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山岳救助隊が、山中にてみつけた手記


どこか遠くで音がする。落ち葉がこすれ合う、かさり、かさりという音が一つ一つ積み重なり、雪だるまのように肥え太って私の前に覆いかぶさってくる。その音は、意志を持つ強靭な生命体のように、そして私自身をどろどろに消化し、この落ち葉と共に土の中へ飲み込もうとする巨大な臓腑の蠕動のように感じる時もあれば、お母さんのお腹の中で聞いた心臓の音、ことり、ことりと鳴るあの美しい子守歌のように聞こえてくることもある。

なーんてね。文学的な遊び。笑わせるぜ。




となりにいるのは何者だろうか。誰かが僕の日記を覗き込んでいる。まるで実験されているような気分だな。それはそうだろう。ひとつ足を踏み外せば、僕は死ぬ。比喩ではなく、本当に死ぬのだ。これを実験と言わずして何といおう。ただ山を登るという行為の中に、いったいどんな目的が潜んでいるというのだろう。こうしてたった一人で、夜の山の中にたたずんでいるという状況で、このようなくだらない事ばかり考えつくのは、ある意味では合理的なことかもしれない。覚悟はしていたことだが、どうも実感がわかない。まる2日、何も食べていないのに、さして空腹も感じない。空腹というものは、ある種の特権ではないだろうか。短針のようにゆっくりと確実に回り続ける時間があると確信できる人だけが、自らの内臓の要求に耳を傾けることが出来る。




僕たちは空腹を満たすために生まれてきたのだ、と、人間社会にいた時はよく思っていた。この山登りという趣味だって、結局空腹を満たすために始めただけだった。

そう、僕は常に何かを求めていた。日めくりカレンダーと、勤怠管理カードとに支配された生活が嫌だった・・・なんて格好つけたことを書いてみる。まあ。ただ、なんとなく退屈していたのだけは確かなんだ。




幸せ。みんなが追い求めている幸せは、退屈なものだ。退屈なものが、幸せと呼ばれている。それは、つまり、塩を塗りこまれないということだ。塩も塗り込まれず、サトーを嘗めることもない。ただひたすら、社員食堂の日替わり弁当のように代り映えのしないちょっとばかり味付けされた人生を生きていく、それが幸せというものだ。幸せを持続させることは、決して幸せではないんだ。それは、すり減らすこと、飼い馴らすこと、沼の中に沈んで行くことなんだ・・・

生きている限り、必ず進めなければならない一歩は、ある。時間が流れる限り、人間は行動と決断から逃れることは出来ぬ。一秒ごとに、人は決断する。一秒ごとに、人は継続する。前へ進み続ける。留まることを許されているのは死者だけであり、生きている者は前に進まなければならぬ。いかに安楽の中に身を沈めることができたところで、足を止めることは出来ない。止まったら死ぬ。心臓と同じように私たちは設計されている。

そんな一歩一歩を。変わり映えのない、ブルドーザーみたいな営みに限って、僕たちは、忌み嫌う。「つまんない」なんて思ったりする。

こういうの、中二病、って呼んでたな。いまさらだけど、こんなふうなこと考えるのなんて、恥ずかしいし、こうして山の中で誰にも見られないと確信しているからこそ、こんなことが書けるんだろうなと思う。




こうして誰もいない、何もない、あと数時間で死ぬという状況に立たされても、こんな月並みなことしか言えない自分が怨めしい。でも、どんな状況にあったとしても、今の僕を救うことが出来るのは、僕たちが「幸せ」だった頃にあんなに忌み嫌って、あんなにめんどくさがっていた、あの機械的な一歩一歩、心とは無関係に、前に向かって進むあの一歩一歩だけであることだけは、よくわかったよ。前に進まなければならない。人間社会はとてもよくできていて、僕たちにまるで「抜け道」があるかのように、「チート」があるかのように思わせぶりな顔をすることがよくある。でも、僕たちを生かしてくれるのは、崇高な精神でも、高度な計算でも、莫大な財産でもない。ただ、牛のようにのそりのそりと進み続けることだけなんだ。こうして山の中で迷って、一人川辺の石に座って、「どうして僕は生きているんだろう」って考えてたって、だれも助けてくれはしないし、いいことが起こるわけではない。悲しいけど、これは事実なんだよ。生きているのなら、戦わなくちゃ。傷ついてもいいから、前に進まなくちゃ。前に進み続ければ、自分を助けてくれる誰かに会うかもしれない。そんなの分からないじゃないか。立ち止まって、うんうん考えているから辛くなるんだ。心臓は止まるようには出来ていない。生命も、考えるようには出来ていない。頭がいいことなんて、なんの自慢にもならない。とにかく、歩かなきゃ。見つけなきゃ、生きていかなきゃ、戦わなきゃ。だって、こうして、僕たちがどんなふうに過ごしていたって、平等にふりそそいでくれるほど、世界は、自然は優しいじゃないか。




恐怖が一番大きいのは、それを想定しているときなんだよ。僕が一番遭難を怖いと思ったのは、山登りを始める前だ。実際にこうして遭難してみると、もう恐怖なんてのは消えて、あとはひたすら進み続ける足だけなんだ。




想像は悪さをする。現実世界と闘っているときが一番勇敢なんだ。高層ビルから飛び降りた人は、足が地面から離れた瞬間、恐怖から解放される。遭難を怖がる人は、遭難してしまった後は、とにかく人の姿を見つけよう、人間の息のかかった看板でも、木に結びつけられたリボンでもいいから見つけ出そうと全力で瞳孔をかっぴらいて足を前に進める。



きくかかぶ

思い浮かぶは

祖母の顔


だめじゃないか。勝手に川に入っちゃ。


とにかく、生き続けること、死なないことだ。誰かが見つけてくれるまで、なんとか。



私は誰だろう?きっとあの木の中にいる小人が動かしている、根っきり虫みたいなものなんだろう。




限りなき空に浮かべ




ああ、お母さん・・・




もう動けない。ここで死ぬのか。




釣り上げたヤマメの大きな目




(以下空白)




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