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雪かきと文学

雪かきというのはなんとも不条理な営みである。雪は少しでも暖かくなればすぐに溶ける存在でありほっとけばいつか消えるのは明白だが、そういうわけにもいかない。玄関先が雪に埋もれていたら気がすむまでそれらを退けなければならないし、自分の車が雪で埋もれていたら全力でこれを助け出さなければならない。豪雪地帯の人間はこのことが遺伝子レベルで刷り込まれている。雪があれば攻撃せずにはいられないのである。無論、雪かきのされていないところは歩く気がしないが、それでも歩かなければならない時はゴム長靴を履いてずぼっずぼっと無理やり足を進めていく。ふくらはぎとゴム長靴の間に空いたわずかな隙間に雪の塊がちょっと入ってこようものならもうおしまいである。目も当てられない。

そいつは私の大切な足を守る温かな空間にわらわらと入り込み、かかとの外側あたりにべちゃりと貼り付いて、体温を奪いつつじわじわと溶けていく。朝、通勤中に靴の中に雪が入るとすべてのやる気なり技量なりが失われ、どんなに重要なタスクがあったとしても頭の中には「足の雪冷たい」のゾーンが生まれてそのゾーンには勉強した内容や期限つきの義務やら何やら、生きていくために重要な物事が全く入ってこない。ただ「雪への呪詛」みたいな暗く重苦しい感情のみが徒らに心の中に立ちこめてくるのみである。

いったい何のためにこんなことをしなければならないのだろう?降っては退け、降っては退けを繰り返すのみで、終わりの見えぬ地獄の所業のように思えてくる。雪国の住民ならシーシュポスの苦しみが分かるだろう。それは暖かくなり桜の花びらが舞う頃になるまで半永久的に続く不条理な拷問である。

小学校の頃、両親によく雪かきを手伝わされていた私は、その圧倒的な不条理性が嫌で嫌で仕方がなく、ある日ついに文句を言ったのである。どうして雪かきなんかしなきゃいけないんだ?歩く人が困るから?いやいや。人が多く歩くからこそ、それが道になるのだと魯迅も言っておるではないか。雪かきなんぞしなくても良いのではないか?たしかに最初に歩く人はものすごく苦労するかもしれない。だがやがてその苦労のおかげでその道は踏み固められ、歩きやすくなっていくと言うのがこれ人類の歴史というか雪道というか、それらに共通する不可思議な宿命ではないのか。その道を歩きたい人間が自分の足で道を開拓するべきであり「作られた道」などロクなものではなく、ああそれは地獄に至る道だ、みたいなことを思ったのである。というのは嘘で、不精な餓鬼であった私は体を動かすのがめんどくさかっただけだった。

親には「やりなさい」と一喝されて終わった。いやでも納得できない。そこで総合教育活動みたいな小学校の授業でふれ合った大豪雪地帯の限界集落に住む「菊蔵さん」に話を聞いたのである。菊蔵さんはこんなことを言っていた。

「だってワシがやらないと、隣のじいちゃんが出れなくて死んじゃうだろう。」

圧倒された。論破。一瞬の論破。幼き餓鬼の開いた口はふさがらない。俺がやらなければ彼は死ぬ、ものすごい義務感である。たったそれだけのことだった。たったそれだけのことで、人間はシーシュポスの苦しみを買って出る勇気を与えられるのだ。いや、誰かのためになっているのならばそれはもはやシーシュポスの拷問ではなく単なる仕事であり生活の一部である。ただそれだけのことだった。私だけかもしれないが、この時、私は思想や芸術みたいなものと現実生活との宿命的な乖離を見つけたような気がして、次の日の国語の授業がなんとなく憂鬱になってしまった。何を読んでも何を聞いても心の中の菊蔵が「結局、だからどないやねん?それで飯、食えんのか?」と言ってくる。学問など暇人の所業だ、なんか考えてる暇あったら仕事しろ馬鹿者、と父親によく怒られたものだが、それはまさしくその通りであり、そのような現実生活の中でもやはり苦しく感じる人間のために、地を這うように生きている人間の心にだけ異常なほど沁みわたる文学みたいなものは、たしかにある。そういう文学が大好きなのは、あの時に私の心の中に吹入してきた菊蔵のせいかもしれない。





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