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魂の味

植物というのは不思議な存在で、それは生きているくせにモノみたいだからだ。生命は本来動きであり営みであり、鼓動を持っていなければならない。けど、植物にはそれが感じられない。

彼らはどんな思いで花を綴るのだろう?引きちぎられるときにどんな声を上げるのだろう?

何も感じてないのかもしれない。そう考えると、やれ痛いだの悲しいだの言っているのは人間だけで、動物たちも本当は何も感じていないのかもしれない。だとしたら生命とモノとの境界線はどこにあるのだろう?

魂、という言葉がある。昔の人によれば、あらゆるものには魂が宿るらしい。魂、これも不思議な存在である。化学式は何だろうか?どんな味がするんだろう?魂の味、それはサラダ油みたいにギトギトしてる。

付喪神、という言葉もある。これはモノにも我々と同じ魂が宿る、という思想を表した概念だろうか。この言葉から、昔の人がどれほどモノを大切に扱っていたかを窺い知ることが出来る。というよりも、モノによって自分の命が支えられていることをひしひしと実感しながら生活していたのだろう。そりゃそうだ。当時は鍬一つ手に入れることが難しかったに違いないのだから。今はホームセンターに行けばいつでも手に入る。間違いなく私たちの生活は豊かになった。

豊かであることの功罪については何も語るまい。正直そんな議論誰もが飽き飽きしているはずである。だが、数年前に登山をしていた時に出会った、モノが本当に何もない、缶詰と野草と薪ストーブしかない山小屋に住みこんで商売している人たちの眼があまりにも澄んでいたことだけははっきりと覚えている。若いお姉さんと黒髪が似合う男の人、2人で切り盛りしていたその山小屋の本棚には、なぜか川端康成の雪国が置いてあった。

彼らの魂はどんな味がするのだろう?山で暮らしている彼ら2人のことである。夜は満天の星空の下、ベッドに入って魚になる。事が終われば外に出て煙草を吸う。真っ暗闇の中に、オレンジ色の光がぽつんと浮かび上がっている。彼女はその光のおかげで彼の実在を知る。ここに2人、たった2人、自然の中で置き去りにされた魂は微笑みあい、混ざり合いながら天の川に溶けこんでゆく。

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