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連作短編「閉じ込めた悲しみの、透明な匂い」


諦念な暮らし



「好きなドーナツはなんですか?」

淡いピンク色をした入力欄に、私はそう打ち込んだ。風俗情報サイト「ハピハピタウン」の「お気に入りチャット」はその名の通り、お気に入りや気になっている風俗嬢と直接やりとりすることができるチャット欄だ。

四十近くにもなれば自然と甘いお菓子よりも質素な和食なんかを好むようになると思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
子供のころから変わらず甘いものはおいしいし、複雑な味のものは味が定まっていないような気がしてすすんで食べる気にはなれない。
酒を飲めば多少は違っていたのかもしれないがそれも今のところあまり興味はない。

先の質問は何も本当に好きなドーナツが知りたいわけではない。単に話のきっかけをつくりたいときは好きなドーナツをきく。話題を変えたいときは好きなおでんをきくと決めているだけだ。SNS上で無視するわけにもいかない人から際どく絡んでこられたときは、「そういえばさ、好きなおでんの具ってなに?」などと話題を変えている。脈絡もなく強引ではあるが相手にも伝わってしまう「ブロック」より角が立たない。それにSNSはいつ読むかもわからないし、相手がどこにいるかもわからない。そんな相手に対して天気の話題をしても挨拶にすらならない。ドーナツは会話に華を、おでんは平和をもたらしてくれる。


夏も終わりに近づき、月に二回のペースで通うこととなった心療内科へ向かうため、最近越してきたばかりの青い瓦屋根をした南欧風の古いマンションを出た。高い位置から降り注ぐ、刺すような陽の光を一身に浴びながら駅のほうへ歩いて向かう。私の住むマンションのほかにも古い住宅や団地が多く、このあたり一帯の住民といえば、高齢者だ。しかし、ここ十数年で一気に外国人も増えてきている。人種の坩堝なんていう言葉を昔はよく聞いたものだけれど、実際のところコミュニティは交わっていない。それぞれにコミュニティは存在しているが、高齢者は外国人を怖がり、外国人は日本人高齢者のことなど気にしない。なんともつまらないものだが、それでも街の体を保てている。そもそも交わる必要などないのかもしれない。

駅まで続く表通りから並行して伸びる車通りの少ない商店街を歩く。せっかくならうるさく狭い歩道ではなく、少しでも静かな道を歩きたい。引っ越してくるまで気づかなかったが、二十数年前に通っていた高校にかなり近かった。実家と学校、点と点を行き来するように通っていた高校時代を思い出す。ネットの情報だが、あのころに比べると中国やベトナムの食材を取り扱う店がかなり増えているようだ。けれど、今の世界は料理に国境がない。そのような世界に「変更」された。料理に国境がなくなり、スーパーではフェアでなくともよくわからない中華食材やインスタントのフォーなんかを買うことがでる。中国やベトナムの食材店には蕎麦や納豆が一応並んでいる。しかしやはりというかなんというか日本人と外国人が交流するには至っていないように見える。国の異なる人々は交わることなく、ただ食材や料理だけが交換留学している。なんともつまらないものだが、それでも街の体は保てているのだから仕方ない。

道行く中学生の集団も私が聞き取れない言語を話している。その集団に日本語を話している子はいない。そういえば私の通っていた高校は、いつの間にか中高一貫校になっていたんだっけか。

商店街を歩いている私の横をよくある真っ白な商用バンが通り過ぎた。なんとなくそれを目で追っていると、商用車は大きく何かをよけるように蛇行した。その道の真ん中で自転車を止めかがんでいる女性がいる。近づいてみると、自転車の後ろの車輪にワンピースの裾を巻き込んでしまったようにみえる。前にかご、後ろに荷台のある臙脂色のいわゆる普通のママチャリが人間に反抗しているみたいだ。

機械は人間の僕であるが奴隷ではない。付き合い方を誤れば反抗は免れない。バイクや自転車のようなむき出しの機械との付き合いでは、巻き込まれる恐れのあるものを身に着けるのは禁忌である。もっとも、機械の側からすればただ仕事を全うしているだけなので反抗でもなんでもなくただ迷惑を被っている。それこそ巻き込み事故なだけだ。機械を扱う側として、機械を理解せず適切に利用しないことの当然の報いでしかない。しかし、身近にある機械の正しい使い方について一から十まで理解することは難しいのもまた事実だ。カセットコンロはガスボンベにかぶさるような鉄板を載せてはいけないし、脚立はまたいではいけない。想像力がなければエスカレーター脇のアクリルの保護板の意味もわからないだろうし、自転車の後輪につけられているネットの意味もわからない。この自転車にはネットはついていない。仕方のないことだ。

「お手伝いしましょうか」

と私は声をかけ近づき、自転車のやや後方に向き合った。どうやら道行く人は少なくなかったが声をかけたのは私だけだったらしい。あまりにも突然のことでどうしてよいのかわからず焦っていたようだが、私に声を掛けられ少し安心したようだ。手先の器用さには自信がある。何とかしてみよう。

時間はかかってしまったものの、なんとか絡まった裾を取り出すことはできた。絡まった際にワンピ―スは傷んでしまったが、女性は何度もお礼の言葉を口にする。もう不安の表情は消えていた。彼女は鞄からアルコールティッシュを出し、私たちは車輪を触って手についてしまった汚れを拭いた。アルコールティッシュは開封してからかなり時間が経っていたのか半分渇いたので油やホコリが混じった汚れを完全に拭い去ることはできなかったが、仕方はないが、私の気持ちは幾分晴れやかだった。

当然の報いとか力になれるかとかは別として、私は困っている人をなかなか見て見ぬ振りができない。私ではきっと力になれないだろうと判断して素通りしても、あとで、あのあとどうなったのだろうか、誰かが助けてくれただろうか、もしかしたら自分でも力になれたのではないか、などと終わりのない霧の中を進むようなモヤモヤを抱いてしまう。そうなるくらいならたいして力になれないとしてもひと思いにえいやっと助けに入った方が、自分が納得できる。結局は自分が後悔しないための自己満足による手助けなのだが、スタートはどうあれ今回はちゃんと助けられて私自身も安心した。

女性と軽く二三言葉を交わして別れた。そのとき。


♩~(A(ラ)の音)


かすかに鳴る、世界が「変更」される音。それを私は聞き逃さなかった。オーケストラのオーボエからはじまり弦楽器、管楽器、低音楽器と続くAの音のチューニング。絶対音感はない。ただ、小さなころからやっていたピアノや学生の頃にやっていた吹奏楽で培った相対音感と、小さな音も拾える耳の良さは、手先の器用さに次ぐちょっとした自慢だ。なによりこの音は物心ついたころから幾度となく聞いている音でもある。

「あーあ、今回は割と平和なほうだと思ったんだけどな……」

ひとりごちる。世界は突然前触れもなく「変更」されてしまうからだ。いつどうして何のために変わっているのかはまったくわからない。ただただ自動的に変わっているかもしれないし、誰かが何かの道具や力で変えていたりするのかもしれない。どうあれ、あるとき突然鳴り響くこのAの音を合図に世界は「変更」され、みなそれ以前の世界の記憶も無くし何事もなく新しい世界に順応していく。まるでスマホの自動アップデートだ。

私を除いて。

そう、私は世界の「変更」の外にいる。「変更」以前の記憶を保ち、自動的に順応はしない。「変更」が起こるたびに世界のルールを探し、頭と身体を慣らしていく。手動アップデートだ。

子供の頃は学校で様々なことを教えてくれた。間違えば優しく諭してくれた。しかし大人になってからはもう誰も何も教えてはくれない。ルールがすぐ見つかるときもあれば、全然見つからずによくわからないまま過ごすことも少なくはない。当然、ルールによっては順応できないことも、ある。

二十代の頃に一度だけ、よくわからない世界になったことがあった。ほんの三週間足らずの期間ではあったが、気持ちの悪い世界だった。すれ違う男女のほぼすべてから多かれ少なかれ性の対象として見られ、勝手に値踏みをされた。この気持ち悪さや腹立たしさは経験しないとわからないだろう。電車で痴漢にも遭った。駅ではおっさんにぶつかられ、階段から突き落とされた。幸い大けがにはならなかったが私は二週間ほどでその世界に対応することをあきらめ、会社を休み可能な限り部屋に引きこもるようになった。こんな地獄のような世界って何なのだろう。そんなことばかり考えて毎日を過ごした。SNSでは私のように被害に遭う男女の投稿が少なくなかった。なにやらハッシュタグがついてトレンドになっていた。引きこもりが一週間を迎えたころ、元通りの平和な世界に戻った。SNSでどんなに声があがろうと世界は変わらない。声をあげるくらいで世界を変えたいだなんてそんな気持ち悪い世界は二度とごめんだ。せめて「変更」の間の記憶が私以外の人間にも引き継がれれば、この静かな地獄のような世界も少しは変わっているかもしれないけど。


勤めている会社では男女問わず親しまれている中間管理職だった。仕事には手ごたえを感じていたし、周りにもそれなりに馴染めていたと思う。

うっかりすると顔を出してくる女性を性的な目で見てしまう視点は、かつて経験した(あの気持ち悪い)世界の反省をいかして極力排除していたし、仕事はもちろんプライベートの相談にも乗って、ときには時間をかけて恋愛の悩みを聞いたこともあった。そっとしてほしいと思われる人にはそれとなく気にかけていることは伝えつつも執拗に近づくことはしなかった。かつて飲み会が当たり前だった世界に「変更」されていた時代はずいぶん長かったようだが今はそうではない。だから飲み会を強要することはなかったし、むしろ女子会なるものに(男性ながら)呼ばれるくらいであった。余談だがそんな中間管理職は少し人気、いわゆるモテていたようで、何人かの女性社員とはお互いの同意を確認した上で夜の関係になることもあった。石橋はたたいて渡る。世界のルールにも大抵適応できている私は会社の人間関係についてもうまく適応し、万事うまくやれていたはずだった。

しかしある時、ハラスメントを訴えられることになる。苦情内容から推測するに、プライベートの相談に乗っていた私の部署の女性社員と交際していた若手の男性社員からだと思われるが、通報は匿名性を保たれるため本当のところ誰から訴えられたのかはわからない。相談に乗っていた女性社員とはそれ以上の関係ではなかったが、彼女のほうはすでに交際を解消するつもりであったようだし、その後は私に乗りかえたかったらしい。彼女の真意に気づかず一緒に飲みに行ったのが泥沼の始まりであった。男性社員側の感情にも気づけなかったのは私の落ち度だが、とんだとばっちりだった。その後の私ができることといえば、前よりも人間関係に距離を置くことくらいであった。ちなみに部署は異動となった。

後になって気づいた。そのときの世界は、飲み会を強要してはいけない世界などではなく、年長者が出しゃばってはいけない世界だったのかもしれない。

ルールが明確でないときは実に多い。親切にポストやスマホにお知らせが届くわけではないし、世界が変わる音を認識できるといっても眠っている間に鳴っていれば当然しばらく「変更」に気づけないことだってある。

今は休職をしている。たとえ世界の大抵の「変更」に慣れることができても、人間関係ですり減ってしまってはさすがに身体がもたない。なんにせよしばらく人との距離を置くことはつづくと思われるし、そもそも私からすれば「変更」に気づけないすべての人間が信用ならない。パートナーをつくる気になど当然、なれない。

今回の世界はどれくらい続くのだろう。まだどんなルールなのかもわからない。考えてもどうにもならないとわかっていても、気に入っていた世界のあとではどうしても考えてしまう。

「今回は結構気に入ってたのにな……」

私はもう一度つぶやいた。



「そんな質問はじめてだよ」

あすかからのチャットは数十分ほどで返ってきた。メール通知は来ていたはずだがメールなどはもはや用事がなければ見なくなっているので、チャットに気づいたのは心療内科の診察が終わり、近くのジョナサンで遅めの昼食としてハンバーグセットを食べていた数時間後であった。心療内科からは休職継続との診断が下りていた。


あすかに会ったことはない。「ハピハピタウン」に掲載されているあすかのバストアップ写真はギャルのようでも人妻のようでもない。こういう店が書いている年齢はあまりあてにはならないが、二十歳と書いてあるのできっと学生かフリーターあたりなのだろう。左肩を前にしてやや前傾していている全身写真では体型はよくわからないが、あすかが所属している「マシュマロホイップ」はぽっちゃりした女性専門の店を謳っているのできっとふくよかなのだろう。顔のアップは鼻から下に手をあてて隠している。それなりにかわいく見えるが、マスクをしている人がかわいかったりかっこよかったり見えるのときっと同じで過度に美人を期待してはいけない。そんなことより、私は誰もが振り返るような美女ではなく普通がいい。普通であることに私はむしろ期待をしたい。普通にその辺にいそうな人であればあるほど日常の延長になる。私はさんざん男性的な性欲の気持ち悪さをわかっておきながら、すれ違う女性たちの値踏みをやめられない。日常に突如現れる暴力的な妄想とそれを実現したいと居座る欲求にあらがえない。だから日常を感じる普通を強く求める。日常を汚す欲望を満たしたい。

そういった汚いものたちが、はたして染みついた古い世界の価値観からくる「ソフトウェア」なのか、はるか昔から人間にそなわった根源的な欲求に由来する「ハードウェア」なのかは、もはやわからない。どちらにせよもう仕方のないことだと思っている。

会社の人間と距離を置くようになってからというもの、以前にも増してそのような衝動に駆られるようになった。しかし道行く人にそういった視線を向けるわけにはいかない。これ以上世界から弾かれることは避けなければならない。そして結局性的な視線を向けて妄想を膨らませたところで結局何の解決にもならない。性風俗であれば金さえ払えば膨れ上がった衝動や欲求の都合のいい捌け口を得られる。社会に用意されたその純然たる事実に気づいてからというもの、その利用頻度は確実に増えていった。人間由来のストレスは人間でしか解決できないのだ。


妄想といえば、私以外にも世界の「変更」を認識できる人間はいるのかと考えることもある。もしかしたらいるかもしれない。ただ、「変更」が認識できることと世界が「変更」を繰り返していることを表に出してしまうのは厳に慎まなければいけない。ありえない現実だとしても、映画や小説ではないのだから。

順応できない人間は、ただの変わり者として避けられるくらいならまだよい方で、虚言や精神的異常を疑われ社会的に排除の対象とされてしまうことだって考えられる。そういう人間がいれば私と同じかと言えばそうではない。ただの社会不適合者と私のような社会“難”適合者を見分けることは極めて難しいだろう。だからもし私と同じように「変更」を認識できるような人がいたとして、交流をもったりつながったりすることはおろか、知り合うことさえできないだろう。せめて認識できるもの同士の合言葉でもあればよいのだが。

「この世界はおかしい」などと訴えても無駄でしかない。信じてもらうどころか、このわけのわからない世界を説明すらできない。どうしても世界に対応できなければおとなしく引きこもり、そして次の世界へ変わるまで辛抱強く待つほかない。

何度か前の「豆腐を尊ぶ世界」(正確に言えば、豆類を絞った汁を凝固させたものを尊ぶ世界)であれば、たとえ豆腐を食べることが苦手であっても(アレルギーは仕方ないとして)表向きに尊ぶ姿勢をとっている限りは社会的に排除されるまでには至らなかった。豆腐の柔らかさのようにみんなにやさしい世界だった。「豆腐が尊い世界」だなんてばかばかしいが、そのばかばかしさを私は少し……いや、かなり愛していた。

私からすれば世界は常に狂っているが、世界からすれば私こそ狂っているのだ。


「ミスドならフレンチクルーラーとハニーチュロかな。あとこれは絶対なんだけど、おかわりできるカフェオレ。ミスドで課題やること多いから」

あすかのチャットにはそう続いていた。かつての絶対的定番「トーフドーナツ」は、実際かなりおいしかったのだが、メニューにも人々の記憶にももうない。

「ミスド以外だと?」
「ドーナツってミスドしか食べたことない」
「クリスピークリームドーナツも結構おいしいよ」
「近くにお店なくて。食べてみたい」
「じゃあさ、今度あすかさんの予約入れるから、その時買ってくよ」
「ほんと? うれしい!」
「じゃあまた」
「ありがとう! またね」


♩~(夕方の訪れを告げるチャイムが鳴る)



心療内科では適応障害と診断されている。かつてのわけのわからない気持ち悪い世界で引きこもっていた頃の私も、おそらく適応障害だったと思われる。順応できる世界ばかりではない。適応障害はいつだって私の隣にいて顔を出す機会をうかがっている。


♩~(スマートフォンの着信音)


「こちらカワグチ様の電話番号でお間違いないでしょうか」

風俗を利用するときは偽名を使っている。カワグチこと川口は申し訳ないがかつての後輩の名字から拝借している。川口かと問われたということは、あすかの店からの電話なのだろう。

「はい、そうですが」

確認が済み一呼吸置いて、ボーイだか店長だかわからない電話先の男が口を開いた。

「マシュマロホイップでございます。本日はあすかさんのご予約にありがとうございます。今日はあすかさんが性病検査の日でございまして、今病院に行っているとのことですが、そちらが大変込み合っているようで少々……一時間ほど遅れてしまうかもしれません。大変申し訳ございません」

なんだ、そんなことか。

「全然かまいませんよ。ゆっくり来てくださいとお伝えください」
「ありがとうございます。つきましては、オプションを一点サービスさせていただきます」
「それは……かえってすみませんね。ありがとうございます。では……」

 

秋に差し掛かり、涼しいと感じる日も多くなってきた。この日、あすかと会う以外の予定はない。午前中にあすかの店から予約時間変更の電話をもらっていたが、私はすでに住んでいる街から電車で五駅下った県内有数の繁華街のホテル街に予約時間よりも数時間早く到着していた。夕方からは雨の予報ということもあり、昼を回ったばかりだがすでに空は曇っていた。私はスーツケースを引き、ネットで調べたホテルを目指す。幸い早く入室したとしても定額で利用できるサービスタイムからはみ出すこともなさそうであるし、私は早めにチェックインすることにした。早く来たら来たで、やることがある。

今回、あすかと会うために入ったホテルはモノトーンで落ち着いた雰囲気のラブホテルだ。建物は古そうだが内装は新しい。割と最近改装をしたのだろう。内装や雰囲気は部屋ごとにランクがあり、高いほどよりおしゃれになっていく。せっかくなら一番グレードが高く広い部屋にしたいところだったが、先客がいたようだ。フロントに確認すると泊りの客のためすぐに空くこともないようだ。しぶしぶセカンドグレードの中のいちばん装飾の少ないシックな部屋を選んで入ることにした。妥協した結果ではあるが、部屋の壁にあるクラシカルな間接照明のランプが割と気に入った。テレビのような大きな液晶モニターの六〇五号室をタッチし、フロントでキーを受け取る。上り用エレベーターで六階へ上り、入り口の部屋番号ランプが点滅している六〇五を目指す。どうやら突き当りの角部屋のようだ。

部屋に入り靴を脱ぎ、内扉を開けるとこげ茶色の木目の内装をした写真の通りの空間が広がっていた。壁の間接照明も写真もままだ。幾分暗くも感じるが、ラブホテルなので問題はない。

あすかがこのホテルに到着するまでまだ二時間ほどある。マシュマロホイップにホテルの六〇五号室に早めに入ったことを伝え、マシュマロホイップから部屋の固定電話に折り返しの電話をもらって入室の確認を済ませた。

私はスーツケースからナイロンでできたグレーのメイクポーチを取り出した。それから黒のワンピースと黒のタイツ、ボブカットにそろえた金髪のウィッグを取り出した。

まずは洗顔をする。顔表面の汗と皮脂を軽く落とす程度に。ホテル備え付けのフェイスタオルで顔を拭く。ごわついていて無香の、ホテルのものらしいタオル。

ワンピースにそでを通し、タイツを履く。ワンピースは堅い体型を丸みの帯びた柔らかいシルエットで、タイツは隆起した筋肉の輪郭をぼかすように包んでくれる。

ぎちぎちに詰め込まれているポーチから、ひとつひとつ慣れた手つきで順番にメイク道具を取り出していく。

目の下と頬にコンシーラーを載せ、隈と肌の凹凸を目立たないように均していく。リキッドファンデーションを顔全体にのばして顔全体を明るく整える。ブラウンのアイブロウで眉の輪郭をつくり、それよりもいくらか黒味があるアイラインをまつ毛とまぶたの際に引いて目元を際立たせる。コンタクトを水色のカラーコンタクトに付け替える。ビューラーでまつ毛を持ち上げ、マスカラでジグザグになぞって視線の集まる目元が完成する。唇が薄くなるようピンクのリップは細く塗り、オレンジのチークを頬に軽く載せる。最後にウィッグを被り、ホテルに備え付けのストレートアイロンで綺麗なラインになるよう毛先を整える。突貫工事だが、アナログ加工としては十分だ。

スマートフォンのカメラアプリを起動して、ベッドで、ソファで、バスタブで、私は写真を撮る。消す。撮る。消す。撮る。どんなにメイクをしても、着飾っても、自分が輝ける角度はそう多くない。偶然撮れる奇跡のような一枚を求めて、何枚も何枚も撮っては消す、を繰り返す。ポーズを決めては自然体に戻す。繰り返しの中で消さずに残した数枚から、さらに絞り込んだ三枚を美肌フィルターと輪郭調整でデジタル加工し、保存する。突貫工事を誤魔化すデジタル加工は欠かせない。本当の工事と異なるのは明確な終わりがないことだが、止めどきを見誤れば人間でなくなってしまう。ロボットが人間に近づくと迎える「不気味の谷」に人間が陥ることもある。シリコンのような肌や宇宙人のような目には惹かれない。リアリティのある姿を追求するならば、こんなもんだろうと思える引き際は大事だ。

液晶画面の中でどんなに努力を重ねたとしても到達できない、私に少しだけ似ている存在しない私がこちらを見ている。今回も一応の満足感を得ることはできた。

ウィッグを脱ぎ、洗面所へ向かった。用意されているアメニティからクレンジングオイルを手に取り、私はメイクを落とした。さっき洗顔で使ったタオルで顔を拭きながらどうせだからシャワーも浴びておこうかという考えもよぎったが、折角なのだからあとであすかと浴びればいいかと思い直し、元の服に着替えなおした。

ラブホテルは私にとって都合の良い撮影スタジオでもある。照明、アメニティ、場合によっては小道具まで、さまざまなものがそろっており、なおかつ一人でも入ることができる。

私は女装をしている。女装は休職してから始めた。なんとなく。ただなんとなく始めた。強いて言えば、自分を自分でないものにしたいという気持ちがあったのかもしれない。どんなに努力をしてもなれない理想の姿は画面の中だけで実現する。結局は何者にもなれない虚しさを感じつつもやめられない悪癖となっている。

この顔をアイコンにしたSNSでは、私のことをかわいい女の子だと勘違いした男たちから、ワンチャンあるかもしれないと生ぬるい鼻息がかかったDMが届くが、全部無視している。女装も見抜けない哀れな男たちよ、一生同じ場所で息巻いてろ。


約束のドーナツはすでに買ってある。ホテルに入る前に駅ビルの一階にあるクリスピークリームドーナツで定番のオリジナルグレーズド二つと期間限定のチョコがかかっているものを買っておいた。


♩~(ピンポーン)


ドアベルが鳴り、私はドアのカギを開けた。あすかが立っている。期待通り普通の女の子が来た。

「遅くなりました。はじめまして」
「はじめまして。お待ちしてました。どうぞ」
「失礼します」

急いで来たのかもしれない。あすかは少し肩で息をしている。ジャケットをハンガーにかけ、淡いピンクのニット姿をあらわにした。

「あらためまして、あすかです。本日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

さっきまで私が撮影に使っていたソファにあすかは腰を下ろした。私は少し離れて横に腰かけた。

「すみません、さっそくですが先にお代を失礼します。二万二千円お願いします」
私は鞄から財布を取り出し、ぴったりの金額を支払った。

「ありがとうございます。それではお店に電話入れますね」
鞄からスマートフォンを取り出した。

「あすかです。お客様のお部屋に入りました。はい、はい」
通話を切りタイマーをセットし、スマートフォンを鞄に戻した。あすかが私のほうに向きなおる。九十分で予約をしているので、おそらく八十分くらいにアラームはセットされたのだろう。

「今日は遅れてすみませんでした。お店の人に聞きましたけど、全然いいよって言ってくださったとか」

予定があって急いでいたわけではないし、もともと休職中の身。時間には余裕がありすぎるほどある。そもそも、今日の目的はあすかで心身共に満足することだ。それさえ満たされれば時間などどうでもよいに等しい。

「全然大丈夫です。それより、ドーナツ買ってきたので食べませんか?」
「本当に買ってきてくださったんですね!嬉しいです。……って、はじめから箱が見えてましたけどね」
「だよね、バレバレ」

箱に入っているオリジナルグレーズドをホテル備え付けのコーヒーソーサーへ移す。

「これを電子レンジで八秒」
「へー。あっためるんだ?」
「そうそう、あっためるとできたてのおいしさが味わえるよ。箱にも書いてある」
「ほんとだー」

たとえこの時間が仕事であっても、あすかは純粋に感動をしているらしい。素直な反応が見られるのはやはりうれしい。


♩~(電子レンジの取り消しボタンを押したときの音)


十秒にセットして回し始めた電子レンジを、二秒残して取り消しボタンを押す。そうしてドーナツの載ったソーサーを取り出した。  


「んー! おいしい! ドーナツの概念が書き換えられたよ!」
「でしょ」

そんな風にドーナツを楽しんだ私とあすかは、その後もお互いの会社や学校などの日常のことや休日の過ごし方、最近はまっているスイーツの話で盛り上がった。あすかは二十一歳の学生。「ハピハピタウン」のプロフィールは入店した時のものから変わっていないそうで、たとえこのまま仕事をつづけたとしてもずっと二十歳のままになりそうだと。

「お店の人が変えるのがめんどくさいだけかもしれないけど、お客さん的にはやっぱり若い子がいいんでしょ?って言ってるみたいで少し複雑」
「あんまり気にしないけどね」
「そう? あと、チャットでも言ったけど、ミスドで結構課題やってるんだ。今年は特に学校が忙しいから今年はそんなに仕事も入れないんだ」

そんな話にうんうんと相槌を打つ。実際ここまで若い女性とは話す機会も久々だったので興味深い視点でもある。チャットの通り、話しやすくて安心する。私は女装のことを打ち明けた。

「えっ? 女装? 私、女装する人に会ったの初めて! 結構かわいく写ってるね! せっかくなら女装のままでもよかったのに」

次の予約のときは女装のまま会うことを約束した。しかし私は女装姿を、写真を通して以外に見せることはしない。あすかとはもともと今回限りと思っているのでこの約束は果たされることはないだろう。


「いけない、もうこんな時間。そろそろはじめましょ」
「お話が楽しくてついつい盛り上がっちゃったね」

嘘だ。私はずっと日常の延長のような時間の中で今日までしばらく抱えてきた衝動と欲求を隠すことなく、吐き出すタイミングを探っていた。いそいそと服を脱ごうとするあすかを制する。

「あのさ、嫌じゃなければ、服のままハグ……したいんだけど」

道行くその辺の女性にハグなどできるわけがない。このような機会を逃してなるものか。もちろん、たとえ身体を提供できてもプライベートとの接点である服に触れて汚(けが)されてほしくない人はいるだろう。だから、断りを入れるのは一応の礼儀だ。

「えっ? ぜんぜんいいよ? むしろさっき急いでたから汗かいてるけど……」

お店のスタッフには急いで来なくてよい旨伝えていたはずだが、そこまでは伝わっていなかったのだろうか。もしくは、伝わっていてなお急いで来てくれたというのだろうか。金が絡んでいるし私の後の予約のこともあるのかもしれない。しかしそれを込みにしても適当に済ますことだってできたはずだ。私同様不器用なのだろうか。ともあれ、健気さを感じてしまう。

「ありがとう。じゃあ……」

「次の予約の時に」と嘘をついたばかりだが、この時の私は心からありがとうと言っていた。私の腕があすかの肩から二の腕を、掌が背中のやわらかい部分をとらえる。本当だ。ピンクのニットはところどころほんのりと湿っぽい。少し強めに抱きしめる。

このやわらかな身体を生んだ母がいて、愛し育てた人がいることに思いを馳せた。友達の輪の中のあすかを思い描いた。私は今日あったばかりのまだよくわからない女を、今だけは愛したいと感じた。

愛するのに、どれほどの情報が必要なのだろうか。相手をよく知らなければ愛してはいけないのだろうか。金が絡んでいたら愛してはいけないのだろうか。性愛という言葉が表すように性と愛は結びついているのではないだろうか。むしろ性欲を満たすだけでは得られない愛し愛されるよろこびを私は得たいのではないのか。そもそも愛とはいったい何なのか。そんな思いが抱きしめている掌と腕から、肩、胸へと伝わり、そして鼻腔、目、後頭部へと伝わったとき、数日間大事に抱えてきた暴力的な衝動だとかを包み始めた。私は愛に従い、今だけの愛だと確認するように惜しむように、あすかを愛することにした。



愛しあうごっこが終わり二人は向き合い横になる。私の腕はあすかを直に包み込む。

「知ってる? ミスドのカフェオレってホットはおかわりできるけど、アイスはおかわりできないんだよ」

私が激しい後悔の渦中にいることも知らずあすかは言った。知らなかったし、心底どうでもよかった。目の前の女をどうにかしてやりたいという思いをコーティングしていた愛のようなものはすでに消えている。目の前の一人の人間を愛おしいだとか大切にしたいだとか思った自分も、この子の中で自分がいい人であってほしいと願う自分も自分だが、金の力を使って暴力的な衝動を他人で解消しようとしたのも、またどうしようもなく自分なのだ。いま、この自分が目を覚まして不満をぶちまけている。あすかにどう思われても構わないと腹を括ることと相応のペナルティを受けるという覚悟を決めれば、いまからでも衝動にまかせて酷いこともできるのではないか。それに、そもそも私はカフェオレをホットしか飲まない。


♩~(スマートフォンのアラーム音)


「アラーム鳴ったから、あともうちょっとだね。シャワー浴びよ?」
最初のおしゃべりに時間をかけすぎた。いま、私の中に活けたドーナツがもたらした話題の華が私を笑うように咲き誇っている。


シャワー中もあすかは続けた。
「外、もう雨降ってるかな? 雨、やだなぁ。こんな世界変えられたらいいのに。あ、私ね、サイボーグになりたいんだ」

あすかは後悔と反省と葛藤の渦中にある私のことなど気にしていない。

困っている人を何度も助けているのだから、私だって助かりたい。やさしく接したのだから少しくらい返してくれたっていいじゃないか。ドーナツもあげたんだし。いままで頑張ってきたんだから、たくさん損してきたんだから、ご褒美があったっていいじゃないか。

あすかは続ける。

「でもさ、世界を変えるスイッチなんてないもんね」

いや、世界は「変更」される。どんなタイミングでどのようにどうして変わっているのかはわからない。勝手に変わってるのかもしれないし、誰かが変えているのかもしれない。たとえば世界を「変更」したい勇者がいて、そいつが魔王を倒したごほうびとして世界を「変更」しているのかもしれないし、神様たちがトランプの大富豪かなにかをしていて、革命が起こるたびに変わっているのかもしれない。もしかしたらドラえもんの「もしもボックス」やドラゴンボールの「神龍」みたいに、未知のテクノロジーや魔法のような力で変えているのかもしれない。大勢が変化に順応できる中、バグのように私のような存在がうまれる理由も意味もわからない。いずれにせよ私には、いや、人には世界を変えるような力などない。私は変わっていく世界の中で振り回され続け、見つめ続けるただのモブだ。

「ここのお仕事も嫌じゃない……っていうか、むしろいろんな人と話せて楽しいからお仕事も続けながら、勉強とか資格とか地道に努力してさ、そうすれば少しだけど世の中も変えられるんじゃないかなって思うんだよね」

私は知っている。努力は報われない。世界の「変更」によってすべてが無駄になることはちっとも珍しくない。若いっていいな。無邪気に世界を変えたいだなんて思えるのだから。喉にちくっとした痛みを感じる。もう話題を変えよう。

「そうだ、あすかさんの好きなおでんの具ってなに?」


「えっと……ごめん、おでんってなに?」 



バスルームを出て着替えながら考える。あすかはおでんを知らなかった。いや、おでんが世界から消え、おでんを知らない人間へと順応したのだろう。おでんが消えるなんて何の因果だろうか。消えたところで誰も得らしい得はしないはずだ。誰かの意思がはたらいているとすれば、その誰かはきっとおでんに村を焼かれた者に違いない。

いつか世界におでんが復活するまで私は好きなおでんの具を聞くことで話題を変えることはできなくなった。だが特段おでんに思い入れがあるわけではないので、それまでは別の何かで代用するとしよう。今回の順応は簡単そうだ。うどんとそば、どっちが好き? とかにしようか。あまりに素っ頓狂な世界の「変更」に、着替えが終わるころにはもやもやとくすぶっていた目の前の女をどうにかしてしまいたいという欲求は霧散していた。

ホテルの部屋を二人で出る。手をつなぎながらエレベーターに乗る。フロントへキーを返却し、ふたたび手をつなぎホテルを出る。

あすかと一緒にいられるのはここまでだ。

「今度は女装みせてね」
「そうだね」
「待ってるよ」手を解く。
「それじゃあ」手を振る。

「ドーナツ、ごちそうさま。今度はさ、ミスドも食べようよ。トーフドーナツ」




躱す



モブキャラクターとは、漫画、アニメ、映画、コンピュータゲームなどに登場する、個々の名前が明かされない群衆(主要キャラクター以外の“その他大勢”)のこと。(Wikipediaより)


この物語の主人公は皆口翔也である。
ヒロインは廣井桃香で、皆口のライバルとなる人物は門倉武流である。


――十月のある日のホームルーム。二年A組に転校してきた皆口翔也は自己紹介をし、席に着いた。隣の席はなんと登校途中でぶつかってきたあの女だった。

「あっ! お前!」と皆口。
「えっ? あんた!」と廣井。
「えっ? お前ら知り合い?」井口の前の席の門倉が言った。
「「いや、こんなやつ知らないから」」と皆口と廣井の声がハモる。
「おーい、そろそろ授業はじめるぞー」教師がいう。

そうしてそのまま担任の担当する数学の授業となった。あいつの名前はどうやら廣井というらしい。朝のことといい、つくづくむかつく女だな。新たな学校生活、最悪の幕開けだ。と、皆口は思った――


桐山聖一はモブである。
桐山聖一はモブであることを自覚している。
現にいま「転校生が主人公か」と思っている。桐山には、彼らを捉える「カメラ」が見えるのだ。


「クレーンにカメラドリー(注:レールの上を走るカメラ)かぁ。クルーもいっぱいいるな。この規模は久しぶりに見た気がする。皆口翔也は映画の主人公なのかもしれないな。規模感でいえば、久しぶりに主人公らしい主人公だ。まぁ自分にはあまり関係ないけど」


桐山には相手の自意識のようなものが「カメラ」の形として見える。能力が発現してからおよそ三年間のあいだ仮説を立てながら検証してきた分析によると、「カメラ」は相手までの距離がある程度近くであること(おおむね三メートル)、桐山が意識を集中し視線を送れば見えること、そしてそれは知りうる限り桐山だけに発現した特殊能力であることなどがわかった。

ごくたまに「カメラ」を持たない人を見かけることもあるが、このクラスに限って言えばほぼ全員が「カメラ」持ちであった。彼らは自分を自分の物語の主人公だと思っている自称主人公たちだ。8ミリのハンディカム一台の人もいれば、芸能人気取りでスタジオカメラを1カメから3カメまで揃えている人もいる。真正面から撮っている人も、自信たっぷりにやたらアオリの画角で撮っている人もいて撮り方もみなそれぞれだ。ときどき背後で脚立の上から撮っている人もいる。そういう人は自分のことを客観的に見ているのかもしれない。ほとんどの場合、カメラマンの姿は見えなくてカメラだけ浮かんでいるように見える。ときどき皆口翔也のようにクルーまではっきりと従えているような主人公らしい主人公が現れ、きらきらとした青春を謳歌していく。その他大勢の自称主人公も、ときどき主人公っぽくなることはあるし(以前は門倉武流が主人公を務めたことがあった)、そうでなくてもみなそれぞれの物語の主人公として一応それなりの青春を過ごしていく。そしてその輝きは、それぞれ分相応である。


桐山聖一はモブである。
桐山聖一はモブであると自覚している。

それは、桐山自身が「カメラ持ち」でなかったからだ。能力の発露は小学五年生のときであった。ちょうど十一歳の誕生日にあたる日の五時間目、図工の授業中のことだった。「表現しよう」というテーマで各々思い思いの彫刻をつくっていたとき、気が付くと前後左右のクラスメイトの前に「カメラ」が現れていた。みんなカメラを作っているかと驚いたと同時に消えてしまったが、ふたたび図工の課題に意識を集中すると、また見えるようになっていた。能力が発現した瞬間は声を少しだけ漏らしてしまったが、にぎやかな図工の時間に目立たない桐山の声のことなどを気にするものは誰もいなかった。

よくわからないものが見えるようになって以来、仮説と検証を重ね「カメラ」は彼らの自意識が具現化したものであると推察するに至った。どうやら「カメラ」は桐山以外には見えていないようだったし、同じような能力を持っている人もまわりにはいなさそうであった。桐山は目に入る様々な人間の「カメラ」を暴いてみると同時に、自分自身の「カメラ」についても知りたくなった。しかし鏡を見てもどれだけ集中しても、自分の「カメラ」は見えなかった。一年間以上自身の「カメラ」の発現を信じ集中を試みたが、まったく見える気配はなかった。桐山は小学校卒業を機にとうとう自身の「カメラ」の発現をあきらめることとした。「カメラ」を持っている人はみな輝いて見えた。Jリーグ選手を目指してサッカーをやっている友だちやリーボックのバッシュとかセガサターンを持っている友だちみたいに。


「みんなで行った」
「船の科学館」
「雨だったけど」
「楽しかったです」


勝手に楽しかったことになった遠足。勝手に頑張ったことになった運動会。卒業式は思い出が強制的に矯正されるイベントだ。『仰げば尊し』を歌いながら桐山は少し前までやっていた特撮ヒーローのテーマ曲の「誰もが皆ヒーローになれるよ」と力強く鼓舞するフレーズを思い出していた。誰もがヒーローになれるが、そこに自分は入っていない。それはきっと自分以外の誰もが、なんだ。そう思うほかなかったのであった。そのころ桐山は世の中に存在する例外というものをぼんやりと認識しはじめていたが、それが自分であると受け止めるには桐山はまだ幼すぎた。受け止めきれない事実が込み上げ、卒業の寂しさ以上に涙の形となってあふれてしまうのであった。桐山の頬が涙で輝いた。みんなもまた主人公らしくそれぞれの「カメラ」に向かってきらきらと輝いた表情で歌っていた。


「ぼくたち」
「わたしたちは」
「いま、旅立ちます」


中学へ進学したタイミングで桐山は自意識の「カメラ」以外を見ることができるようにもなった。他者へ向けられる視線の「カメラ」である。

それは入学して間もなく、学年主任の教師がオリエンテーションの際に教師自身のほうを向いていない謎のカメラを取り出したことで気が付いた。体育館の四隅に置かれたカメラはテレビカメラのような形をしており生徒のほうに向いていた。その役割が監視カメラであると気付くのにそう時間はかからなかった。イレギュラーを注意、叱責するため、レンズの視線はじっと私たちを撮(に)影(ら)し(み)続けていた。学年主任に限らず問題児の多い南中学校では各教師が至る所で様々なカメラを駆使し監視をしていた。


桐山の通う南中学校にはひと学年約百五十人が通っており、中央小学校卒業生五十人と南小卒業生百人で構成されている。学区の都合上、桐山たちが卒業した中央小学校は南北に分かれて南中と北中の二つの中学に通うこととなっていた。南小学校は全校南中学へ進むため、人数を半分に分かたれた中央小学校出身者はそれだけでマイノリティであった。

加えて南小学校出身のマジョリティたちは何もかも進んでいた。南小の学区は中央に比べて古い団地や集合住宅が多かったせいもあり、世帯の平均年齢が高かった。同級生はみな兄、姉がいる者ばかりで、文化、思考(志向)、恋愛、性、何事においても進んでいた。

新しいマンションが多かった中央小の学区はいわゆる長男長女が多かったこともあり、桐山たち中央小出身者は、入学早々南小カルチャーの洗礼を受けることとなった。

大声で下ネタを連呼(中央小では考えられない)する人が一人や二人でなかったことにも驚いたが、桐山が何より驚いたのが、いつでも誰かの何かを馬鹿にするために目を凝らして他人のアラを探しているやつが幅を利かせていたことだ。少なくない人数が同時多発的に肩から胃カメラのようなくねくね曲がる「カメラ」を触手のように伸ばして周囲の様子を窺っていた。まるで新しいおもちゃを与えられて無邪気に楽しんでいるようでもあったが、行為自体は見るに堪えられないほど醜悪であった。その姿はファイナルファンタジーに出てくる臭い息を吐きパーティを苦しませる厄介なモンスターのようにも見えた。


「オザケンなんか聴いてるのかよ」
「オザケンとtrfとミスチルって、本当のファンなんだったらどれかに絞れよ」
「どれが一番好きなんだよ」

それは入学当時、桐山の自己紹介カードに書いた「好きな音楽」の欄を見たクラスメイトたちの反応だった。隠そうともしない肩から伸びるうねうね「カメラ」からの視線を桐山は不快に思った。

もしも小沢健二がケンカの強そうなビジュアル系だったらこんなことを言われずに済んだのかもしれないな……という考えが一瞬頭によぎったが、マッチョだったりバチバチのメイクをしたりしたオザケンからは「強い気持ち強い愛」は生まれてこなかっただろうとすぐ思いを改めた。「俺」って言ったすぐ後に「僕ら」って言ってしまうの、なんかいいじゃん。お前たちは知らないだろうけど、習い事の遠征で行った沖縄から東京へ帰るときのJALの機内で聴いた「強い気持ち強い愛」は最高に最高だったのに!

「誰」ではなく「どれ」と問われたことにも不快感と違和感を覚えつつも、桐山は反論するほどの材料を持ち合わせていないと判断し「(あえて挙げるとするならば)ミスチルかな……」と答えた。すると彼らはミスチルの名前に満足したようで「それならば文句はない」「この世に新たな純然たる音楽ファンをまた一人増やすことができた」とでも言いたげに顔をにやつかせながら去っていった。

それは桐山が南小出身の彼らの生態についてはじめて体験をもって学んだ出来事であった。

彼らは無邪気に醜態を晒す。残念なことだが、それでもみな自称主人公なのである。この自意識過剰かつ極度の監視環境が桐山を、無難にやり過ごしたいという意識に導き、結果として「自分は主人公でない」という事実も早期に受け入れさせたのであった。

中学へ進学してからおよそ一年の時間をかけて、じっくりと桐山は自身がモブであるという認識を強めていった。そして二年生となり、目立たず一層モブであることを貫く桐山であっても、それなりに触手カメラの視線は向けられ、毎日多少の緊張を余儀なくされていた。



桐山はにわかに学年の注目を浴びることとなった。一時間目の数学のあとの休み時間、桐山の前に一人の自称主人公がやってきた。彼は自信があるのか背が低いことにコンプレックスを抱えているのか、いつもローアングルからアオるような画角で自分を撮影しているやつだった。

「お前、徳島とつきあってるの?」

桐山は他人のカメラの台数やアングルを見ながら、人間観察をすることがあっても、モブであることを自らの行動指針としているため、実際にクラスメイトと言語によるコミュニケーションを持つことには消極的であった。また、自分が主たる話題の中心となることもまずなかった。

それは批判を伴った質問だったが、突然のことで桐山は言葉の裏を読めずに額面通り質問として受け取ってしまっていた。実際、徳島とつきあいはじめたことは事実であるし、嘘をもって否定することに関しては徳島に対しての誠実さに欠けることだとも考え、正直に「そうだけど」と答えた。むしろ正直であることが徳島を大切に思うことの表れであるとも考えたため、その言葉には若干の誇らしさすら込められていた。

立て続けにまた別の自称主人公が問う。生活に余裕を感じさせる、ぱっと見でもよく手入れされたいい機材を使っている。ただ、さっきの自称主人公同様に背が低いからか、やや「カメラ」はローアングルからアオリの画角だ。

「なんで徳島と付き合ってんだよ」

なんで。これは質問の形をとった批判である。当然桐山はこれも額面通り質問と捉えたが、一瞬の逡巡ののち、ようやくそれが祝福ではなく批判であることを理解した。

「うわ、まじか」

日頃、いつでも誰かを馬鹿にするために全力で他人のアラをさがし、無邪気な悪を振りまいている彼らは、例にもれず桐山のことも味がすぐなくなる駄菓子のガムのようにインスタントなネタとして消費しにきたのだ。ろくに味わうこともせずに楽しそうに、憐れむような、見下すような目線を残し去っていった。

「やっぱりあいつら付き合ってるってよー!」

そうして学年中に噂は事実として広まることとなった。不本意にも桐山の発言が彼らにあたらしい駄菓子のガムを提供してしまった。憐みの視線はいつか蔑みの視線にすべてが変わるだろう。味がなくなったガムは吐いて捨てるだけだ。


徳島ひとみは自称主人公である。
徳島は正面に一台、背面に一台のやや珍しい「カメラ」の構成をしている。背面の「カメラ」は豊かで一本一本がしっかりとした背中まで伸びた髪を一つに結った太めのポニーテールを捉えているようにも見える。

徳島ひとみはオタクである。中央小にはいなかったような生粋のオタクであった。母子家庭ながら母はキャリアウーマンらしく、潤沢なお小遣いはほぼすべてアニメや漫画に費やしているようだった。

ただ、当時オタクという言葉は少なくとも南中学校内では蔑称であり、少なくとも自称するようなものではなかった。アニメを好んで見る、アニソンが好き、声優に詳しい、イラストを描く、二次創作をする……いまでは当たり前に市民権を得ているそれらの行為も当時では平たく言ってしまえばいじめの対象になっていた。ただ、それは殴られたりものを壊されたりするようなわかりやすい類のものではなく、明らかに馬鹿にしつつも無視したりいないものとして扱うといったような、いかにもオタク向けといった対応だった。徳島はそれを気にはしつつも、静かに趣味に打ち込むには積極的にいじめられるくらいなら無視されているくらいがちょうどよいとさえ思っているようであった。桐山はそんな徳島に対し、背面カメラの俯瞰視点の影響か、今まで見てきたいわゆるいじめられっ子とは違ったしなやかさのようなものを感じていた。


桐山が徳島からの告白を受けたのはつい三日前だった。

クラスが違ったためそれまで面識はほとんどなかった。きっかけは二週間前の美術の居残り課題で同じテーブルとなり、言葉を交わしたことだった。他愛もないやりとりばかりだったが「エヴァンゲリオンがはじまる六時半までには帰らなきゃ」としきりに言っていたことを桐山は覚えていた。まったく知らないアニメだったが、あまりにも熱を帯びたその物言いが下校後の桐山の行動を少しだけ変えた。教えられた通り六時半にチャンネルをテレ東に合わせ、見知らぬ天井のシーンからはじまったそのアニメを見た。主人公が乗った敵機のような禍々しいロボットが雄叫びをあげ暴走し、敵のようなものを討ち滅ぼしていた。敵のようなものが敵のようなものを滅ぼしているシーンは、なんとなく「風の谷のナウシカ」に出てくる巨神兵が王蟲を焼き払っているシーンのようでもあるなと思った。次の日の居残り課題の際に「倒置法みたいでおもしろかった。あの敵ロボットみたいのが主人公のロボなんだね」と徳島に感想を伝えたところ、徳島はとびきり早口でエヴァンゲリオンの何が素晴らしいかを改めて語った。この日を境に桐山も次第にかなりの熱量でエヴァンゲリオンにめりこむことになっていった。

居残り課題は私が先に完成し、以来美術室で桐山と徳島が合うことはなくなったが、二日前にあたるその日に徳島も完成にこぎつけ、陸上部である桐山の練習上がりのところを徳島が呼び止めた。「昨日のエヴァの話をしたいから裏門で待ってる」とのことだった。帰る方向は異なるが、桐山は徳島の家のほうまで歩いていき、道中、課題完成のお知らせついでにエヴァの考察で盛り上がり、さらにそのついでのような形で徳島は桐山に切り出した。徳島の視線「カメラ」がまっすぐ桐山のほうを捉え「好きです。よかったら……付き合ってください」とたどたどしく告白した。桐山は唐突な告白に驚いたと同時に、まっすぐ向けられた視線は桐山の何もかもを透視しているようだとも感じた。

モブを自認している桐山は、恋愛というものに興味が出始めたとして、誰かと付き合うということはもしかしたら一生かなわないのではないかと思いかけたところであった。そしてこれは願ってもない幸運なことなのかもしれないと感じた。断る理由も特に見当たらなかったため、その場で付き合うことを承諾したのであった。


モブらしく振舞っていた桐山にとっては慣れない注目を浴びることとなり、混乱した。また「カメラ」持ちの自称主人公と付き合ったとしても自分は主人公になれないのかと口惜しく思った。久々に鏡で自分を見つめてみるが、やはり自分の「カメラ」は見えない。注目されるだけ損であると感じた。

また、無視されていることがある意味他人との適度な距離感を保っていた徳島にとって注目は苦痛となった。桐山と徳島が付き合い始めた情報が、誰から漏れたのかはわからない。桐山はもちろん、徳島もネタとして消費されることが明らである噂の渦中に自ら飛び込むようなことはしない。おそらく、二人でいることに必然性が見いだせない桐山と徳島が並んでいるところを誰かが見ていたのだろう。噂の第一報が萌芽することなど、大体そんなところからだろうと桐山は思った。

どこにでも――クラスには七十二、学年には約三百、全校では九百弱の瞳という「カメラ」がある。それがときに隠しカメラや望遠カメラの形をとっていたとしても何ら不思議なことではないのだから。


ほとんどのいじめは自称主人公同士で行われる。いじめられることだってあるし、いじめることだってあるのだ。どんなに隠れて行われていても自分の「カメラ」にはばっちり撮られている。自意識の「カメラ」だし、それだって桐山のほかに見える者はいないのだから結局どうということはないのだけれど、自分の醜態を自分がいちばん捉えているとはなんとも皮肉で滑稽なものだ。絶対に反撃や復讐という手段に及ばない、そういう対象だけを狙って行われる無邪気な狩り。人の世がどんなに発展しても消えることのないそれはもはや人の遺伝子に刻み込まれた本能による祭事か何かなのだろうか。決められた時間に食事を摂る。決められた場所で排泄をする。誰彼構わずレイプしない。そんな、人類が当たり前に制御するに至った本能の中にあっていまだ抑制ができない本能というのはどれほど厄介だろうか。それともそれは人が獲得してきた社会性に必須の生贄なのだろうか。社会性システムの進化にありがちな、必要な犠牲とでもいうのだろうか。生贄を捧げて降臨させる社会システムの安寧など、いっそ壊れてしまえばいいのかもしれない。


殴るでも蹴るでもなく、無視でもない。注目し、晒すという暴力を桐山と徳島は受けていた。

見られることは視線に曝されること。
見られることは記録されること。

被曝線量が一定を越えると人はどうなる? 知らない自分が知らない間に他人の記憶に刻まれるとどうなる? それは恐怖として自分に反射するのではないか。


ある夜、桐山は夢を見た。
桐山聖一はモブである。
目立たず、地味に、気づかれないように、風景に徹する。いきなりカメラを向けられる恐怖。知らない間にカメラを向けられている恐怖。多数のカメラに囲まれる恐怖。

「カメラも」何もかも壊して、静かに過ごしたい。しかしモブである桐山は「カメラ」を見ることはできても破壊はできない。システムへの干渉はできない。システムの安寧を壊すことができない。それならば視線を躱すしかない。視線が集まる。「カメラ」にロックオンされる。視線を振りほどきたくて桐山は走る。野球部もソフト部もサッカー部も、狭い校庭をやりくりしながらつかっている。陸上部がトラックを使うときはほかの部活は休憩時間だ。陸上部に視線が集まる。桐山に視線が集まる。視線視線視線――校庭のトラックには遮るものがない。同じところを回るトラックでは一周、二周、三周……どれだけ走っていても視線は振りほどけない。

目が覚める。目に入ったのは、見知った天井であった。


桐山と徳島に向けられることとなった「カメラ」。彼らの興味が尽きて出涸らしのような蔑みに変わるのも時間の問題なのかもしれない。


通学路を避け人目を避けながら徳島の家の方向に帰っていた途中のこと。

「もしよかったら、今度、どっか行ってください」と徳島が急に申し出た。
「どっか行ってくださいって?」
「あ、一緒にどっか行ってください」
「どこか行きませんかってこと? それは……デ……」
「はい、デ……」
「はい、わかりました」
「ありがとうございます」


こうして桐山と徳島はデ……というものをしてみることになった。お互い誰かと付き合うことははじめてだし、もちろんデ……もはじめてだった。付き合っているなら休日にデ……くらいはしなくてはならない。日ごろ南中学校内のマセた雰囲気に触れていたこともあり、それくらいの意識は双方にあった。

しかしこれまでの経緯や背景を考えれば、地元でデ……など考えられなかった。デ……先は迷わず東京を選んだ。桐山は何度か一人で行ったことのある池袋なら、自分も少しは案内できるかもしれないと思い提案した。そして徳島もそれに同意した。


十一月のある日曜、桐山と徳島は 池袋のサンシャイン水族館へ行き、魚を見学していた。ぎこちなく一定の距離を空けて歩く二人は、まさに見学をしている中学生としか言いようがなかった。

アムラックスで車の展示や、シーンに合わせて香りがするシアターを見学したあとは、東急ハンズの文具フロアを見学した。

ハンズは地元のジャスコやヨーカドーでは見かけないペンやノートがたくさんあった。買い物をするたびにもらえる十円引きのチケットを何枚か持っていたが、結局その日は何も買わなかった。徳島はというと、ほかのペンとは別の場所に売り場が設けられているコピックというペンのコーナーに張り付いていた。どうやら少しずつ集めているらしい。なんでも、イラスト製作には欠かせないものらしい。結局、徳島も何も買わなかった。

ハンズを出たあとは、駅東口のマクドナルドでお互いチーズバーガーのバリューセットを買って食べた。徳島はお母さんからお小遣いをもらってきているからと桐山の分も支払うと申し出たが、桐山も貯めてきたお金を全額持ってきていたので、丁重に断った。幸いマックは安い。桐山は、少し気取ってセットのドリンクにホットティーを選択した。お湯が入ったカップとトレーにティーバッグが載せられているだけだったことにまるでお湯を買ったみたいだと驚いたが、極力それを表情に出さないよう努めた。砂糖も使わなかった。葉っぱから抽出されたエキスの入ったお湯の味がした。

マックではエヴァの考察で盛り上がった。桐山は「すべての使徒を倒した後、冬月が最終的な敵としてシンジたちの前に立ちはだかる」という「そうなったら面白そう」レベルの、たいした根拠もない独自の考察を披露した。

帰りの電車の中、二人は黙って車窓に流れる景色を見学していた。


行きは駅の改札で待ち合わせたため、徳島は自転車、桐山はバスで駅まで来ていた。徳島から「よかったら、もう少し話しませんか」という申し出もあり、歩いて帰ることにした。

「もしよかったらなんですけど、一旦、お付き合い、解消しませんか」と徳島は切り出した。

「私のせいでからかわれたりして……巻き込んでしまってごめんなさい。だから一旦。今日の……デー……が楽しくなかったわけでは全然なくて。いい思い出作りができてよかった。ただ、みんなとの距離感がおかしくなっちゃった気がするし、変に……変って言うのは変っていう意味じゃなくて、でも注目されるのはやっぱり好きじゃない……別れたとしても好きな気持ちはきっと変わらないと思うし、できればこれからも友達として……でもいいですか?」

告白されたときと同じようなたどたどしさで徳島は桐山へ別れの告白をした。

今日のことが過去のこととして早くも思い出になってしまうくらいなら、手くらい、繋いでおけばよかったかもしれないと桐山は思った。付き合い始めてから今日まで、短い間だったけれど後悔がなかったわけではない。しかし、同時にこの申し出を断る理由も見つけられなかった。


「じゃあさ……最後に、握手」と桐山は言った。


――バスケ部の皆口と廣井は北中へ練習試合に来ていた。廣井の所属する女子の試合は54-40で南中の負け。皆口の所属する男子の試合ももう間もなく終了しようとしている。59-57で北中のリードで迎えた試合終了直前、皆口の放ったスリーポイントシュートが入る。ブザービート! 59-60で南中の勝利となった。廣井の瞳は皆口を捉えていた――


「うん。じゃあこれからもよろしくお願いします」

そうして付き合っている間は一度も触れず、別れてからはじめて触れた徳島。白く細い右手は桐山が見て思っていたよりも薄く、骨ばっていた。そして、さらさらしていてつめたかった。



一年生の前期は教師の指名により、桐山は生活委員を務めていた。学校というシステムを運営するモブっぽい仕事であると、それなりに意気込み、やりがいも感じていた。後期はどの委員にもならなかった。素行不良などで入学早々より教師たちに指導されていたやつらが、学内での影響力も持ちたいのか、彼らなりに内申点というものを気にしているのかは不明だったが、後期は彼らが学級委員、生活委員、体育委員、保健委員に多数立候補した。それぞれ多数決で決めることとなる中、モブが立候補したところで結果はわかりきっているため、桐山は後期の委員会活動をあきらめた。その代わり校内美化や掲示物の交換、花の水やりなど、桐山は彼らがやりたがらない無償奉仕活動を教師から引き受け、立派にモブの仕事を全うした。

彼らは文化祭や合唱祭のときも、率先してクラスを引っ張った。日頃醜態を晒して他人を散々馬鹿にしておいて、そんなときだけ団結を煽る彼らに桐山は辟易していた。

二年生となり、桐山は放送委員になった。二年生から放送委員だけは通年となるためか誰も立候補がなく、一年の頃から持ち上がった教師の勧めもあり桐山は放送委員をすることにした。なってみると生活委員以上にシステムを円滑に運営するモブらしい役割だと感じた。行事などで単独行動が多い放送委員は団結から逃れるのにもちょうどよかった。ペアとなる女子の放送委員は同じくモブの青井かえでであった。


青井かえではモブである。
青井かえでに「カメラ」は見当たらない。「カメラ持ち」の自称主人公たちとは異なる、モブのクラスメイトだ。桐山は青井と同じクラスになり、はじめて誰のことも見ない、誰からもほとんど見られないモブを見た。

前髪が長く、眼鏡をかけ、歯は歯列矯正をしていた。徳島ひとみの数少ない(唯一かもしれない)南小時代からの友達だが、口数は少ないタイプで、徳島と付き合っていた桐山であっても数えるほどしか言葉を交わしたことがなかった。「カメラ」のない同類というのは話しかけやすそうでもあったが、うつむきがちで視線が交わらないため、たいてい発言は会話に発展しなかった。桐山よりも目立たない分、ある意味生粋のモブともいえる。


放送委員の二年生は下校放送の担当だった。当番のローテーション決めのとき、青井が目を合わせずに「わたし帰宅部だし、下校放送の当番の週は図書室で時間をつぶして早めに放送室のカギを開けて入っているから、桐山くんはぎりぎりまで部活やってていいよ」と言っていた通り、放送室のカギは毎回青井が開けていた。

この日も桐山は部活を途中で切り上げ、職員室へ寄ることなくまっすぐ放送室へ向かった。


「おそくなった」
「全然遅くないよ。まだ三分前」と青井。目はやはり合わない。
「教頭先生への下校時刻の確認も済ませてくれたんだ。ありがとう」
「どういたしまして」
「そういえばさ、青井もエヴァ、見てるの?」
「もちろん、見てるよ」
「もちろんなんだ」
「どのキャラが好き?」
「そうね、加持さんかな」
「お、大人……自分はそんな加持さんのことが好きなアスカかな。弐号機も好き」
「そうなんだ。あ、放送、そろそろ始めなきゃね」


下校放送のテープにはショートとロングの二本があり、ショートは「ジムノペディ」、ロングは「亡き女王のためのパヴァーヌ」がBGMとして録音されている。この日の放送はロング、「亡き王女のためのパヴァーヌ」だ。時間になり、テープを再生する。十秒ほど流したところで音楽のボリュームを下げ、桐山はアナウンス原稿を読み上げる。「本日の下校時刻は五時三十分です。間もなく下校時刻です。みなさん、すみやかに下校しましょう。本日の下校時刻は――」


――体育館の裏では、廣井は皆口がやってくるのを待っていた。「私から告白するんだ」しかし、そこへやってきたのは門倉だった――


「ねぇ、桐山くん」放送が終わり、機器の電源をオフにしたあと、桐山は青井から声をかけられた。

「ひとみと別れたの?」
徳島から聞いたのだろう。ならばごまかしは無意味だ。
「そうだけど」正直にこたえた。
「そうなんだ。好きじゃなかったの?」
「いや、別れることは徳島のほうから提案されたんだけど。徳島からは聞いてない?」
「うん。そこまでは。それでも、好きだったら付き合い続けたいって思うものなんじゃないの?」
「それは……周りの目とか態度とか、いろいろあったから」
「じゃあ、それがなければ続いていたの?」
「それはわからないけど……どちらにしても注目されるのは嫌だったな、徳島は。まぁ自分もだけど。視線を送られるのは苦手だから」
「私からも?」
「えっ?」
このとき、桐山ははじめて青井と視線が交わった。
「私が見ているのも、苦手?」
「どういうこと?」
「やっぱり。私の視線には気づいていないんだね。意識の範囲外からの視線には案外気づかないものだもんね。私がずっと桐山君のことを見てたの、気づいてなかったでしょ。あんなに視線に敏感になって、あんなに人の心を覗くような視線を向けてるのにね」
「嘘だろ、そんなことまで……信じらんないな」
「誰かを見てるとき、誰かもまたあなたを見てるのよ」
「深淵かよ」


――門倉と入れ替わるように現れた皆口。廣井は皆口に思いを伝える。「皆口君が好きです。わたしとつきあってください」――


「そうね、深淵。どこまでも深い闇。私の瞳にはぴったりかもね。ねぇ、いまこれを読んでる人はどう思う?」
「これ? ……読んでる?」
「そう。これは桐山くんの物語。誰かによってつくられた桐山くんの物語。そしてそれを読んでいる誰か。会話をすることはできなくても、こちらから話しかけることくらいはできるのよ。みなさま、ここまで読んでくださってありがとうございます」
桐山は驚いた。桐山自身の物語だということに対しては訳がわからないままだが、何より青井がこんなに喋っていることに驚いていた。
「いや、自分の物語だなんて……自分は誰かの物語のモブだと思うよ。だって」
「カメラがないから?」
「? どうしてそれを」
「言ったでしょ。これは桐山くんの物語。私はその登場人物の一人。特別なことと言えばこの世界(スタジオ)を捉えているカメラ……そうね、強いえて言えば「望遠カメラ」を与えられていることと、この物語を書いている人の過去を少しだけ教えてもらっていることくらいだけど。この物語がどんな形で展開されているのかまでは知らないけど、紙面や画面が桐山くんの「カメラ」よ。誰より高性能なカメラだし、台数だって無限。誰よりもたくさんのカメラが、これを読んでいる人の視線がいま桐山くんと私という文字を、言葉を捉えているはずだもの。それに、読み手のカメラによっては私たち、実写にもアニメにもなっているのよ。桐山くんが神木隆之介で私が浜辺美波かもしれないし、アニメなら緒方恵美と林原めぐみの声で喋ってるかもしれないわ」

これが誰かが書いている物語ということであれば、桐山自身の自我もつくられたものであるというのだろうか。ありえない、と思いつつも振り返れば「カメラ」が見えるなんてよく考えなくてもおかしいし、いままで暮らして過ごしてきたことすべてが中途半端にリアルなご都合主義でできあがっているような気がしないでもなかった。ただ、自分がつくりものであるということは、やはり信じられない、というか信じたくなかった。

「青井、モブじゃなかったんだな。ちょっと待ってくれ、この世界を捉えているってことは、何もかも見られていたってことか? 徳島とのデー……トとか、風呂とかトイレとか全部覗かれていたってことか?」
「私も桐山くんもこの物語の中では特別な存在よ。大丈夫。物語として描かれていないところは見えていないから。その必然性もないし。立ち入ることのない部屋の向こうがハリボテでないって桐山くん、証明できる? まぁ、ひとみとのデートの場面は一応描かれていたみたいだけど」
一気に恥ずかしさがこみ上げる。桐山が黙っていると青井はこう続けた。
「桐山くん、あのさ、すべて明かしたうえでひとつ聞きたいんだけど、これからも今までみたいに見つめ続けてもいいかな」
「これが誰かにつくられた自分の物語だとしてさ、徳島と付き合って変に注目されて嫌な視線を浴びて、そのうえで青井からこうしてまだ見つめ続けたいって宣言されているってこと? それが物語の必然なの?」
「そこまでは私はわからない。私だって桐山くんに出会う前の記憶や感情だって与えられたものかもしれないけど、いまのは私がそうしたいから聞いてるだけ」


――下校時刻。皆口と廣井が並んで帰る――


桐山聖一は主人公である。
物語は主人公を中心に進んでいく。
物語は主人公の決断によって進んでいく。
桐山は答えた。
「なら、できればそっとしてほしい」



:||

青井は果ての土地に転校していった。
そんなに遠くに行かなくてもいいのに。
いつだったか、青井は自ら命を絶ったと風の噂できいた。
青井に何があったのかはわからない。手の届かないほど遠くに行ってほしかったわけじゃない。

僕は結局中学の三年間を無駄にした。徳島もきっとそうだろう。嘲笑が渦巻く閉鎖的な環境で、やさしい人がやさしいまま生きることは難しかった。結局、徳島とその後もう一度付き合うことはなかった。
青井はどうだった? 聞いてみたくとも、もう聞くことは叶わないのだが。


僕は知らない天井から始まるアニメを見た日から九千二百八十一日後に「シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版:||」を、この物語には登場していない人と観た。

僕のエヴァンゲリオンは終わった。徳島ひとみもきっと終わらせただろう。青井かえでは終わらせることができなかった。新劇場版「序」、「破」、「Q」……すべての冒頭で青井のことを思い出し、僕は泣いた。物事はたくさんのことを置き去りにして勝手にアップデートされて、そして終わっていく。


「カメラ」はいつの間にか見えなくなっていた。あのころとは別の、見慣れた天井を見上げる夜。一人にもかかわらず誰かと視線を交わしたような気がした。



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開拓



ゲームハード、プレイステーション3。通称PS3は急遽生産が再開され、思わぬ形で現役電子機器へと復帰することとなった。もっとも、それはゲーム機としてではない。時間観測および干渉の機器としてだった。これは、PS3を使って過去の時代に干渉できることが発見されてから一世紀近くが経った時代のおはなし。

ひとりの骨董好きなエンジニアによる偶然見つけられた「PS3の中核を担うCPU(中央演算処理装置)のCELL/BE(セルビーイー、セルブロードバンドエンジン。算術、論理、制御回路を含む電子デバイス)が持つ九つのセルが、演算処理とは全く異なるはたらきとして時間の観測と干渉を可能にしている」という大発見も、社会への浸透とともに人々の記憶からうっすらと消えかかっている。

CELL/BE以外のマルチコアタイプのCPUではなぜか再現不可能な現象であるそれは、技術が生んだ魔法としか言いようがないものであった。何周も時代遅れのただのゲーム機が、まさに夢のような力を持っていたのだ。

今日も人々はPS3を起動する。「♩~」オーケストラのチューニング音が流れる。



「こんなふうに、この時代の日本は国民にかなりの負荷をかけたとしてもクーデターは起きないんだよね。税率と物価をめいっぱい上げておくと政府の財政が潤うんだ。うはは」

「あー! 国民が困窮して死んでいく! でも構うものか! さぁ民よ、我がつみれ帝国の礎(いしずえ)となるのだ! ふはは」

大根(おおね)つみれがやっている「つみれの野望チャンネル」。
今日の生配信も盛況である。


ゲーム実況者、大根つみれは時代干渉ソフト「リアルライフ」をハチャメチャにプレイして時代がメチャクチャになる状況を楽しむ、というスタイルで、多くの視聴者を獲得している。先日もうっかり当時としては未知のウイルスを発生させてしまい「パンデミックが防げない! 緊急事態宣言! 緊急事態宣言ー!」と言って視聴者を盛り上げていた。

今日の配信では税率と物価を吊り上げたうえで政治腐敗をとことん突き詰めているらしい。

「政権与党の汚職、裏金、さらには宗教団体との癒着も発動させます!」
近代日本ではありえない設定だって設けることができる。

「あー! 元首長が殺されたー!」
ハチャメチャが祟ってか、近代日本ではありえないような出来事だって起きる。

今日の動画視聴はこれくらいにしておこう。深町新太(あらた)はPCを閉じた。人気急上昇の動画ということでおすすめに上がってきたが、あまりいいものではなかったな、と感じた。


深町新太はやさしい少年だ。

たとえば、人や動物の形をした食べ物を食べることができない。

幼少期、幼稚園へもっていく弁当は、当初母親が張り切って作ったキャラクター弁当だった。時間をかけてつくられたであろうアニメキャラクターを模した弁当は、幼い新太にとってはキャラクターそのものだった。無邪気に楽しそうに遊んでいるキャラクター、笑い声が聞こえてきそうなキャラクター、これから食べられるだなんて全く予想してないキャラクター。無邪気に笑っているキャラクターを食べてしまうことは、自分がまるで悪者の怪獣になったような気持ちにさせた。何度も「ごめんね、ごめんね」と謝り、泣きながら彼らを食べた。

キャラ弁をやめてほしいと言った新太に対して母親は驚き戸惑ったが、シンプルな弁当は時間をかけずに作ることができることもあり、すぐに受け入れられ歓迎された。

以来ずっと、新太は人や動物の形をしたものを食べることができない。人形やぬいぐるみをポイっと投げることも「痛い!」という声が聞こえてきそうでできない。

そんな新太に、人の生活をもてあそぶ大根つみれの動画は、やはり合わなかった。


過去の時代の観測は現代においては比較的自由におこなわれているものの、干渉することに関してはいずれの時代においても厳格に規制されている。

しかしたった一つ、干渉が許可されている時代がある。

干渉が可能なのは奇しくもPS3がうまれた時代でもある。「リアルライフ」のような時間干渉専用ソフトをプレイすれことによって、現実の一九八五年から二〇二五年の四十年間への干渉が可能となっている。

なぜこの四十年間への干渉が許可されているのか。

それはこの四十年間だけは特別だからだ。なぜか必ず二〇二五年の最後には、ひとつの――最悪な――結末へと収束する。世のどんなスーパーAIもそのような結論を導き出している。何があろうとなかろうと、どれだけ人口が爆発しようとも減ろうとも、つまりは誰が生きようが死のうが、必ず最悪な結末を迎える。いわゆる「魔の四十年間」とよばれる時代への干渉ならば、我々の住む時代への影響はないとされている。

PS3を使った時間干渉には厳格な規制がかかっているが、そんな理由からこの「魔の四十年間」へは政治、学術的な実験としての利用以外に、娯楽としての利用も認められ一般人にも解放されている。


「魔の四十年間」干渉ソフト「リアルライフ」はゲームを拡張した。

前時代、つくりものを操ることしかできなかったゲームはどんなに精巧につくられていたとしてもあくまでフィクションであった。「リアルライフ」は文字通り現実だ。

さて、どうしてモニターに映るそれが現実だとわかるのだろうか? 答えは単純だ。現代においても時代の出来事や一人の人間の人生をデータとして一枚ないしは複数のディスクに落とし込むなんてことは不可能だ。ましてや歴史上のすべての出来事、日々の人々の生活の営み、猫のあくび、波が削る岩浜など、リアルのすべてを入力することなど到底できないのである。その、データ化することができないすべてを、PS3と「リアルライフ」を使えば観測することができ、しかも干渉まで可能にしている。その事実がすべてである。このソフトを使えば天地創造以外のどんな干渉でもできるが、よくあるSFと同じくして、干渉によって未来は変わってしまう。一羽の蝶の羽ばたきが嵐を巻き起こすこともあるし、風が吹いて桶屋が儲かることもあるのだ。もちろんハチャメチャな干渉をすれば、当然メチャクチャな未来へと変わってしまう。


スーパーAIによって「魔の四十年間」へ干渉することの安全性は証明されているが、その理由や仕組みについては、なんかすごい力としかいいようがないのは事実だ。

なぜそうなるのか原理はわからないながらも、そうなるのだから利用されているというものは少なくない。麻酔の仕組みはいまだに解明されていないし、ガラスがなぜ分子レベルでは液体の性質を持ち合わせているのかもいまだに解明されていない問題である。人の脳についてもまだまだ未知な部分がある。すべての人の先端に埋め込まれている脳などはその最も身近な例だろう。

原子の力を利用した発電など、たとえそれが危険を伴うもの、将来へ負の財産を残すものであったとしても、人はいまだにそれを止めたりはしていない。利用できるものはなんでも利用するのが人というものだ。


ある者は歴史の転換点を書き換えた。
ある者は未来に起こる出来事を教えて預言者をまつりあげた。
ある者は男女の性欲が入れ替わった世界をつくった。
そのようにしてすべての私たちの、過去への開拓がはじまった。


新太も「リアルライフ」のユーザーだ。ただ、新太はあまり干渉しない主義であった。政府や学者、それに先の大根つみれのように、この四十年間の人々を学びやあそびの道具として扱うことに抵抗があった。二〇二五年、どうやっても最悪な結末に帰結するとしても、人は人だ。それぞれに生きる場所があり、生きる道がある。それを尊重できないのは無邪気に笑うキャラクターを笑顔で食べる行為に等しい。


水族館を泳ぐ魚を見るように、新太は彼らを鑑賞することにプレイ時間の多くを割いていた。

そんなある日、新太は「リアルライフ」をプレイするモニター越しに、明らかにこちらを窺っている視線に気づいた。



「あのカメラ、何だろう?」

青井かえでは下校放送のため、放送室に一人で座っていた。そんなとき現れた、放送室の中を捉える見たことのない形のカメラに興味を示した。

かえでのスマートフォンが音声メッセージを受信する。

「こんにちは。私は……いわゆる未来人です。カメラ越しに視線を送っているあなたに気づきました。ご迷惑でなければ、時間観測であなたたちの暮らしを少し見学させてください。許可をいただければ幸いです」

 かえでは少しの動揺もなく言葉を返す。

「こんにちは。未来人さん。未来人といえども未来から現れることはできないのですね。観測がせいぜいってことなのかしら」観測しているということであれば、こんな独り言であっても、きっと聞こえているだろう。

ふたたび音声メッセージを受信する。

「そうですね。少なくとも僕の生きる時代では観測と干渉が関の山です」

どれだけ未来か知らないけど、「関の山」なんて言葉がまだあることにかえでは驚いたが、ややこしくなりそうなのでそれについては何も言わなかった。

「申し遅れました。僕は深町新太と申します。よろしくお願いします」

「意外と古風な名前なのですね。今風といえば今風だけど」

「ときどき言われます。僕の親が二〇年代のファンでして」

「未来人さん……深町さんからすれば、私たちって戦国時代人みたいなものなのかしら」

「新太でいいですよ。まぁ、具体的にはお伝えしないつもりですが、そんなに離れてはいないですよ」

「意外ね。時間観測なんて遠い未来の話だとばかり思っていたから」


未来のことは伝えないつもりだ。少なくとも四十年間の間であれば、常に干渉し続けなければ他人に書き換えられてしまう可能性だってあるから、伝えたところで無意味なことだ。

「新太さん」
「なんでしょう?」
「プライバシーだけは守ってよね」
「大丈夫、ソフト上でガードがかかっているから」
「それ、信頼していいのかしら」
「ガードを破っての観測は、未来では処罰の対象です」
「だからといって――という感じだけれど、まぁいいでしょう。その代わり、条件があります」
「なんでしょう?」
「先ほど、観測と干渉と仰いましたよね? ということは何かを出したり消したり変えたりする力もお持ちなのかしら」
「はい、さすがに天候を変えたり地形を変えたりするように自然を操ることはできませんが、地形の上の地図を書き換えたり社会を変えたりすることは可能です。何かやってほしいことでもあるのでしょうか?」

「それなら……」と、かえでは切り出した。

「クラスに、おうちが自営業――豆腐屋や自転車屋だからというだけでからかわれている同級生がいるの。おうちの方はきっと誇りをもって働いていらっしゃるはずだし、子どもは親の職業なんて選べないのに。だから……少しの間だけでいいから、自営業の方たちがもっと認められるような世界にできないかしら」

「自営業の方たちが、か……」
「難しければお品物だけでも、よい待遇にできないかしら」
「きっとそれなら簡単にできると思います」


そうして、新太は短い間だが豆腐や自転車が尊ばれる世界を順番につくった。世界のルールを書き換える度、それぞれの品物の地位は元通りになってしまう。ただそれでも、かえでは十分満足したようだった。かえでが望むのはくだらなくも平和な世界だった。新太はそんなくだらなくも平和な世界の刹那に魅了されていった。かえでのやさしさは、新太のそれとも少し異なる、愛に満ちたものであったような気がした。


「ありがとう。こんなこと頼んで本当は嫌じゃなかったかしら」

「僕はあなたたちの営みを見させていただくことに重きを置いているから、あんまり社会を変えたりするのっていうのは好きじゃなかったんだけど、これくらいなら平和だと思うし、ちょっとおもしろかったし、いいですよ。前もきいたけど、本当にかえでさん自身にかかわることじゃなくてよかったんですか?」

「うん、トーフドーナツはおいしかったし、近年まれにみる自転車ブームも見られたからね。私もクロスバイクほしくなっちゃったもの」
「トーフドーナツ、僕も食べてみたいな。あ、自転車は僕の時代でもまだあるよ。もっとも、もっとリサイクルしやすい素材になってるけどね」
「いいなぁ。駅前の放置自転車を回収しているトラックの山を見るたびに、これってこのあとどうなっちゃうのかしらって思ってるから」
「そのうちなんとかなるよ」
「なんとかなるなんて、そこだけ聞くと無責任だけど、未来人が言うのだから安心かしら?」
「どうだろうね」新太は思わせぶりに言葉を濁した。



【緊急生配信】と銘打って配信される生放送がおすすめ欄に出る。広告が主な収入源になっている動画配信サイトの、一度視聴したら好みでなくともおすすめされてしまうアルゴリズムは二〇年代からあえてまったく進化させていないらしい。普段なら「興味がない」と消去してしまうはずのそれを、新太はなぜか視聴せずにはいられなかった。


「【緊急生配信】整地します! 【つみれの野望チャンネル】」

歴史にとってイレギュラーな存在である、未来人の存在を知ってしまった人を一か所に集めることを通称で「整地」とよんでいる。当時人の純粋な反応を見るため、プレイの邪魔になるのだ。しかしそれは準備段階での作業で、まったく緊急ではないはずだ。大根つみれの本日の配信ではなぜかそれを緊急でおこなうらしい。

未来人の存在を知っている人たちは、各年代から数百人規模で観測ができた。

「今日は二〇年代をプレイするので、この座標とバージョンにいる彼らには一旦北の大地に集まってもらいます」

「リアルライフ」は常に誰かからの干渉を受けバージョンアップしている。その座標とバージョンの中には新太が接触した当時人、かえでもいるはずだった。整地の対象になってしまうなんて、偶然とはいえ申し訳ないことをしたなと新太は思った。


突然「あ! まてまてまて!」という大根の声がひびく。

未来人の存在を知っている人たちを一時的に収容していた仮施設を、あろうことか大根つみれは施設ごと消去した。「あー!」大根の声がマイクを割る。

『つみれ乙www』
『つみれ、わざと?』
『なにぃ? やっちまったなぁ』
様々なコメントがモニター上で踊っている。

「いやいやいや、わざとじゃないです! 事故です! 事故!」
大根つみれの声がこだまする。わざとかどうかなんてわからない。ただ、一瞬で未来人の存在を知っている何人かの人々が、かえでが死んでしまった。大根つみれの手によって、一瞬で。

「でも、せっかくなのでこのままいきます」
大根つみれの声が耳の中にこびりつく。
「せっかくなので」
わざとかどうなんてわからない。わざとかどうかなんて。

「リアルライフ」を使ってバージョンを遡れば、またまったく同じかえでを生まれさせることは可能だ。でもそれは、豆腐屋や自転車屋の同級生のことを思い、トーフドーナツにハマりクロスバイクに興味を持ったあのかえでじゃない気がする。きっとまったく同じだけど全然同じじゃない。


深町新太はやさしい少年だ。けれどそれが新太のすべてではない。

人並みに動画の合間にはさまる広告にいらつくこともあるし、障害をもつ家族をクラスメイトに馬鹿にされて声を震わせ相手と取っ組み合いの喧嘩になったこともある。やさしいといっても新太に怒りの感情がないわけではない。もっとも、いま感じているこれが怒りの感情なのかどうかは、新太自身もよくわかっていない。出会ったばかりのただの当時人。新太にとってかえでがどれほどの存在なのかもよくわからない。しかし――

日頃やさしさを自覚している人間は、やさしさゆえに自身を律している部分があるものだ。しかし「この相手に対しては、やさしくある必要はない」という免罪符を手に入れたとき、反動のように残忍で攻撃的な感情が生まれる場合がある。それを実行に移すかどうかは別として。

それを実行に移すかどうかは別として。


大根つみれ、古くから存在する料理、おでんの具からとったであろう名前。もちろんこんなふざけた名前は本名じゃないだろう。時間干渉を使えば大根つみれの頭の上に水をかけることだって直接手を下すことだって可能だ。しかしそれは現代のルールで厳格に禁止されている行為だ。罰を受ける可能性を得てまでそんなことをやろうとは思わない。大根つみれのルーツをたどり「魔の四十年間」に存在する彼の祖先を殺してしまうことも可能だろう。それこそかえでのように一瞬で。ただ、どんな過程を踏んだとしても大根が生まれる事実は揺るがない。それはスーパーAIが散々証明していることでもある。

それならせめて――こんなことをやっても何にもならないのはわかっているけど――



未来よりももう少し遠い未来。娯楽としての時間干渉はとっくに禁止されおり、度重なる四十年間への干渉すべてを――当時の人類からすれば最悪ながらも――この時代をつくる礎となった出来事へ導いている仕事がある。

一羽の蝶の羽ばたきが嵐を巻き起こすこともあるし、風が吹いて桶屋が儲かることもある。果たしてそれは偶然の連続なのだろうか。もしそれが人為的に起こされていたとしたら? どんな干渉があったとしても、それを一つの結果に導くために修正干渉をしている人たちがいるとしたら? 当時人が残したツケを払っている人たちがいる。我々だ。


いまは消えたおでんの修正干渉の作業中だ。

「ったく、なんだっておでんなんか消したのか。まったくもってわからん」
私がぼやく。


「案外当時人からしたら大事なことだったのかもしれないよ。でも、開拓するならやっぱり過去じゃない。未来だよ」
と、あすか先輩はつぶやいた。

いつかの時代に鉱山が閉鎖されたように、いつか「魔の四十年間」への干渉もすべて修正がされ完全に閉鎖されるだろう。

すべての私たちの開拓は終わらない。

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