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ロヒンギャはラカイン州の先住民である。


日本語で読めるロヒンギャに関する論考は驚くほど少ないが、ロヒンギャのルーツに関しては、根本敬氏が簡潔にまとめてくれている。

根本氏はロヒンギャを次の4つの層に分類している。

  1. アラカン王国時代の「ムスリム住民」(1430年~1784年)

  2. 英植民地期に流入・定住した「ベンガル人」(1826年~1942年)

  3. 独立前後の混乱期に流入してきた「東パキスタン人」(1948年~)

  4. 第3次印パ戦争期に流入してきた流入してきた「東パキスタン人」(1971年)

1.アラカン王国時代の「ムスリム住民」(1430年~1784年)

ラカイン族はラカイン州の先住民にあらず

数少ない日本語で読めるロヒンギャ本は、アラカン王国時代から始まっているが、無論、アラカン王国時代にムスリムが突然湧いてでたわけではなく、それ以前に歴史の蓄積がある。

アラカン王国を含めて、ラカイン州は次の4つの時代に分類できるのだという。

  1. ダニャワディ (Dhannyawaddy) 時代(紀元前3325年~326年)

  2. ウェーサリー (Vesali) 時代 (Dvan Chandra王朝:327年~1018年)

  3. レムロ (Laemro) 時代 (Nga Tone Munn王朝:1018年~1406年)

  4. ミャウウー(Mrauk-U) 時代 (Munn Saw Mwan王朝《アラカン王国》:1430年 ~1784年)

いずれの王朝も仏教を庇護していたが、ウェーサリー時代、7~8世紀頃になると、ヒンドゥー教の影響も濃くなり、各王たちはヒンドゥー教の神シヴァの子孫であるとまで宣言していた……ということで、彼らがインド人であったことは明白であり、中国の甘粛省・青海省周辺を発祥の地とする、チベット・ビルマ語派に属するビルマ族の親戚とも言われるラカイン族であった可能性は低い。ちなみにラカイン州とミャンマーのその他の地域は、南北380kmにわたって2000m級の山々が連なるアラカン山脈によって隔てられ、地理的・文化的断絶がある。

実際、ラカイン州ミャウウーのシッタウン・パゴダ内にある、8世紀のものといわれるアナンダチャンドラ碑文は、現在のロヒンギャ語に近い古代ベンガル文字で書かれている(ロヒンギャ語には文字がなく、ロヒンギャ文字が開発されたのは1980年代に入ってから)。

10世紀頃、ビルマ族のパガン王朝がラカイン州に侵攻した際、ラカイン州に残ったビルマ族が、その後ラカイン族として形成され、徐々に彼の地で支配的民族になっていったのではないかと言われている。

イスラム教の伝播

8~9世紀頃には、ラカイン州にイスラム教が伝わったと言われている。788年にラムリー島にアラブ商人の難破船が漂着し、その後、彼の地に定住したという記録もある。

ラカイン州のムスリム化が決定的になったのは、1201年、ムスリム王朝だった、インドのマルムーク朝ムハンマド・バフティヤール・ハルジー将軍によって、ベンガルが征服された時である。この際、ハルジーは彼の地にあったナーランダ僧院ヴィクラマシーラ僧院などの数々の仏教寺院を徹底的に破壊し、彼の地の仏教は死に絶えた。そしてこの影響は否応なくラカイン州にも及び、仏教徒またはヒンドゥー教徒だったインド人の多くが、ムスリムに改宗したと言われている。
ちなみにこの際も、ラカイン族は仏教の信仰を守ったのではないだろうか。そう考えれば、ロヒンギャを指して「目鼻立ちがインド人・ベンガル人に似ている(だからミャンマー人じゃない)」と言う、ミャンマー人の見解とも合致する。

都内の某ラカイン料理店

余談だが、インド人の中にもヒンドゥー教にもムスリムにも改宗せず、仏教徒のままでいて、その後、ラカイン族に分類された人々もいたのではなかろうか。先日、私は都内のラカイン料理店に行ったのだが、そこで働いていた店員は、店内にラカイン族の独立運動の英雄たちの写真を掲げていたので、ラカイン族に違いないのだろうが、その容姿は親戚関係にあるビルマ族とは似ても似つかぬ、インド風の容姿だった(ちなみに私の知人のラカイン族は、皆、ビルマ族と見分けが付かない)。

話を元に戻す。
1404年、レムロ時代の最後の王朝、ラカイン族のラウンゲット王朝の最後の王・ミンソーモンが、シャン族のアヴァ王朝に追われ、ベンガルの都市・ガウルに逃亡。しかし、ミンソーモンは彼の地で捲土重来を期し、1430年、ムスリムのパシュトゥーン人の傭兵部隊(後にカマン族となる)を引き連れてラカイン州に取って返し、アヴァ王朝を放逐。新たにアラカン王国を樹立した。

こうした経緯により、アラカン王国はベンガルの王朝の傀儡政権のようにり、ひときわムスリム色が強く、タンミンウー著『The River of Lost Footsteps』にあるような、仏教とイスラム教のハイブリッド王朝となったのである。16世紀初めには、インドから来たムスリム布教団に宣教を許可し、実に多くの人々(主にインド人)がムスリムに改宗したと言われる。

このコスモポリタン宮廷はアラカン文学だけでなく、ベンガル文学の大パトロンになった。最初のベン ガル語のロマンスの作家であるダウラト・カズィのような廷臣は、すぐれた、オリジナリティのある韻文の 作品を作った。一方でアラオルのような17世紀のベンガル詩人は、ペルシア語やヒンディ語の作品も また翻訳した。何人かの国王たちはパーリ語だけでなく、イスラムの称号をつけた。仏教寺院を保護 し、仏教パゴダを建てる一方でペルシア式の衣を着て、イスファハンあるいはムガール朝デリーの円筒の帽子をかぶり、イスラムの信仰宣言であるカリマの入った硬貨を鋳造した。

The River of Lost Footsteps

ロヒンギャがラカイン州の先住民

以上、見てきたように、古くから彼の地に住んでいたインド人が、仏教徒、ヒンドゥー教徒、ムスリムと時代の変遷に伴って改宗していったものが、根本氏の言う「アラカン王国時代の『ムスリム住民』」であり、現在、ロヒンギャと呼ばれる人々の1つの層を成しているのは間違いない。そして彼らはラカイン族よりも先にラカイン州に住み着いた先住民である可能性が高い。

アラカン王国の支配下で、ラカイン族、インド系ムスリム、インド系ヒンドゥー教徒は、特段深刻な軋轢もなく、共存していたようだ…ただそうなると、そのインド系ムスリムの末裔である、現在、ロヒンギャと呼ばれている人々がラカイン語を話せないのが解せない

イギリス人のビルマ史学者・D・G・E・ホールはこう述べている。

彼ら(ラカイン州のインド系ムスリム)はアラカン人(ラカイン族)とは異なっていたが、宗教や宗教から生まれる社会習慣を除くとほとんど同
じだった。書くのにビルマ語(ラカイン語とほぼ同じ)を使ったが、彼ら同士で会話をするときは先祖と同じ言葉を用いた。

忘れられた民、ロヒンギャ 人権を求める闘い

ということで、やはり、英植民地期以前のインド系ムスリム(ロヒンギャ)は、ビルマ語(ラカイン語)を話していたようなのだ。

2.英植民地期に流入・定住した「ベンガル人」(1826年~1942年)

ベンガルからのムスリム移民の流入

1784年、アラカン王国は、ビルマ族のコンバウン王朝に滅ぼされた。この際、ムスリム、仏教徒、ヒンドゥー教徒含めて、一説には20万人もの人々がベンガルのチッタゴンに逃げこんだと言われている。

1826年、第1次英緬戦争の結果、ラカイン州は他のミャンマーの地域よりも一足先にイギリスの植民地となった。この際、アラカン王国滅亡の際にチッタゴンに逃げた人々の相当数がラカイン州に戻ったのではないかと言われているが、これについては後述する。そして1886年、第3次英緬戦争に敗れたミャンマーは、全土がイギリス植民地となり、英領インド・ビルマ州に編入された。1937年には英領インドから分離されて、イギリスの自治領となった。

そしてこの英植民地期、英植民地政府が耕作を奨励したこともあって、ベンガルからラカイン州へ大量の移民(ほとんどがムスリム)が流入した。

ミャンマー・ラカイン州のイスラム教徒

ご覧のとおり、1829年から1931年の約100年間で、ラカイン州全体の人口は12万1288人→100万8千535人と急増しており、そのうちムスリム人口は、統計のある1872年から1931年にかけて、6万4315人→25万5469人、割合でも13.3%→25.3%に増加している。ちなみに1872年から1931年にかけての仏教徒の人口増加率は79%、ムスリムは297%である。

ベンガルからのムスリム移民の特徴は、①季節労働者ではなく定住者が多く②農業に従事し③小作農ではなく耕地所有者が多いということだった。

ちなみにこの間、ラカイン州は英領インドの一部だったので、彼らは不法移民ではないということに注意が必要である。

ロヒンギャ識者からの反論

不法移民ではないが、この時期のベンガルからのムスリム移民の流入が、「ロヒンギャはベンガルからの不法移民」というイメージ形成に寄与していることから、ロヒンギャ識者は、このベンガルからのムスリム移民の流入の事実を否定する傾向がある。曰く、

  1. アラカン王国崩壊の際にチッタゴンに逃げた人々が戻ってきた。

  2. 人口調査の精度が上がって、カウントされる人々の数が増えた。

  3. ムスリムは出生率が高いので、自然増である。

しかし、1については、前述したように、現在、ロヒンギャと呼ばれている人々がラカイン語を話せないことに鑑みれば、ラカイン語を話せると思われる、アラカン王国崩壊時にチッタゴンに逃げた人々は、さほどラカイン州に戻らなかったのではないか。なにせアラカン王国崩壊(1784年)から第1次英緬戦争(1826年)まで、約40年ある。世代が変わり、チッタゴンに生活拠点ができていたとも考えられる。実際、アラカン王国崩壊時にチッタゴンに逃げたと思しきラカイン族は、彼の地でマルマ族として存在している。彼らの言葉はラカイン語と共通点が多く、水祭りの風習もあるのだという。インド系ムスリムの場合は、もしかしたらベンガル人に同化してしまったのかもしれない。
また英植民地期にヤンゴンに移住したベンガルからのムスリム移民は、ミャンマー語を話すため、この時期にラカイン州に流入したベンガルからのムスリム移民も、後述するようにムジャヒッド党の乱などの戦乱を逃れてベンガルに戻ってしまったとも考えられる。

2については、これではムスリムの割合が増加していることを説明できない。

3については、ロヒンギャの歴史学者・ハビブ・シディキは以下のように喝破している。

ラカイン人側から繰り返し反対意見が出されてきた。つまりどうしたらロヒンギャの人口が何倍にも増えて、今日のような100万人を越える大所帯になるかということだった。あきらかにそのような告発が出るのには、人口統計学にプラス社会学や数学(複利計算の原理)の基礎理解を欠いている。2千年前、12人(ユダを除けば11人)に過ぎなかったイエスの弟子が今は世界中に
25億人もいることに疑問を抱かないならば、アラカンのロヒンギャの人口が多いか少ないかなど、とるに足りないことだろう。

忘れられた民、ロヒンギャ 人権を求める闘い

ムスリムとラカイン族の対立激化

前述したように、アラカン王国支配下では、ラカイン族、インド系ムスリム、インド系ヒンドゥー教徒は、共存共栄していた。
英植民地期には、ミャンマーの他の地域では、1930年と1938年に大規模な反インド系移民暴動が起きたが、ラカイン州ではほとんど暴力沙汰はなかった。これはラカインに住むムスリムのほとんどが金融業ではなく農業に従事しており、ラカイン族の人々の恨みを買うことが少なかったからだと思われる。

しかし1942年、日本軍がミャンマーを占領すると、先にラカイン州に入ったビルマ族中心のビルマ独立義勇軍(BIA)がムスリムの村を攻撃。これに対抗してムスリムもラカイン族仏教徒の村を襲撃して、一説には、双方に10万人もの犠牲者が出るという事態となった。ラカイン族と違って、ビルマ族はムスリムに対する偏見が強く、このようなことになったものと思われる。

さらにイギリスがラカイン州奪還に乗り出すと、ラカイン族が、BIAから改編されたビルマ国民軍(BNA)傘下のアラカン防衛軍(Arakan Defence Army:ADA)に付いたのに対し、ムスリムはイギリス軍が結成したVフォースに付いて諜報・破壊活動に携わり、両者の対立はさらに深まった。

3.独立前後の混乱期に流入してきた「東パキスタン人」(1948年~)

ムジャヒッド党の乱

1945年、第2次世界大戦が終了し、いよいよミャンマーの独立が現実味を帯びてくると、1946年5月、独立後の境遇悪化を苦慮したラカイン州のムスリムの一部が、同じ理由でインドから独立目前に迫っていたパキスタンのカラチに赴き、後にパキスタン初代大統領となるジンナーに、ラカイン州北部をパキスタンへ統合することを提案した。しかし、ジンナーはこれをミャンマーの内政問題であると一蹴し、提案を拒否。

1961年、国軍に投稿するムジャヒッド党の兵士たち

そして独立直後の1948年8月、アブドゥル・カシム(Abdul Kasim)という地元の人気歌手だった人物が、ムジャヒッド党(Mujahid Party:MP)という武装組織を結成し、ムスリムの自治区設置を訴えて反政府武装闘争を始めた。当時、国軍はビルマ共産党(CPB)カレン民族解放軍(KNLA)の前身・カレン民族防衛機構(KNDO)の反乱鎮圧にかかりきりで、ラカイン州まで手を回せなかった事情もあり、ムジャヒッド党はまたたくまにラカイン州北部を制圧。その際、ラカイン族の村々を焼き払い、多大な犠牲者が出たと言われている。

しかしムジャヒッド党は、ミャンマー国内の他のムスリムの協力と理解を得られず、逆に国軍がインドとイギリスから莫大な軍事援助を得、CPBとKNDOの反乱鎮圧の目途が立った1949年頃から、国軍の反撃に遭うようになった。1950年、アブドゥル・カシムは暗殺され、1954年のモンスーン作戦という国軍の軍事作戦の後は反乱は沈静化、1960年にはムジャヒッド党の党員290人が政府に投降し、反乱はほぼ鎮圧された。

が、この間、戦乱を逃れてラカイン州から東パキスタン(現在のバングラデシュ)に大量の難民が流入した一方で、ムジャヒッド党はラカイン族から奪った村々に東パキスタンから人々を移住させていたとも言われている。

ロヒンギャの識者は、ムジャヒッド党の乱は他の少数民族の反乱に比べて小規模で、些細なものと自己弁護しているが、連邦統一を宿願とする国軍の目には、パキスタンへの統合からムジャヒッド党の乱への一連の流れは、小さくない脅威に映ったに違いない。

ロヒンギャの誕生

一方、武装闘争とは別に、ムスリムの穏健派はミャンマーの政党政治に参加し、1947年、1951年、1956年に実施された選挙で、ムスリム議員を輩出した。1951年に12歳以上のミャンマー国民に発行された国民登録カード(NRC)は、ラカイン州のムスリムの人々にも発行されていた。

そして1950年、ムスリム議員の1人が、ウー・ヌ首相に宛てた書簡の中で、初めて「ルワンヤ(Rwangya)」というロヒンギャとほぼ同じ意味の言葉を使用したのである。

この言葉のルーツについては諸説あるが、重要なのは、これまで特段、民族意識を持たなかったラカイン州の、インド系先住民、ベンガル移民含むムスリムが、突然、ロヒンギャという民族を名乗りでたことにある。この背景については、①パキスタン編入を諦めたラカイン州ムスリムが、ミャンマーで生きていくうえでのアイデンティティ確立を迫られた。②国軍が徐々に台頭してくる中で、中国人・インド人排斥の動きを察知したラカイン州ムスリムが、インド人と自分たちを区別するために、新たな民族を創出したと言われている。

当時の政府は、このロヒンギャの呼称を受け入れ、1960年にはムスリム議員の意向を受け、ラカイン州北部に、政府直轄地のロヒンギャ居住区・マユ辺境行政区を設置した……が、1962年、ネウィンがクーデターを起こして軍事政権が成立すると、1964年に廃止されてしまった。

4.第3次印パ戦争期に流入してきた流入してきた「東パキスタン人」(1971年)

ネウィン軍事政権は外国人排斥が色濃く、ロヒンギャは明確に排除の対象となった。ムスリムで、他の民族と違って、これといった武装組織がなかったことも標的になりやすい理由だったのかもしれない。公職就任禁止、移動制限、身分証発行停止などの制限が課せられ、1964年、外国企業が国有化されると、ロヒンギャ所有の企業も国有化され、さらにユナイテッド・ロヒンギャ機構、ロヒンギャ学生協会、ヤンゴン大学ロヒンギャ学生協会などのロヒンギャ関係組織も解散させられた。この際、弾圧を逃れて東パキスタンなどの外国に逃れたロヒンギャも多かったのだという。

1971年、第3次印パ戦争勃発。結果的にバングラデシュが誕生したこの戦争で、バングラデシュからラカイン州に約50万人の難民が流入したと言われている。真偽・詳細は不明だが、この件は一般ミャンマー人の間にも広く膾炙し、ロヒンギャは不法移民であると深く印象づけている

1974年、新憲法が制定されたのと同じ年に、緊急移民法が制定され、ロヒンギャの人々の国民登録カード(NRC)は外国人登録カードに差し替えられた。

1978年2月には、ラカイン州北部で国籍審査を名目にしたドラゴン・キング(ナガーミン)作戦が実施され、詳細は不明だが、約20万人のロヒンギャがバングラデシュに流出する事態となった(後に大半がラカイン州に帰還した)。

そして1982年、新たな国籍法が制定された。

国民
第一次英緬戦争が始まる1884年以前からミャンマーで暮らしていた土着民族

準国民
1948年国籍法に従い国籍取得を申請したものの、本法改正時までに決定を受けていない者

帰化国民
1948年1月4日までにミャンマーに住んでいることを証明できて、1948年国籍法にもとづいて国籍取得の申請をしていなかった者

ロヒンギャ危機

この「土着民族」には135の民族のカテゴリーがあったが、その中にロヒンギャは含まれず、また「1948年国籍法に従い国籍取得を申請する」ことも「1948年1月4日までにミャンマーに住んでいることを証明する」ことも事実上不可能だったため、ロヒンギャはこの「国民」「準国民」「帰化国民」に該当せず、無国籍状態に陥り、不法移民と見なされるようになったのである

なお翌1983年にも国勢調査が行われているが、1931年に比べて、

  • ラカイン州のムスリム人口:25万5469人→58万5092人

  • ラカイン州のロヒンギャ人口(1931年はインド系ムスリム、1983年はバングラデシュ人):19万7560人→49万7208人

といずれも、かなり増加している。
また2014年の国勢調査では、推定値ながら、ラカイン州のムスリム人口は、111万8731人とされている。

この頃になると、1人当りのGDPにおいて、バングラデシュがミャンマーを上回るようになったので、ロヒンギャの識者からは「豊かなバングラデシュから貧しいミャンマーへ人口流出するわけがない」という反論がなされているようだが、とはいえ、バングラデシュは、前述した内戦の他にも、世界一人口密度が高く、サイクロンや洪水などの自然災害、その結果の飢餓発生率も高く、その度にラカイン州に逃れてきた人々がいた可能性はある。

結論

無国籍者・不法移民となったロヒンギャのその後の苦難については、以下を参照されたい。

中西嘉宏氏は、ロヒンギャについて、以下のように結論付けている。

ロヒンギャの多くは、植民地時代にベンガル地方から移住してきた人々の子孫である。他にも、植民地期以前からラカイン州北部に住んでいたムスリムの末裔もいる。独立後に入国した不法移民や難民とみなされる人々も含まれる。それぞれの割合について議論の余地はあっても、全員が不法移民だということはありえない。

私も同感だが、前述したように、ロヒンギャがラカイン語を話せないことに鑑みれば、①アラカン王国時代の「ムスリム住民」②英植民地期に流入・定住した「ベンガル人」は、そんなに多くは含まれていないのかと思う。

無論、私は専門家でもなんでもないので、大きな勘違いしている可能性はある。間違いに気づいた人はコメント欄で指摘してくれると嬉しい。またこの記事を読んだことをきっかけに、ロヒンギャの専門家を目指す若者が出てきたら、もっと嬉しい。

もしも僕が倒れたならば 君がロヒンギャを語れ。

参考


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