対話の効用

対話とはそもそも何か?

対話とはそもそも何かということについて少し調べた。「意味の共有」らしい。
個々の価値観の上でつくられた物事に対する意味は十人十色。そこを知り合っていくのが対話だと。
価値観だって背景があってつくられる。背景を知ることで、少しその人が理解できる。時間をかけていく必要があるのだと思う。

ツイッターで上記のようにつぶやいた。
昨今、コロナの影響で、人と人とが交流するイベントが減っている。ツイッターのタイムラインでは、それを残念に思ってらっしゃる方も多く見受けられる。

対話までいかなくとも、人と人とが会話することで得られる刺激や、仲間との安心感は、生活する上で重要なエネルギーとなる。それらが得られないことによるストレスは、人とのつながりを重視している人ほど大きいのではないかと推察される。

つぶやいたのは、「対話」についてである。会話と違い、意味の共有を目的とするプロセスが、対話であるようだ。これは、人と人とがわかり合っていく大切な営みであるが、その効用について考えていきたい。

場があることへの安心感

一番最初に浮かぶ効用は、対話の「場」があることそのものの安心感はないかと思う。そもそも、日常において、お互いの意味の共有のような話し合いというのは圧倒的に少ないのではないかと感じる。

仕事においても家庭においても、会話は多くとも、対話の時間というのはかなり限られているのでないかと自分は感じる。もちろん、そういう時間を意識的に設けて取り組んでいる方もいらっしゃるだろうが、少数派ではないだろうか。

最近では、サードプレイスを持つことの重要性が説かれているが、対話を深めたい人や、職場や家庭でも話せないことを話せる環境を求めている人の多さを感じている。

しかしながら、そういった場の数は限られており、誰にも話せず抱え込んでいる人は、孤立感を感じているのではないだろうか。かくいう自分もその一人だった。

対話の場があるというだけで、安心感を得られる。これは大切なことだと思う。

受け入れてもらえる経験

二つ目は、対話ならではの受け入れようとする姿勢から来るものなのではないかと思う。対話のプロセスにおける、人を理解しようとする姿勢は、話す人に安心感を与える。 

前提として、理解をし合うことを置いているから、頭ごなしに否定をしたり、まったく話を聞こうとしないということはまず起こらない。そういった安全な環境で、自分が考えていること、感じていることを素直に話す。そして、意味の共有を目指していく。

そういった経験は、家庭などで多く経験してきた人にとっては自然なことかもしれないが、そうでない人にとっては新鮮だ。そして、生き苦しさを抱えている人や、世間の荒波に揉まれている人にとっては、息継ぎ以上の経験になるのではないかと思う。

視野が広がる経験

自分は絶対にこう思う、ということがあったとき、それが偏っている考えだとしても、一人ではなかなか気づきづらい。本や映画からも気づきが得られることはたくさんあるが、それとはまた違った視野の広がり方があると思う。

対話は、その場においての人と人において行われる。つまり、自分だけに向けられた言葉であり、場合によっては、自分の背景を知った上で向けられる言葉でもある。そういった言葉は、その分自分に染み渡りやすやく、残りやすい。

他者の言葉を聞くことで、自身の考えに影響が加えられることも多々ある。視野の狭さを認識したり、視野が広くなったり、信念がより確かなものになったりすることもあるだろう。

自分だけに向けられた言葉、思いもよらない言葉、そういった数々のものが経験できるのも、対話の場ではないかと思う。

聖域をつくる

聖域なんていうとおおげさと思われるかもしれないが、世の中を窮屈に感じる人ほど、自分が安らげる場所はあったほうがいいのではないかと思う。

それも、たった一つではなく、あればあるだけ安心して回復できる場所が増える。それは、対話をメインとした交流会のような場所だけでなく、お気に入りのカフェだっていいし、本屋だっていい。家庭以外に考えられないという人がいたってもちろんいい。

対話のできる場所は、増えつつあると思うけれど、まだまだ足りていないと感じる。一人一人が個性を出して、伸び伸びできる場所が身近にあることが、この世界にとってとても大事なことであると自分は考えている。

そして、よく聞く理想の形だけれども、対話の姿勢によって、世界は平和になっていくのだと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?