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ある旅の話

とあるターミナル駅の裏路地の、バス停の傍らについている雨除けのちっさい掘っ立て小屋の壁にひっついている、変にタバコ臭いガムのカス。人里離れた寂しい土地に立ってて、真っ白なマス目に遠慮がちに刻まれているバスの到着時刻の、非情さといい、それを待つ時間の、あの何とも言えない豊かさといい、なんとも憂鬱な気分になった少年は、この憂鬱な気分をさらに刺激して、もっと自分の精神を絞り上げ、自分がこの世で何か大いなる偉業を成し遂げるための礎にしようと目論んだらしく、旅に出ようと決意した。

少年が抱いていたのは、一言で言えば、「詩情に対する恋慕」であった。体と心の成長のスピードに若干の差異があり、世慣れていないが、幸福な未来を信じて疑わない、というわけでもない、やや繊細な若者が抱きがちな、例のアレである。日頃の鬱屈した感情にさまざまな文章なり動画なりアニメなりで麻酔をかける、怠惰な時間の潰し方に飽き飽きしたためだろうか。または、若き心臓から迸り出る血液を、「俺は大人だ」と口うるさく主張してやまぬ、彼にとっては天にも地にも一枚看板の、無駄に情報を吸収しすぎてすき焼き豆腐のようにボロボロと崩れ去りそうな大脳が押しとどめる時の、あの何とも言えない焦燥感、耳元で四六時中、「何かしなければならない、だが、何をすればいいのだ?」と悪魔がささやいているあのじりじりした拷問に耐えられなくなったのだろうか。いずれにせよ、よくある話ではある。若くて暇を持て余した少年は、得てして、旅への甘美なあこがれに胸を染め、青春18きっぷを買ってあてのない旅に出たりする。彼もまた例外ではなかった。

どこへ行こう?少年は考える。西か東か。北か南か。目的のない旅、あてのない旅、聞こえはいいが、内部は空虚である。出会い?別れ?そんなものは期待するだけ愚かである。降り立った町は、彼を、やんわりと否定していく。道行く人々は、当然のように、無関心な表情をしてスマホを覗き込んでいる。もっともこの少年とて、事前にマッチングアプリをスマホの中に仕込んでおいて、願わくば短期的なご縁を結びたいと考えているようである。なんとも不埒な奴である。

列車は、次から次へと躍り出る、ぴっちりと平行に描かれた白線だの、歩行器を持ってえっちらおっちら、かかりつけの医者にでも行くのであろう老婆や、一本一本の木がまるでバリカンで剃りたての高校球児の頭のように見える低山や、国道の青い看板やら、ハイエースやらを少年に見せた。少年はうつろな目をしてそれらを見やっていた。このような贅沢な旅の中で、最も内容の濃い時間は、間違いなく無駄に時間をかけているこの移動時間である。過ぎ去り行く風景に思いをはせ、あのおばあさん今日はどこに行くのだろうとか、あら可愛い幼稚園児がお母さんの手を握って田んぼのあぜ道を歩いている、あの可愛い子は未来永劫母親の手が自分の手を包み込んでくれるものと信じて疑わないだろうとか、いろんなとりとめもない、言ってしまえばクソどうでもいいことを考えるのが、この上なく贅沢なのだ。やがて、少年の瞑想時間も終わりを告げた。彼の乗っている電車は、のべ260kmの長旅を終え、とあるターミナル駅に到着したのである。

ターミナル駅と言っても、新幹線なんて夢のまた夢、特急列車もろくに止まらないような代物であった。ホームに降り立ち、いざこの地を征服せんと意気揚々と右スワイプを試みる彼の手に、気づけば異様な蛇が巻き付いていたのも頷ける。少年はびっくりして飛び上がった。その蛇ともミミズともつかぬような気持ち悪い生物をうっちゃると、さっそく次々と湧き上がってくる異性の写真を物色し始めたわけたが、どういうわけかこの地の異性はみなトップ画像として蛇の写真を掲げて恋愛活動をしているらしい。次から次へと湧き上がる、多種多様な蛇の写真、赤い目をした奴や、黄色い尻尾をした奴、そんな馬鹿げた写真を見て少年はわずかばかりの可能性を感じたのだった。

少年は考えた。この地の女はみな自分を蛇に投影している。それの意味するところは何か。それは、ぬらぬらと動く棒状の物、次から次へと獲物を呑み込む貪婪、そして、何よりも手も足も出ないと言った有様。これはいける。自分はこの地で逢瀬を遂げ、やがて世の中で大いなる偉業を果たすための栄養を得るのだ。ようやく、ようやく俺にもチャンスが回ってきた。

意気揚々、胸はドキドキ高鳴り、駅前のロータリーでしばし茫然自失とした後、彼は直ぐ近くのドトールのそばで店内Wi-Fiをくすねてアプリに没頭した。やがて彼が与えうるハートの制限が来ると、「これ以上の欲望にはお金を払え」というような趣旨の注意書きがスマホの画面上に躍り出るばかりであり、彼の求愛行動はむなしくもそこで終わってしまった。ここであきらめるわけにはいかない。課金の手続きを行おうとする彼の指先に、またしても先ほどの蛇が巻き付いていた。

蛇、そうだ、蛇がこの俺にまとわりついている。この出来事は、いったい何を暗示しているのだろう?

少年は考えた。

まるで分らない。この世の中で起こることは、まるで分からない事ばかりだ。

少年は考えた。


蛇は彼の指に嚙みついた。指先から流れ出た血は、見たこともないどす黒い色をしていた。アスファルトの地面に点々と垂れたものを見ているうちに、少年は、自分が何か誰も知らないこの世の真理を悟ったような気がした。だが、それは気のせいであった。どうやら彼は、この世の中は分からない事ばかりで、次から次へと現れる様々な障害を臨機応変に乗り越えていくことこそ、生きるという事なのだということを悟ったようであった。それは陳腐な気づきだった。誰しもが考えることである。それをば、まるで自分が第一の発見者であるようにのぼせ上ってしまったことはたしかに愚かであったが、同時に、ほほえましい限りであった。

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