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ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」に滲み出る、現代の悲鳴

ーーードストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」では、ゾシマ長老という登場人物が出てきます。

そのゾシマ長老が残した、いまわの際の言葉ですーーー



世界は自由を宣言しました。最近は特にそうです。では、彼らの自由に見るものとは果たして何なのか。それはひとえに、隷従と自己喪失ではないでしょうか。なぜなら俗世が説いているのはこういうことだからです。「欲求があるのならそれを大いに満たしなさい。君たちは名門の貴族や富裕な人々と同等の権利を持っているのだから。欲求を満たすことを恐れず、むしろ欲求を増大せよ。」これこそが、世界中で最も支配的な思想であり、教えなのです。ほとんどの人々は、ここにこそ自由があるとみています。
では、欲求を増幅させる権利から生まれる者とは、はたして何なのか?富める者においては孤立と精神的な自滅であり、貧しい者においては羨みと殺人です。なぜなら、権利は与えられているものの、欲求を満たす手段はまだ示されていないのだから。
彼らはこうも説いています。世界はこの先ますます一体化し、兄弟の結びつきが強まるだろう、ましてや距離が縮まり、思想は空気を伝って伝達される時代なのだからなおさらのことだ、と。
ああ、こうした人間同士の一体化など、決して信じてはいけません。自由というものを、欲求の増大とそのすみやかな充足と理解することで、彼らは自らの本質をゆがめているのです。彼らはただ、おたがいの羨みや欲望、虚栄のためだけに生きているにすぎません。宴席、車、地位、奴隷に等しい下僕を得ることがすでに不可欠なものとみなされ、そのために人々は、命や、名誉や、人間愛までも犠牲にしてその必要を満たし、それができないと見るや、自殺さえしかねません。


この物語の中でゾシマ長老は、長年修道院にこもって本を読んだりお祈りを捧げたりしてきた人物として描かれます。

そうは言っても浮世離れした世間知らずの爺さん、というわけではなく、若い頃には女性を巡って決闘騒ぎを起こしたり、飯がマズいと言っては召使の料理人を殴りつけたりする、血気盛んな貴族の青年でした。

彼もまた、作者ドストエフスキーと同様の時代、19世紀の後半を生きた人物として描かれています。当時はイギリスの産業革命の波に乗って世界中が資本主義の方へと舵を切っていた時代でした。そんな中で、ロシアも今まで地主の奴隷となって農地を耕していた農奴たち(日本でいう水呑百姓)を解放し、自分の手で稼いで自分で暮らしを立てることを許しました。

それで農奴たちがどうなったか?

これまで決められた農地を決められたとおりに耕すことしか知らなかった農奴たちのほとんどは、胸を張って元気に商売に乗り出す・・・といったわけでもなく、酒をしたたかに呑むようになって、今まで自分と同じ身分だと思っていた農奴たちと自分たちとの間にいつの間にかできた「差」を嘆き始めました。

君は自由だ!やりたいようにやるがいい!

世界中がこのような空気間につつまれると、とにかくできることを全部やって、手に入れられるものなら何でも手に入れる人が尊敬されることになります。

だが、資源は有限です。金も、異性も有限です。

以前は、何も持っていない人どうしで仲間になり、助け合う、なんて光景もあったかもしれません。だが今は、個人が個人の欲求を充足させることに手いっぱいで、なかなかお互いに助け合うなんてことはありません。

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「助け合い」だの、「思いやり」なんぞは死語です。今そんなこと真顔で言ったら、まず笑われます。いまさら何を。サムイなお前は。っていう感じです。

だからといって、ゾシマ長老は、人を助けろ、思いやりを持て、とむやみに言いたいわけではありません。とにかく生きなければならないのだから、自分のやるべきことに全集中して他のことには心配りなどしないのが一番賢い処世術であることは間違いありません。どうしようもない。世界を変えるより、自分をまず変えたほうが合理的なんですから。

ゾシマ長老のこの言葉は、強いて言うなら「嘆き」を表わしているのです。どうしようもない、それでも自分が生きてくこの時代でなんとかうまくやっていくためにはその時代の考え方に染まるしかない・・・

それでも、心の中でどこかに感じている違和感みたいなものを、ゾシマ長老は見事に言い表してくれています。





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