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宵闇の こもりうた

隣の奴らが合唱をしていてうるさいので壁をガンガンに叩いてやろうと万年床をめくり上げた。午前2時。築40年の古アパートといえどもやりすぎである。ここは一つ、我が正義の鉄槌を下してこの世に安眠という社会福祉的な天国がきちんと存在することを隣人にも教えてやらなければならない。だがむくりと起き上がると同時に薄い壁を通して聞こえてきた陽気なアルペジオが私の調子を崩した。


泣きながら アヴェマリア
行き過ぎた 芦田愛菜
日が暮れた サンタマリア
わがままな サラダ油


これに、「さくらまな!」だの「お風呂まだ?」だの、合いの手が入る。その声質の多用さとメロディーの複雑さから、敵は10人近くいるらしいと俺は踏んだ。

とりあえずドン!叩いてみる。んでもって耳をすますと、ソプラノ女子の「あー😩」という声が聞こえてきた。

ドン!もう一回叩いてみる。

するとヴォーという汽笛が鳴った。気のせいかな。そんなはずはないのだが。田舎といってもここは内陸である。船がいるはずがない。となりに耳を澄ましてみると、相変わらず「明日あすが来た!」だのなんだのほざいている。

あかんではないか。俺は思った。今夜はもう眠れないのか。俺は徹夜を覚悟した。だが覚悟が決まれば案外勇気が湧いてくるもので、どうせ寝れないのなら隣の奴に一泡吹かせてやろうと思った。

外に出る。風が寒い。もう2月だというのに、まだこんなに冷えやがる。なんとかしろよと月に祈る。んで隣の呼び鈴を押す。ピンポン。

「はい!!」インターホンから聞こえてくる元気な声。

「おたく、今何時だと思ってんの?」数々の漫画やドラマにて多用されてきたテンプレートの文句を使いまわしていくスタイル。

「いや、え、あの、そうなんですよね、ま、ま、ここに、今なんとか、えーっと、そうなんですよ。」ニッコニコの白い歯を見せる隣人。たいそう楽し気な様子が俺の使い物にならない感受性を逆撫でしていく。

「そうなんですよじゃねーよ。今もう2時だよ?2時!あんたらそこに何人いるのか知らんけどさ、歌の練習なら昼間にやんなよ。ここアパートだよ?何考えてんの?おいコラァ!」最後の「ァ」は巻き舌でごてごてと着飾る塩梅式。効果があるのかどうかは知らないが、ヤンキー風でかっこいいので多用している。

「いや、その、まあ、すいません、あとちょっと・・・」隣の奴はふくみ笑いをしている。奥の部屋から「漁獲高!」という合いの手が聞こえた瞬間、俺の怒りは頂点に達し、富士山は噴火し、北海道は爆発した。

「てめえ、調子に乗るのもいい加減にしろよゴラア!」最後の「ア」にはもちろんさっきの塩梅式。

隣の奴は相変わらずのふくみ笑いでつかまれた胸ぐらのあたりを寄り目でじっと見ている。

許された 軽井沢
噛んで飲む 紀伊国屋
明日スる スロベニア
北極の ムヒアルファ

むかつく歌声は最高潮に達し、やがて廊下の隅々に張り巡らされた蜘蛛の糸がリズムを取ってダンスを始める。みとめたくなかったが、それはまるで退屈な一人暮らしの寂寥を紛らわすために生まれてきたような、じんじんとくる不思議なリズムだった。こいつらは夜な夜な集まってこの歌を歌うことにより己の寂しさを浄化し、また明日元気に学校なり職場なりに出かけていくのだろうか。そう考えると俺も胸ぐらをつかむ手を緩めざるをえなくなり「んや、もう・・・」みたいな、気色の悪い懐柔の猫なで声を出したきり隣人の胸ぐらをつかんでいた手を離して自分の部屋に戻ってきてしまった。それ以来あの陽気なアルペジオは二度と聞けなくなってしまった。たまに寂しくなると、あの時に壁一枚隔てたこの空間から、「さくらまな!」と合いの手を入れていたらどうなってたんだろうなんて考える時がある。焼酎の味が急に渋くなる。塩梅式。


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