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U2の歴史③


U2の歴史②

そして世界一のバンドへ

ということで今度こそバンドは新たなプロデューサー探しに奔走。ジミー・アイヴォン、Kraftwerk、Echo & the Bunnymenを手がけたコニー・プランク、Roxy Musicを手がけたレット・デーヴィスと様々な人物が候補に上がったが、最終的にアンビエント・ミュージックのパイオニアとして名を馳せていたブライアン・イーノに的を絞った。

U2に興味がなかったイーノ(右)は、最初、この申し出を断ったのだが、ボノの熱意に絆され、とりあえずダブリンに赴くことにした。そのとき、イーノは一人のカナダ人を連れていった――ダニエル・ラノワである。イーノは、この仕事を当時無名だったラノワに引き継がせる魂胆だった。が、メンバーはそのイーノにライブ盤『Under A Blood Red Sky』を聴かせて翻意させようとした。さらに「僕がバンドの性格を変えてしまうかもしれない」と渋る彼に「僕たちは変わりたいんだ」と言って説得。結局、イーノは「君たちがリスクを理解しているのなら」ということで、プロデュースを引き受けた。

U2がイーノをプロデューサーに迎えたというニュースは、周囲を驚かせた。評判の前衛音楽家がブレイク目前のU2を滅茶苦茶にしてしまうのではないかと恐れたのである。アルバムのレコーディングは、これまでのウインドミル・レーン・スタジオではなく、ダブリン郊外にあるスレーン城の図書室を改造して作られたスタジオで行われた。その様子は『U2 Go Home: Live From Slane Castle』のDVDに特典映像として収録されている。

彼らは、いっしょに仕事をした中ではいちばん素敵な連中だね……U2はとても大きな組織なんだ。1OO人以上の人がほとんどフル・タイムで関わっているんじゃないかな。正確な数はわからないが、ほとんどすべてアイルランド人で、多くは同じ学校にいっていたみたい……彼らといっしょに仕事をするのが楽しいのは仕事が99%でかけひきは1%しかないからだね……「彼がソロをとったから君も」みたいな。これは悲惨だよ。ボクはそんなやり方には興味はない。メンバー間に尊重の精榊があれば「うん、そっちの方がいいアイディアだ」とすぐに言える……ボクが知る限り.グループとして仕事をしている唯一のグループだね。優秀なひとりの人間が他のメンバーをひっぱっているようなのとは違う。
(ブライアン・イーノ)

レコーディングの最中、ボノはホット・プレスの企画でスレーン城でライブを開いたボブ・ディラン、そしてヴァン・モリソンと対談をした。そこで音楽知識のなさを曝け出したボノは、ディランから「もっと過去の音楽を聴かなければ駄目だ」と叱咤され、後にU2が『Rattle and Hum』で自らのルーツを探るきっかけとなった。またこの際、ボノはライヴでディランと共演したが、「Blowin' In The Wind」の歌詞を知らなかったボノは適当に歌詞をでっち上げて歌う羽目になった。

ボノと一緒に時間を過ごすのは、列車に乗ってディナーを取るようなものだ――動いている、どこかへ向かっているという感覚がある。ボノは古代の詩人の魂を持ち、彼の近くにいるときは気をつけなければいけない。彼は大地が揺れるまで吼えることができる。彼は哲学者だ……ボノは人を動揺させることを言う。古い映画に出てくるならず者を素手で殴る男に似ている。もしも彼が20世紀初めにアメリカに渡ってきていたなら、恐らく警察官になっていただろう。
(ボブ・ディラン)

後にディランはボノから紹介されたラノワのプロデュースで、1989年『Oh Mercy』を制作して長い低迷期から脱し、さらに1997年、再びラノワの組んで『Time Out of Mind』を制作して3部門でグラミー賞を受賞し、完全復活を遂げた。ディランはU2の恩人だが、U2もその恩に十分報いたといえよう。

またこの頃、U2はアイルランドの若手ミュージシャンを世界の音楽市場に売り出すことを目的としたインディーズ・レーベル、マザーレコードを設立している。恐らくアメリカ、イギリスの独占市場であるポップ界にアイルランドの一大勢力を築こうと目論んだのだろうが、結局、ビョーク(といってもアイスランド)とHothouse Flowersくらいしか成功しなかった。

またアルバムのジャケットは当時新進気鋭のロック写真家として名を馳せていたアントン・コービンが担当することになった。U2はコービンの手腕を非常に高く買っていたのだが、コービンの方は、実はU2の音楽にはさほど興味がなかったのだという。

The Unforgettable Fire

1984年10月1日発売。IRE53位 UK1位 US12位
U2が大きくその姿を変えた(同時に初期ファンの何割かをふるい落とした)記念碑的作品。地味な印象だが、初期風の「Pride」、イーノ色が強い「4th Of July」「Elvis」、ポストパンクへのU2からの回答ともいえる「Wire」、アメリカへの情景を綴った「Promenade」など意外にもバラエティに富んでいて、ファンの間でも人気が高い。個人的にはU2史上最もアイリッシュ色の強いアルバムだと思う。

今となってはいいアルバムだと思うね。Miles Davisが1番好きなU2のアルバムで、彼のトップ10の1枚でもある。重要な実験的要素が非常に含まれているということは知っていた。ブライアン・イーノとダニエル・ラノワによってね。歌詞に力がない曲でさえもなかみがあった。今では音楽も中身に追いついてきて、美しい響きのランドスケープだと思う。ギターなんてまるで別世界のものみたいだ。

"Pride"は恍惚とした物言いとして始めたんだ。このレベルの感情を引き出すのに充分に大きい事柄を探していた。マーチン・ルーサー・キングは彼の聖書の使い方や背景にある教会に関してだけではなくて、アイルランドが抱えていた問題への解答でもあったんだ。そこには大きなエモーションがあったし、でも正直に言うと歌詞はばかげているね。いや、そうじゃないか。ばかげてるってだけじゃない。適切ですらないんだ。今でもまだDr.Kingの暗殺の時間を間違ってるんだ。ぼくは「4月4日、朝早く」って言ってるけど、あれは午後早くのことだった。
(ボノ)

BONO on the RECORDS #2

『The Unforgettable Fire』を引っさげたツアーは、最初、新曲の演奏や曲順の選択に手間取ったものの、徐々に評価を上げていき、USツアーでは由緒あるマディソン・スクエア・ガーデンでのライヴも実現した。

また1985年3月には、ローリング・ストーン誌の表紙を飾り「80年代を代表するロックバンド」と紹介された――が、「U2 By U2」の中でメンバーは「とにかくひどい格好をしている」と写真の中の自分たちの姿を散々にこき下ろしている。

このアルバムとツアーの成功を受けて、実は首寸前だったU2はIsland と再契約を交わし、若干低く設定された印税率と引き換えに原盤と著作権をバンドの手に取り戻した。これによってU2は「音楽業界に所有されていない」こととなったのである……が、この段階ではU2はまだ地味な存在だった。

チャリティブーム

そんな状況を変えたのが、80年代後半に降って湧いたチャリティライブ・ブームである。1984年、ボノはボブ・ゲルドフから、飢饉に苦しむエチオピアを救済するためのチャリティソングのレコーディングに参加してくれないか? と頼まれた。当時、ボノは、ゲルドフを少し怖い感じの人だと思っており、また「ロックはセックスのことを歌っていればいいんだ」と公言して憚らない人物だったので、この要請には大変驚いたという。ボノはこれを快諾した。

Do They Know it's Christmas? - Band Aid (1984)
当時のUK圏の人気ミュージシャンが参加したこの曲は、世界各国のチャートでNo.1に輝き、当時UK音楽史上最大の売上となる500万枚を記録。収益金の800万ポンド(約27億円)はすべてエチオピアの飢餓救済のために寄付された。ボノが歌ったのは「Well tonight thank God it's them instead of you」(今夜は神に感謝しよう。自分がそこにいないことを)という歌詞の中で最も辛辣な部分で、当初、ボノは拒否したのだが、ゲルドフに説得されて渋々歌ったのである。

さらにバンドエイドははライヴエイドに発展、1985年7月13日、多数の人気ミュージシャンがロンドンのウェンブリー・スタジアムとフィラデルフィアのJFKスタジアムに集結した。演奏時間は12時間超、VTRを含めれば140ヵ国に中継されたこのライヴは、前年行われたロス五輪を凌ぐ、当時、世界最大規模のチャリティライヴとなり、1億4000万ドル(約350億円)もの収益を上げた。

U2はライブの中盤に登場。ボノは1983年来日時に伊勢丹で購入した学生服を着、「Sunday Bloody Sunday」「Bad」「Pride」の3曲を演奏する予定だった。

「Sunday Bloody Sunday」をつつがなく終え、ルー・リードの「Satellite Of Love」から「Bad」が始まった。

が、その歌の途中、ボノはステージを下りて観客の女の子とダンスをするという行為に出る(ちなみにこの女の子はカル・カリクという名前で、2005年10月14日、ニューヨークのマディソン・スクエアでライヴをしたU2の楽屋を訪ねてきて、20年ぶりにボノと再会を果たした)。

おかげで時間が足りなくなったバンドは「Pride」を演奏できず、10億人の視聴者の前で新曲を披露する機会を逸した。エッジ、アダム、ラリーの3人は激怒し、落ち込んだボノはバンドを辞めようと考えるまでに追い詰められ、アリの実家に引きこもる。が、そこで出会ったとシェイマス・ファーロングという彫刻家が、ボノのダンスシーンに触発されて「飛躍」(The Leap)という作品を作ったことを知ってなんとか立ち直った。さらに後日、ライヴ・エイドではU2の演奏が一番印象に残ったという評判が立ち、世界中でU2のアルバムの売り上げが激増するという珍現象が起きた。

このハプニングで皮肉にもU2の知名度は飛躍的にアップしたのだった。

ライヴエイドの後、ボノはアリを伴ってエチオピアを旅し(後でニカラグアにも)た。これは同行した人物が、Youtubeにアップしたその時の模様。

1988年にそこで撮った写真をまとめた『A string of pearls』という写真集を限定2500部で出版し、ギャヴィンやグッギが描いた絵と一緒に「Four Artists, Many Wednesdays」という名の個展をダブリンで開いた。
この写真のネガは破棄されたと言われていたが、2006年、Oneキャンペーンの一環で『On The Move』というタイトルで出版された。

1985年10月、アパルトヘイトに反対するチャリティソング「Sun City」にボノが参加。

1986年5月には、ライヴエイドに刺激されて開かれたアイルランドの失業者の救済を目的としたセルフエイドというチャリティライヴにヴァン・モリソン、ロリー・ギャラガー、ブームタウンラッツ、シン・リジィ、チーフタンズ、ドーナル・ラニーなどと一緒に出演。「政府が取り組むべき失業問題を民間が肩代わりしているだけ」というライブに向けられた批判に対して、ボノは「Bad」の歌詞を「奴らはどこからともなく這い出す/ダブリンの低級雑誌のページに」と変えて対抗した。

さらに同月、U2は、11日間6公演にも及ぶアムネスティ主催のConspiracy Of Hope(希望の戦略)ツアーに出演。このツアーは大成功のうちに終わり、U2のパフォーマンスも好評で、ライヴエイドと並びU2の知名度上昇に一役買い、レコーディング中とアナウンスされていたニューアルバムに対する期待も否応なしに高まった。この時期、一度は無益と考えたロックが、世の中の役に立つことを実感したたことだろう。が、この頃のボノは直接政治行動に出る気はなかったようである。

俺が立ち上がって正しい方向を指し示すことを期待している人たちがいるけれど、そんなこと決してやらないよ。俺はロックバンドのシンガーだ。それ以外のことを期待するのは可笑しい。それなのに政治家や宗教家のせいでできてしまった真空地帯があって、ボブ・ゲルドフみたいな人たちに地上の飢餓を解決させようと望んでいるんだ。莫迦げていないか?
(ボノ)

そしてこの頃、「過去の音楽を学べ」というボブ・ディランの言葉に刺激されて、ボノ心はロックンロールのルーツに向かっていた。

「Sun City」のレコーディングをする際、訪れたニューヨークで、ボノは、ストーンズの『Dirty Work』をレコーディング中だったキース・リチャーズと邂逅し、ロバート・ジョンソンやジョン・リー・フッカーなどのブルーズを教えてもらった。そしてそのその興奮で「Silver And Gold」を一晩で書き上げ、キースとロニーを伴ってレコーディングし、「Sun City」のアルバムに収録された。ボノが初めて作ったブルーズソングである。

またこの曲でクラナドとデュエットし、ロックンロールのもう一つのルーツ、ケルトミュージックの一端にも触れた。さらにこの頃「伝統的なアイリッシュ・ミュージックとアメリカン・フォーク・ミュージックを融合させた」(ボノ談)The WaterboysやHothouse Flowersズとも交流があったのだという。

一方、エッジは、ホルガー・チューカイ、ジャー・ウォーブルとSnake Charmer」というインストアルバムを作った後、後に映画『イン・トゥ・ザ・ワイルド』のサントラで有名になるマイケル・ブルックと『Captive』という映画のサントラを制作していた。実験的精神に富んだミュージシャンとのコラボは「U2の頭脳」エッジに様々な示唆を与えたようである。

アルバムの制作は、イーノとラノワをプロデューサーに迎え、途中、何度かの中断を挟みながら、1986年1月から断続的に進められたいた。今回はピーター・ゲイブリエルの『So』をヒットさせたラノワが主、イーノが従という関係で、他に後にDepeche Mode、The Smashing Pumpkins、Nine Inch Nailsのプロデューサーとして名を上げるフラッド、R.E.M.のプロデュースを手がけるパット・マッカーシーなどが参加していた。

テーマはアメリカ。そしてより「歌」を重視した方向性が取られていた。この様子は『クラシック・アルバムズ:ヨシュア・ツリー』というDVDで見ることができる。結果な上々でアルバム2枚分の曲ができた。

The Joshua Tree

1987年3月9日発売。
UK1位 US1位
もはやIREチャートを気にする必要はない。UKチャートで9週間連続1位、セールスは累計2500万枚以上。今なお愛され、賞賛され、聴かれてやまないロック史上に残る大傑作。遂にU2は天下を取ったのだ。
アルバムから漏れた曲も非常に出来がよく、今思えば、2枚組で出してもよかったかもしれない。デラックス・エディションに未収録曲がほぼ網羅されていて、ヨシュアの全貌が分かる体裁になっているので超オヌヌメ。

やっと歌詞がよくなってきた。いまや音楽と、アイデアと、中身があって、歌詞も手に入れようとしている。ぼくらは歌詞にもう1時間かけるようにした。"Where The Streets Have No Name"についてはそんなにかけなかったな。そのことは後悔してる。でも"I Still Haven't Found What I'm Looking For"は素晴らしい歌、素晴らしい歌詞だ。これは完璧なアルバムで、B面にも2、3曲いいのがある。"Red Hill Mining Town"はミックスが悪くて、気をつけて聴いたらJoe Cockerが歌っていると思うに違いないよ。ぼくはいつだって彼が歌っていると想像するんだ。ブラス・セクションを入れるべきだったな。入ってないけど。
(ボノ)

BONO on the RECORDS #2

アルバムは大絶賛、ライヴは大盛況。一躍時の人になったU2は「今、1番ホットな奴ら」という見出しでタイム誌の表紙を飾った。ロックバンドとしてはビートルズ、ザ・フーに続いて3番目の栄誉。また以前より親交のあったディラン、The Rolling Stones、ブルース・スプリングスティーン以外にも、フランク・シナトラ、ジョニー・キャッシュ、ロイ・オービソンたちとも知り合った。急に有名人になったことに辟易したメンバーだったが、その彼らに向かってディランは「君たちは4人いるだろ? 俺はこれを1人でくぐり抜けてきたんだぜ」と言ったのだという。

ボノが舞台の一番手前まで出てきていて、私の目をのぞきこみ、舞台の端に膝をついている。黒いジーンズ(たぶんジターノ)とサンダルをはき、革のヴェストの下にシャツは着ていない。白い身体が汗びっしょりだ……頭にはカウボーイハットを被り、髪を後ろへ引いてポニーテールにまとめ、呻き声で葬式の歌めいたものを発して――歌詞を聞き取ったかぎりでは「ヒーローはこの世の虫……

B・E・エリス著『アメリカン・サイコ』

ツアーの最中、アメリカのアリゾナ州知事、エヴァン・メカムがキング牧師の記念日を廃止しようという動きがあり、U2がこれに反対声明を出すと、ボノが「『Pride』を歌ったら殺す」という殺害予告を受けるという事件が起きた。そのアリゾナでのライヴ、ボノが脅迫に屈せず、目を瞑って「4月4日早朝、銃声がメンフィスの空に鳴り響く」とくだりを歌い、目を開けると、アダムが傍に立ってもしも銃撃からボノを守っていた、ということがあった。リンク先でU2ファンの陣内大蔵さんがそのことを綴っている。

そしてU2は、グラミー賞の最優秀アルバム賞と最優秀ロック・グループ賞の2部門を授賞し、名実ともにロックスターの地位に上り詰めたのだった。

ツアーが好評を得て進むうちに、ライブアルバムと映画の制作の話が持ち上がつた。当時、アルバムがビッグセールスを記録すると、ライヴアルバムを発表して2度儲けるのがロックビジネスの常套手段だったのだ。が、U2はそんな姑息な真似はせず、ツアー中にレコーディングした新曲を9曲入れた映画のサントラを制作した。

Rattle and Hum

1988年10月10日発売
UK1位 US1位
プロデューサーはジミー・アイオヴォン。鼻を膨らませて思いきり歌っていたボノのヴォーカルが最後に聴けるアルバム。U2のディスコグラフィでは軽視されがちなアルバムだが、非直線的なメロディ、皮肉の効いた歌詞、ファルセットの使用と『Achtung Baby』の架け橋となる作品である。実際、本作のアウトテイクから『Achtung Baby』に回された曲もある。

このアルバムを作るのはすごく楽しかったよ。ロスに住んでさ――エッジが家を持ってたんだ。 彼の結婚がだめになりかけてて、彼にとってはそんなに素晴らしい時間だったとは言えないけど。でもぼくら三人にとっては――ハリウッド・ヒルズに住んで、オートバイをベッドルームに持ち込んでた。もう取り壊される予定の家だったから、やりたいことがなんでもできたんだ。 ぼくらはまるでティーンエイジャーみたいで、壁に詩を書き殴った。大量のウィスキーを飲んだし、大量のテキーラも。素晴らしい時間だったよ。グラスノスチの始まり、冷戦時代の終わりの始まりだった。 誰もが2枚組のライブアルバムを出したいと思っていた。新曲を5曲書いて、アメリカンミュージックを発見する旅の日記を作ろうと思った。「ワオ、これはすごいぜ! やつらときたらブルースをやれると思っていやがる」みたいなもんだったね。 "When Love Comes To Town"はほんとにいい曲だよ。ぼくはまったくうまく歌えないけど――きみは大丈夫。 ぼくらはまったくうぬぼれていて、楽しい日記だとは受け取ってもらえなかったね。
(ボノ)

BONO on the RECORDS #2

そしてアルバムとツアーの大成功の余勢を買って映画まで制作。1989年1月公開。監督には『ラスト・ワルツ』のマーチン・スコセッシや『ストップ・メイキング・センス』のジョナサン・デミとか他に大物も監督候補に挙がっていたのだが、当時まったく無名だったフィル・ジョアノーのU2愛に絆されてかれが選ばれた(後日、ジョアノーはスティーヴン・ドーフ主演で『ウィズアウト・ユー 』という自伝的映画を撮る)この映画、出来はそれほど悪くなかったものの、プライベートな作風のためか、興行成績は振るわなかった

ダブリンの悪ガキから世界的なロックスターに駆け上がった80年代最後の年の最後の日、U2は地元ダブリンでライヴを行った。そのフィナーレ、「40」を演奏し終え、観客の歌声が響く中、ボノは彼らに「さあ、やって来たぞ、未来が。過去は忘れよう。俺たちは未来を祝おうじゃないか。新年だから思いきりセンチメンタルにやって欲しいと思っているだろ? それは正解だ。さあ、未来へ向かって! 限界なんて自分で勝手に作るだけさ。どんな世界でも自分が暮らしたいように夢見ればいいんだ。思いきりヴォリュームを上げて夢見ようぜ。それが生きるってことだ」と呼びかけた。

アルバムは1千万枚以上を記録し、ツアーも大盛況だったが、アルバムと映画に対する評価は真っ二つに割れた。The Beatlesディランのカバー曲、B・B・キングとのデュエット曲、ビリー・ホリデイを歌った曲、ジョン・レノンに捧げられた曲、ジミ・ヘンドリックの「The Stars and Stripes Forever」などが収録されていることをあげつらって、自分たちと過去の偉大なミュージシャンを同格に扱うとは傲慢だという批判がされたのである。

またあまりにも理想主義な態度も反感を買った。

「1つのロックバンドに世の中を変えることなんでできるわけがない。僕ら新世代の人間はそこまでナイーヴじゃないよ」「U2の方法論は、20年前のヒッピーによって試され、そして成し得なかった失敗策なんだよ。それを今更焼き直ししようなんて、あまりに安直だね。彼ら自身もそんなこと可能だなんて思ってないよ、きっと。あれが彼らのイメージなんだ」
クレイグ・ウォーカー(Power of Dreams)

U2としては自らのルーツを探っただけなのに、不本意な批判だったろう。が、やはりこの時期のU2のアメリカ趣味は付け焼刃感が漂っていたのは否めず、後年、U2のメンバーもそれを認めている。意外や意外初期からのU2ファンは『The Joshua Tree』で離れていった者も多かったのだ。ただボノの言葉を借りれば、この時期U2は「ブルーズからはファンクネスをフォークからは詩を学んだ」のだ。また自分たちに対する批判から「自分が自分のことを思っているように、他人は自分のことを思ってくれない」と痛感したことだろう。この経験が90年代U2の下地になった。

U2の歴史④


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