景気が良いのに生活が苦しいのは金と物が余っているかららしい

本を読むことの醍醐味の一つは、他人の思考を自分の中に取り入れることで頭が良くなった気分になれることだと思う。

最近、佐伯啓思の『経済学の思考法 稀少性の経済から過剰性の経済へ』という本を買って読んだ。

私は、正直経済学はかじった程度しかない。故に多少読み込むのに時間がかかったが、かなり面白い内容だった。少なくとも、今まで自分が漠然と感じていたものを言語化してもらえるという快感を得ることができ、大変満足している。

本書の内容を、本当に端的に分かり易く絞って、あえて誤解を恐れずに説明するならば、「今の世界は金も物も余りまくってるゆえに、不況である」ということであろう。言語化してみるとこいつ何言ってるんだ?感がすごい。

もう少し説明を加えるとしよう。まず、従来の経済学の理論、特に新古典派経済学と呼ばれる自由主義経済論者の想定する「経済」は、には「時間」と「不確定性」の論点が無いのである。

ちょっと待って、まだ離脱しないで。説明するから。

自由主義経済とは何か。それは、市場経済は政府からの規制を排除した方が上手くいく(というか、規制そのものを毛嫌いする)という考え方である。いわゆる経済学者のアダム・スミスの言う「神の見えざる手」によって自然と市場の需要と供給は安定するから、我々は何もしなくても良い、ただあるがままの市場のやり取りに任せよというスタンスだ。また、これを推進した経済学者たちは新古典派経済学派であると言われる。

しかし、本当に何もしなければ理想的な経済が成立するのか?筆者の考えでは、そうではない。なぜなら、彼らの理論の根底の根底で、抜け落ちている要素があるからである。

皆さんも見たことがあるのではないだろうか。あの、需要と供給のグラフ。

画像1

ちょっと、Wikipediaから画像をお借りした。これである。

これが新古典派経済学の理論の根底にあるもので、要は需要と供給は自然と均衡点で釣り合うようになっているというものだ。

ただ、この図からも分かるように、ここには「時間」の概念と「不確実性」の概念が含まれていない。

例えば、A山とB海の住民がそれぞれのものを持ち寄って物々交換をしたとする。A山の住民は魚が5匹欲しい、B山の住民は栗が20個欲しいとする。両者がそれぞれ欲しいものが事前に分かっていて、それらを広場に持ちよって物々交換をするならば、貨幣は必要ない。

しかし、A山の方で今年は栗の出来が悪くて20個用意できなかった。その場合、取引が成立しないことも考えられるが、それだと両者困る。よってまた次の機会に追加で持ってくるという約束をすることにし、A山の住民はその証として栗の数だけ、きれいな石を預けておくことにした。

受け取ったB海の住民は、これをまた来年A山の住民に渡すことで、その数の分だけ栗を貰えることを保証してもらった。だがしかし、ここでB海の人間は思うだろう。本当に引き換えてもらえるのか?と。もしかしたら約束を反古されるかもしれない、と考えるのが普通ではないだろうか。

そのため、B村の人間は、担保の石をA山に伝わる神の呪力を宿したと言われる石を使うように求めた。これはA山の人間にとって大事なものであるから必ず取り返したいと思うに違いないと。

このように、交換が成立したとする。

しばらくして、B海の人間が、C村の米が必要になった。しかし、C村では魚は今必要ではないらしい。代わりに祝い事があるので山の幸が必要とのことだ。そこで、B海の人間はAの人間から預かった貴重な石をC村に預けて米を貰う取引を持ち掛けた。C村の方でも、これは確かにA山で大事にされている石だという認識があったから、その取引に応じた。しかし、C村の人間は、この石全てを交換するのではなく、将来また栗が必要な時のためにいくらか取っておこうと考え、石を半分を残して、半分だけ栗と交換した。

筆者はこのような例えを用いて説明しているが、ここで大事なのは、物の交換がその場ですぐに行われるのならば貨幣は必要ないという事であり、更に、貨幣が使われた場合、そこには必ず時間差が生じるため、不確実性(本当に交換できるのか、否か)が発生し、加えてもしその貨幣が有効ならば将来を見据えて貯蓄する行動をとる人間が一定数いることを示している。

しかし、それらは上の図には考慮されていない。故に上の図を使って理論展開をする新古典派経済学でもこのような不確実性や貯蓄に関して説明ができないのである。

不確実性に関してもう少し説明すれば、それは市場の外部から来る何らかの圧力である。例えば、先ほどの例で言えば、栗の木が全て枯れてしまったとか、山火事が起きてA山の人間がいなくなってしまったとかである。または、自分が交換する前に死んでしまったりである。

このような不確実性は、リスクとは区別される。リスクとは予測出来て回避できない損失であるが、不確実性はそもそも予測ができない物だとされる。故に回避もできないものであり、得てしてそれの被害は大抵の場合許容できる範囲を大きく超えるものであると。自然災害などはその際たるものである。

話を戻すが、上の例で示されていた通り、一般的に人々が市場経済で生活している場合は、収入のある程度を貯蓄に回すはずだ。そしてそれは、市場で出回っているお金が減少することを指す。お金が減るということは、生産者は今まで通りに作っても物が売れない。よって生産量を減らすため、売り上げも減少し、給料も減る。給料が減ると、我々は将来が不安なのでさらに貯蓄にお金を回し…。このように、市場経済では何もしなければ必然的にデフレになる圧力が加わるのである。

そこで、対策を取ることにした。それは金融といって、貯蓄を再び市場に持ってくるために、企業への投資を持ち掛けたのである。企業はお金が手に入ってハッピーだし、投資した方は結果的に貯めているより多くのお金を貰えるのでハッピーというWin-Winな関係である。そうしたら、そのうち株式とか証券そのものをお金を介してやり取りするようになった。これがいわゆる金融市場というやつだ。

で、日本のバブルが弾けて以降、日本は長くデフレに悩まされている。これは何も日本だけではなく、どこの先進国も抱える悩みなのであるが、それに対して、日本は何をしたか。日銀に対して金をもっと配れと指示を出したのである。

するとどうなるか。デフレ下では、企業に対して投資をしても投資家にとってあまり旨味は無い。なぜなら収益が伸びる見込みが薄いから。ならば、金融市場に投資をして直接お金を増やせばいいのではないか?と多くの投資家が合理的に考えた結果、増やしたお金は金融市場へと集まり、デフレは何も解消されなかった。しかし金融市場には大量のお金が集まったため、プチバブルが発生し景気は良くなった。しかし、バブルは弾けるものであるから、また金融市場は暴落し、それが実体経済に影響を及ぼし更に不況になる…。これが今日本を襲う「景気は良くなったが実生活はむしろ悪くなった」の中身である、と筆者は言う。これは今主流の新古典派経済学者には説明のできないことだとも。

さらに、コロナなどの市場外部の圧力や、金融市場のバブルに代表される不確実性に対して、自由主義経済は何も対策ができない。なぜならそれらは一時的には市場に作用するものの、時間が経てば経済は回復するからである、と新古典派経済学者は言う。ほんとか?と思う。

要は何が言えるのかと言うと、現在は(一般人にお金が無いから)物が売れなくて(=供給能力の過剰)で(金融市場で)金余りになっているということなのである。

なので、従来の企業の生産力を上げれば景気が何とかなるという考え方は、ちょっとナンセンスなのだということだ。マーケティング(=いかに欲望を刺激して物を買わせるかという技術)が流行るのも、そりゃそうだと納得である。

この本は、もっと根本的な消費とはどのように生まれるかとか、リーマンショックがなぜ発生したのかとか、色々面白い視点がある。

ただし、経済学的な基礎知識が無いと読み込むのはちょっと難しいので、もし読みたい人は経済学をちょっとかじった上で読むと良いと思う。

読めた人は、他の人に対してドヤ顔ができるだろう。今の私のように。

気になったら是非読んでみて欲しい。

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