この世で最も怠惰な趣味

斜面を下れば下るほど、私は自由になってゆく。高校生の初化粧、友だちから貰ったファンデーションを初めて顔につけてみた、断続的な空からの乳液で潤った山肌を、これ以上ないほど清潔で、悪魔じみた輝きを持つ雪粉でおめかしした、冬の斜面。ところどころに生える針葉樹は、若き肌に突き刺さる毛根のような冷たい根を雪の下に張り、その出番を待つ。一年のうちたった30日ほどしかない、彼らの出番の時を。


山スキー、と呼ばれているこのいかがわしい趣味にハマり出したのは最近だろうか。毎年多数の遭難者と死者を出すこの危険極まりない娯楽に、こうもたくさんの人が魅了され続けるわけを、俺は知っている。いつどこで空中に放り出されるかもわからないような、圧雪もされず、リフトも張ってない暴力的な新雪の上を軽々と滑ってゆく。身体がより下へ移動するにしたがって、木々の数が多くなり、DNAの真下に組み込まれている先祖の亡霊が「危険だからやめろ」などときわめて真摯な忠告をするのをすべて無視して、私は自由と大愚を選択する。そこは夏ならば無限の緑に覆われてしまう場所であり、獣と、節足動物と、爬虫類が支配している未知の世界であるわけだが、この季節だけ彼らは雪の下で大人しく我々の侵略を赦しているわけで、ありふれたロマンスが血液を濁らせ、口に入る白米の味に感謝しきれなくなったときに、冒険のすべき時が訪れる。それは我々人間に、大平原に作られた農地からよく燃える油で動くタンカー、缶詰の中の美味しいコーンフレークなどをもたらしてくれる大地のオモテの顔を忘れさせ、彼の本来の性格、本来の起源、その本来の欲望の琴線に触れて旋律を奏でる時に訪れる、きわめて健康に悪い感動を与えてくれるのである。盲目者の夜明け。サリバン先生の水。そして、サンテグジュペリの砂漠。

全身くまなく覆ったスキーウェアの鎧の隙間から、悪魔のような雪粉が私の肌に襲い掛かる時、本能は鳥肌を立てる。それは恐怖か、感動か?誰にも分らぬ。そもそもそれらは紙一重、人工物で覆った我らがひ弱な肢体が、自然の凶暴極まりない本性に触れた時、人間の本性は恐怖の叫び声をあげる。だが、その叫び声に抗い自然を征服すべく危険を冒し続けることこそ紛れもない我々の「本」性でありこの活動のおかげで今日も俺は一杯の白米に心から感謝することができる。命を軽んじているわけではない。命を重んじているからこそ、他の何よりも生命を崇拝しているからこそ、それを危険にさらし、劫火ごうかの前にくべ、搾り取られた生水なまみずの最後の一滴をも舌の上に残そうとあたふたする。人間はそのために生きているのではないか。

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