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私たちの宿命的な本性。

ーーー結婚前は、あんなに幸福だと思っていたのに。あんなにかっこいい人だと思っていたのに。なんだこのざまは。

なんてつまらない人!なんて退屈な生活!ああ、ぶち壊したい。すべてを・・・

結婚を経験された方が少なからず感じること、ではないでしょうか?

「ボヴァリー夫人」より。結婚後、気持ちは離れゆく。ーーー


「ボヴァリー夫人」から。結婚後の不幸なすれ違い。

<夫シャルルの気持ち>

こうして彼はなに一つ気苦労なく幸福だった。さしむかいの食事、夕方の街道の散歩、髪をなでつける妻の手つき、窓の掛け金にかけた妻の麦わら帽子、そのほかシャルルそんなことがうれしいとはいままで想像もしなかったさまざまのことがいまは彼の幸福をつづけるものになっていた。朝はベッドに寝ている妻の金色の頬のうぶ毛に陽がさすのをじっと眺めた。こんなに近くで見ると妻の目は、目を覚ましてパチパチまばたきをするときなどとりわけ大きく見える。シャルルの目はこの色の深みの中に吸い込まれて、自分が、頭に巻きつけた薄絹も胸をはだけた寝間着ももろともにぐんと小さくなってそこに映って見えた。

(中略)

いままでの生活のよろこびとは何があっただろうか。学校時代だったか。あの高い塀に閉じ込められて、自分より金持ちがもっとよくできて、自分の田舎なまりを笑い、身なりをからかった、あの時代か。その後、医学生になって愛人にできそうなお針娘なんかをダンスにさそったりする金に事欠いていたあのときだったか。それから、ベッドで足が氷のようにつめたい後家さんと一年以上一緒に暮らした月日。さていまは、心から打ち込んだこの美しい女を一生自分のものとすることが出来たのだ。彼にとって、世界は妻の下着の手ざわりの柔らかなあたりにもう限られたようなものだ。愛情が足りないかと気に病み、何度でも妻の顔が見たかった。いそいでもう一度家に引き返し、胸をドキドキさせて、階段を上がった。エマは部屋でお化粧中だ。忍び足で近づき、背中にキスした。彼女は声を上げた。

彼は幸福そのものだった。

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<妻エマの気持ち>

結婚するまでエマは恋をしているように思っていた。しかしその恋から来るはずの幸福が来ないので、あたしはまちがったんだ、と考えた。至福とか情熱とか陶酔など、本で読んであんなに美しく思われた言葉は世間では正確にはどんな意味で言っているのか、エマはそれを知ろうと努めた。エマは田舎をよく知っていた。家畜の鳴き声も乳しぼりも耕作も知っていた。静かなもののあり方に慣れてきた彼女は変化に心を惹かれるのだ。嵐があるので海が好きだった。草木の緑はただそれが廃墟のここかしこに見られるときだけ愛した。物事から一種の自分のためだけの利益を引き出せないと気が済まない。自分の心情がすぐそれを用に供しうるもの以外は一切不用として捨ててしまった。芸術家的であるよりは感傷的な気質で、景色を求めず、情緒を求めていた。

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彼女には、いまこの中に生きているこの平穏さ、これがいつも夢見ていた幸福だとはどうも考えられなかった。

(フローベール著 生島遼一訳 「ボヴァリー夫人」新潮文庫より引用)


書評 ~俺たちの、この傲慢な本性~

求めれば求めるほど、相手の心は離れてゆく。

長く一緒にいればいるほど、ふたりの心は離れてゆく。

長く続く退屈で物憂げな、しかし安定した日々を求める人もいれば、全身が麻痺してしまうような凄まじい幸福感と世界のすべてを破壊してしまいたくなるようなどん底の不幸を望む人もいる。

この小説で言えば、シャルルは前者で、エマ・ボヴァリー夫人は後者です。

舞台はフランスの片田舎。戦乱の火が及ぶこともなく、ただ毎日毎日太陽が昇り、料理や掃除はお手伝いさんがやってくれて、自分はただ本ばかり読んでいる。日曜日には教会に行って話を聞く。夜になると風采の上がらない夫に抱かれる。もうつまんないのなんの。自分の生活はきわめて安定しているし、食うにも困らない。だが、心を揺さぶられるような事件は何も起こらない。何も。

結婚前に予期していた、全身が麻痺するかのようなすさまじい幸福感がいつまでたっても訪れないことに、エマは失望し始めます。

やがて嫌気がさしてくる。すべてを棄てて新しい男に身を任せたい・・・


現代なら、このような気質に対していくらでも病名をつけて、治療の対象にすることが出来るでしょう。現代はなんでもかんでも矯正する時代です。きっと彼女のこのような気質は「異常」だとみなされ、医学の名のもとにいろんな手段を用いて彼女を退屈な生活に満足せしめるように「矯正」されてゆくでしょう。

そのような社会に暮らしていると、決して見えないことが一つあります。

それは、「誰の中にもボヴァリー夫人はいる」という事実です。

このような境界性の気質は、決して異常なものでは無く、むしろ人間の自然な本性である、という事実です。


健康にいいし、身体の調子もよくなると知っていて、なぜ僕たちは毎日おかゆを食べないのか?身体によくないと知りながら、なぜファストフードやコンビニのフライドチキンをついつい食べてしまうのか?

それは、味が淡泊で退屈なおかゆよりも、味が濃くて胃にギツっとくるような、あの不健康な刺激を僕たちが求めているからです。

フライドポテトとコーラの組み合わせは格別です。そして、食った後に訪れる「またやっちゃった・・・」というあの罪悪感。これも格別です。


恋愛や結婚生活もこれも全く同じです。

両価性、これは人間の宿命なのです。

安定した生活にあこがれながら、いざそれが手に入るとその退屈に腹が立ってくる。もうあんな悪い男とは一生つき合わない、と胸に決心しても、言い寄ってきたクソ退屈で平和な男はサヨナラしてしまう。そしてスマホを取り出し、あの「彼」に連絡する。今夜会えない?さみしいの。待ってたよ。熱い抱擁・・・

平和な生活に飽き飽きした結果すべてを破壊したくなる衝動。

「無内容」よりかはむしろ「不幸」を望むその本性。

どんなに真面目に正直な人間にも、いや、真面目で正直な人間の中にこそ、このような本性が少なからず隠れている。なんとも因果なお話です。



今日もお読みいただきありがとうございます。皆様の一日が素敵なものになりますように。






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