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谷底に湧き出る水っ腹下して笑う

あかんくない苦しゅうない自分は笑って暮らしていきたいのであり足を滑らせ山から滑落し谷底に転げ落ちても悪人は店でフルーツポンチを食ってる食ってる食ってる

ここまで書いて我らが寅吉はぷいとそっぽを向いて傍らのほうじ茶か何かを啜った。なんのことはない。売れない作家のひとりごとである。

今は寅吉はアラサーであった。昔はとびっきりのガリ勉であった。中学高校の思い出と言えば暗い目をして問題集をガツガツ読み込んでいたことぐらいしかない。マジメにそれしかない。たまの休日に近所の本屋に行きギャグマンガを読んでは陰気な笑いを漏らしていたことは彼の母さえ知らない唯一の趣味らしきものであった。

ところが成績は伸び悩み、日を追うて偏差値は低くなってゆく。希望の大学に進むための試験の日が近くなるにつれ、肉落ち骨秀で眼球のみ徒らに炯々としてきた。担任には志望校を下げるように要請されたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤学に甘んずるを潔しとしなかったのである。そしてとうとう発狂した。第一志望の国立大学に受験する前日の夜、大学最寄りのホテルのロビーにて裸踊りをしていたのは彼であった。

「あれだ!これぞたんじゃんと!」などと意味の分からぬことを叫びながら、風呂上がりの若々しき肢体をくねらせ冬の不忍池に飛び込んだのもはるか10年前のことである。その日から寅吉は姿を消した。それから彼の行方はとんと分からぬままであり、両親は捜索願を出したもののまるで居所はつかめず、父は激怒し、母は発狂し、寅吉の家族は瞬く間に転落の一途をたどっていった。その時寅吉はと言えば地下鉄のベンチに座り込み残り少ない自分のお年玉貯金の残高を眺め、これからどうするべきか悩んでウンウン唸っていたのであり本当に世は無情というか風の塵というか、なんとも胸に迫る光景なのであった。

それから大学受験に固執しなかったのは寅吉の偉いところであった。彼はとある地方都市のアパートを借り、たまたま立ち寄った暖簾のオヤジに相談したところそこで働き始めることになり、ついには自分一人で店を切り盛りするようになったのである。ここにきて寅吉のあの何でも耐えるという欠点、自分の精神の限界が訪れるまで耐えに耐え抜くという欠点が大いに生かされ、彼は驚くほどの根性を見せてオヤジや常連の客の度肝を抜いたのであった。

今、寅吉は生きている。オヤジは当の昔に引退したが、一人暮らしの男やもめであり寅吉のおかげでだいぶ助かっているようであった。やはり若き日に打ち込んだことが全てではないのであり、この辺をもっと今の若い人たちに分かってもらいたいと何となく思った彼は小説を書き始めた。で、最初に紙の上に出てきた一節が「あかんくない。」だった。あかんくない。あかんくない。あかんくない。あかんくない・・・

あかんくない。笑ってればそれでいい。なんて書いてみて、寅吉は改めてゲハゲハ笑ったのであった。まあなんかとりあえず何でもいいから書いてみよう。そんな感じで書き始めたのが、冒頭の一節であった。



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