わらうんだ

陽も落ちそうな夕暮れにざあざあと雨がふった。朝からずっと重たい雲を浮かばせていた空はようやくと言わんばかりに庭の隅に生えたフキの葉を激しく打つ。連絡はない。わたしはなんで、どうして待っていたんだ。2缶目のビールを開けた。つい最近まで呑めなかったアルコールをごきゅごきゅと喉を鳴らして流し込む。身体の奥から熱を持ってなにかを追いやる。六個も歳が下の彼のなまえを呼んだ。抱きしめてほしいときは両手ひろげるんだよ、ってわたしに教えた笑顔を思い出した。困ったようににがく笑うんだ。面倒なことばかりだった。ひとはいつも誰かの特別でいたがる。特別なんだと思われたがる。本当は特別不仕合わせでもなく仕合わせでもない。悲しいふりをしたのはそのせいだ。流し込んだビールはひたすらにがくて美味しくない。72歳も78歳も大した変わらないじゃないって笑えればよかった。こわくて仕方がないなんて。このまま雨が止まなければいいよ。会いたいのに会いたくない。会えない。雨がふっていることは免罪符にはならないのに。たまたまおなじ帰りのバス、四条二丁目のバス停から乗り込んだでしょう、あたしはあのとき真ん中よりすこし前の席に座っていたこと、気づかなかったでしょう。一緒に乗ってきたあの子は誰なのって訊けないよ。一瞬息がつまって思わず顔を背けた。六年の、年の差ばかり気にしてた。隠れたまんま、隠したまんま、あたしはバスを降りたんだ。会えばいつもまた会える?って訊いたのは、毎回これが最後だと思ってた。連絡はない。待ったって、仕方がない。明日の朝も雨だって、あたしは仕事へ向かうんだ。あの子は誰なのって3缶目のビールに手を伸ばす。笑ってた、困ったようなにがい笑顔なんかじゃなく。面倒なことばかり。恋愛だとかあたし自身も。捨ててしまいたい。会いたい。屋根に当たる雨音は激しさを増す。あたしのなまえを呼ぶひとはいない。浮き彫りにされた輪郭がすこしずつ冷えてって、こころは静けさを取り戻す。明日も仕事だ。



泥まみれでぐっちゃぐちゃの仕合わせを抱えて

明日の朝は傘を差すよ。



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