自分の中の子どもは大切にしよう。

創作には高揚感があります。頭の中でなんとかひねり出した物語の糸口を、撚ってこねて搗いて一つの世界にしようとキーボードを打つ時、大変気持ちのいい夢の中にいるような、「どうだこの野郎!これが俺の想像力じゃ!」とでも言いたくなってしまうくらいの躁状態に陥ってしまうことが、よくあります。私は、私の作った世界の中で大いに遊びます。そこでは、登場人物をどのように仕立て上げようがこちらの自由であり、すべてお構いなしです!なんだってできます。創作の世界の中では、私は全知全能の神であり創造主だからです。

だが、いったいどういう風の吹き回しか、突然、自分が作り上げた世界が独り歩きを始め、最初は考えてもみなかったとんでもない展開が急に起こり、自分が司るはずの登場人物も、創造主がおよそ思いつきもしないような不可解な行動をしだす、ということが起こったりするのです。それは、整理された世界の中に突然現れる異次元空間への切符みたいなものです。自分自身の中に確立している「秩序」をぶち壊すものです。もっと言えば、自分の見ている夢の中にこのようなワクワクする、意味不明な出来事が起こってほしいという潜在的な願望の表れです。

私は、1000文字小説などという愚にもつかぬ試みの中で、自分の心を遊ばせ、解き放ち、自由に活動させることができます。その中で起こった予想だにしない出来事が、自分の潜在意識が持つ欲望の表れだとすれば、創作活動が急に面白く感じてくるのです。自分が作り出したものにより、自分の精神に対してフロイト的な分析のメスを入れること、自分が普段何を考えているのか、いったいどこまで奇想天外なイメージをつくりだすポテンシャルを持っているのか知りたい。そして、想像の中で自由に遊ぶことのできる自分の心の中の「子ども」に母乳を与えてやり、齢をとるまで後生大事に育て上げていきたい、これが私の創作のモチベーションであり、生きていくことに対する情熱の源になっているのです。

生活に追われたり、人間関係に疲れたり、世間の中で生きていくための苦労を軽く見てはいけないことも、よく分かっているつもりです。創作やら芸術やらが暇人の仕草であると言われがちな理由も、何となく理解できます。それは、ごく限られた人でしか資本主義的な「価値」を生み出さないものだからです。多くの人にとって、いろいろ考えること、感じ取ること、感受性を豊かに保つことは生きていくうえで不要です。むしろ、考えないこと、無骨であること、鈍いことの方がより良い結果を惹き起こしたりします。いい結果、それはつまり「手に入れる」ことと、「稼ぐ」ことにつながる結果です。お金がこれほど大事になってくる世の中で、その価値から目を背けることは出来ません。でも、食っていくことから目を背けたくないから、仕事から逃げるわけにはいかないからこそ、私たちには休息場所が必要なのです。それは、誰の目も気にせず、誰の評価も気にしない、自分だけの「遊び場所」であり、自分だけの世界です。世界には、いったいどれほどの名もなき小説が埋もれていることでしょう?才能がなくとも、有名でなくても、遊ぶこと、生み出すことは誰にでもできることであり、それについて自分が満足できれば、賞を取らなくても、文壇で名を上げなくても、すでに大成功している、と言ってもいいのではないでしょうか。

芸術は、人間をなぐさめるためにあるのですから。

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