうえでの根幹をなす理論。厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる変異(突然変異)を選別し、進化に方向性を与えるという説。1859年にチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスによってはじめて体系化された。自然淘汰説(しぜんとうたせつ)ともいう。
*/

自然選択が起こる条件は2つ
・遺伝する変異があること ※変異=同じ種の中での違い
・大人になる数よりより多くの子供を産むこと

つまり厳密にいうと、
生物の3つめの定義は、正確にいうと「(大人になる数より多くの、)自分の複製を作る」こととなる。

◼︎第6章 生物か無生物か
地球の生物は富士山のようなもの。
私は静岡県の沼津市に泊まったことがある。朝起きて街を歩いていた私はびっくりした。
富士山がものすごく大きく見えるからだ。東京から見る山とは、迫力が全く違う、まるで別の山みたいだった。

地球の生物は、この沼津市から見る富士山のようなものではないだろうか。
私たち人間よりあまりに大きくて、全く違う、かけ離れた存在だ。でも山は富士山だけではない。
地面が出っ張っていれば山だと考えれば山はほとんど無数にある。誰が見ても立派な山だと思うものもあれば
低くてほとんど平地と変わらない山もあるかもしれない。でも富士山は誰が見てもはっきり山だとわかる。

同じように地球の生物もはっきり生物だとわかる。
しかし山田か平地だかわからない山があるように、宇宙のどこかには生物だか無生物だかわからないようなものもいるだろう。
あるいは、地球上のインターネット上にも生物みたいなものが生まれるかもしれない。そうなれば何が生物かさえわからなくなる。

私は生物を定義することはできないと思うけれど、地球の生物を定義することはできると思う。
次の章からは地球上の生物の話を始めるけれど、地球の生物の奥にはなんだかよくわからない広大な生物の世界が広がっていることも時々思い出すことにしよう。

◼︎第10章 動物には前と後ろがある /* 筆者の、どんな生物も平等に考える姿勢に共感してメモした。*/
◼︎◼︎高等な動物も下等の動物もいない
伝統的な味を守り続ける老舗の和菓子店と新作のスイーツが話題の新しい洋菓子店、どちらの売り上げが多いとかこの先どちらが長く繁盛するかとかそういう問いには意味がある。しかしどちらが高等な店でどちらが下等な店かという問いに意味はないだろう。
つまり、あの生物はより進化していて、この生物はあまり進化していない、なんてことはない。あの生物はより高等で、この生物はより下等だ、なんてこともないのである。

◼︎第11章 大きな欠点のある人類の歩き方 
/* 直立二足歩行がなぜ?という点も面白いが、科学の仮説形成→検証の考え方をおさらいできるのでメモ*/

常に直立二足歩行をするのは人類だけと考えられる。
人類以外の類人猿は、普段は4足歩行で移動する。

空を飛ぶ、ということは昆虫、翼竜、鳥、コウモリという四つの系統で独立して進化したのに
直立二足歩行はなぜ人類だけなのか。

◼︎◼︎直立二足歩行のメリット
・太陽光に当たる面積が少なくなる
・頭が地面から離れるので涼しくなる
・遠くが見渡せる
・大きな脳を下から支えられる
・エネルギー効率が良い
・両手が空くので武器が使える
・両手が空くので食料を運べる

ちなみに、、最近では人類が直立二足歩行を始めたのは草原ではなく、樹木がある場所だと考えられている。
そのため1-3つめまでは人類が直立二足歩行を始めた理由としては正しくないだろう。

◼︎◼︎直立二足歩行のデメリット
・走るのが遅い
これは、自然界では致命的なことである。
なのになぜ、直立二足歩行で進化をしたか。

◼︎第12章 人類は平和な生き物

人類は鋭い牙がなく、犬歯も小さい。牙は仲間と争うために発達したと言われている。
つまり、人類同士の争いが穏やかになったために牙がなくなったと考えて良いだろう。ではなぜ人類同士の争いは穏やかになったのだろう。

/*人間は確かに、一対一で戦うことは少ないが、武器という道具や言葉という知能を使い、大量に殺しあってきたと思った。
つまりここでは、一対一で体一つで争うことが減り、牙がなくなったと私は解釈した。*/

チンパンジーの仲間同士での争いで最も多いのは、メスをめぐるオス同士の争いである。
争いを減らすためにメスをめぐるオス通しの争いを減らすのが一番有効。
つまり、類人猿から人類が分かれて進化した時、オスとメスの関係が変化したのではないだろうか。

オラウータンとゴリラは一夫多妻、ゴリラの一部とボノボは多夫多妻。みんな犬歯が人間に比べずっと大きい。
一方、一夫一妻的社会ではメスをめぐるオス同士の争いは少ない。
つまり約700万年前の人類は一夫一妻的な社会を作るようになったのでオス同士の争いが減り犬歯が小さくなったのではないか。
これは仮説だが、科学の成果は全て仮説である、というのは先ほど話した。

前に説明した通り、仮説の検証の一つは、仮説を使い別の現象を説明できることである。
さて今は、犬歯が小さくなった理由として
「約700万年前の人類は一夫一妻的な社会を作るようになったので、オス同士の争いが減り犬歯が小さくなったのではないか」という仮説が建てられた。
もしこの仮説が、犬歯が小さくなったこと以外に何か別の現象を説明できれば、この仮説はより良い仮説になる。

/*

以前のロジック整理が文章だとしにくいのでまとめてみた
仮説検証フレームに入れてみた)
・証拠:人類の犬歯は小さい
 ↓(仮説形成)↑(説明=演繹)
・仮説:一夫一妻的社会を作るようになり、オス同士の争いが減った
 ↓(検証)  ↑(予測=演繹)
・新しい事柄:???(※これをここから考えるということ。)

*/

直立二足歩行には移動速度が遅いという重大な欠点がある。
そんな直立二足歩行が進化するには、何かの利点が欠点を上回る必要がある。第11章で7つの利点を挙げたがこの中で一夫一妻的な社会が成立することにより利益が増えるものはどれだろうか。
7つめのものを運べるようになったこと。これは、特をするのはもちろん運ぶ本人も安全な場所で食べれるなど利点があるが、何より運んでもらう側がもっと得をする。

多夫多妻と一夫一妻を比較すると、多夫多妻的社会だとどの子が自分の子供かわからず
歩行により食物を運んで生存率を高くした子供が自分の子供か他人の子供かわからない。
つまり、直立二足歩行する子供の場合もあるししない場合もあるということなので直立二足歩行は増えていかない。

しかも親目線で考えると直立二足歩行をしない方が得だ。つまり多夫多妻的社会では直立二足歩行は進化しないはず。

では一夫一妻的な社会はどうか。
この場合はペアになったメスが生んだ子はほぼ自分のこと考えて良い。
なので直立2足歩行により食物を運んで生存率をあげた子は大抵自分の子供だ。
自分の子には直立二足歩行は遺伝するので直立二足歩行する個体は増えていく。

◼︎◼︎進化で重要なのは子供の数
自然選択によれば有利な特徴を持った個体は増えていく。つまり有利な特徴は進化していくと考えられる。

例えばサバンナに住むチーターは走るのが早い方が有利だろう。だから走るのが早いという特徴が進化したのだろう。
ただそれは走るのが早いことが直接進化に結びついたわけではない。

走るのが速いために、残せる子供の数が増えたので、その結果走るのが速いという特徴が進化したのである。
要するに子供の数を増やす特徴だけが自然選択で進化するのである。
どんな素晴らしい特徴でも子供の数を増やさない特徴は自然選択で進化しない。
例えば、難しい計算ができるという特徴が進化するかどうかは微妙である。

そう考えると、両手が空くので食料が運べるという特徴はかなり進化しやすい特徴と言える。
なぜなら子供の数に直結するからだ。

◼︎第15章 遺伝の仕組み
◼︎◼︎生物と雲との違い

生物と雲の違いは積み重ねがあるかないかだ。
雲の場合はお八雲から子グモができるわけではない。
雲ができるときはいちいちリセットされて最初から作られる。
だからそれほど多様性が高くならない。

しかし生物の場合は、親から子が生まれる。
そうして特徴が積み重なっていくので多様性は高くなっていくのである。
遊び終わってもブロックを片付けないことは生物では遺伝に相当する。

子が親の特徴を受け継ぐからこそ、積み重ねることができ、そして多様な生物が生まれたのだ。
ちなみに、生物は単純になることもできる。複雑になるばかりではなく、単純になることもあるのでさらに生物多様性は高まったことだろう。

このような生物多様性を作り出す遺伝子は一体どのようなものなのだろうか。

/* ここの間はしばらく、難しめの生物の細かい固有名詞オンパレードの説明が続くので
私は頭がぼーっとしてしまい、ぺらぺらとしました。*/

◼︎おわりに
/* 最後も、筆者の心のあり方がわかる文章だったのでメモ。誰にでも意見を言う権利はあり、大切なのは「興味を持つ」と言うことであると伝えている。そして興味をもつきっかけに少しでもこの本がなればいいと言っている。*/

きちんと労働して、その上で労働のことを言えばそれは立派なことだろう。
でも、だからと言って、労働していない人が労働について意見を言ってはいけない、ということにはならないはずだ。
きちんと労働しているからと言って、労働のことをきちんと理解しているとは限らない。

全てをきちんと理解している人なんているはずがない。
立場にかかわらず、誰もが意見を言う権利がある。

でもそのためには一つ大切なことがある。
それは興味があることだ。

現代の科学は巨大になった。そして多くの分野に細分化された。
だから多くの分野で活動することは難しい。
でも、多くの分野に興味を持つことならできるかもしれない。

そして興味があれば意見を言うこともできるだろう。
そういう興味を広げるお手伝いができればと思って、この本を書かせていただいた。

フランスの彫刻家、オーギュスト・ロダンは、日本人の女優花子を好んでモデルとした。
ある人の意見では、花子は特に見栄えの良い人ではなかったと言う。
しかし、ロダンはどんな人にも美しいところがあると思っていたようだ。
それを見つけられるか見つけられないかは見る人の目しだいらしい。

きっと、どんなことにも美しさはある。
そして美しさを見つけられれば、そのことに興味を持つようになり、その人が見る世界は前より美しくなるはずだ。
きっと生物だって、もちろん他の分野だって、美しい学問だ。
そしてこの本は生物学の本だ。

もしも、この本を読んでいる間だけでも、できれば読んだ後も生物学を美しいと思い、生物学に興味を持ち、そしてあなたの人生がほんの少しでも豊かになれば、それに勝る喜びはない。