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U2の歴史⑤


U2の歴史④

再び世界の頂点へ

Popmartの後、前作の反省からバンドは今度は期限を決めずに断続的にスタジオに集って曲作り励んでいたのだが、その頃の1998年4月10日、北アイルランド紛争に終止符を打つベルファスト合意の賛否を問う国民投票が行われた。その3日前の4月7日に開かれたキャンペーンライヴにボノが登場。Ashと「Don't let me down」を演奏した後、北アイルランドの存続を主張するアルスター統一党の党首・デヴィッド・トリンブルと北アイルランドとアイルランド共和国の統合を主張する社会民主党の党首・ジョン・ヒュームをステージに上げ、2人の手を取って高々と掲げるパフォーマンスを行った。

そして国民投票の結果、和平合意が成立。同年10月、トリンブルとヒュームの二人はノーベル平和賞を受賞したーーが、その前の8月15日、北アイルランドの小さな町オマーの市場で、真のIRAによる爆弾テロ事件が発生。29名が死亡し、300人以上の負傷者が出る大惨事となった。9月20日のオマーのテロ事件の犠牲者の追悼番組で、U2は「North And South Of The River」と「All I Want Is You」を演奏。また事件の夜、ボノは「Peace On Earth」を一晩で書き上げた。

Sweetest Thing
UK3位 US63位 
1998年11月に発売された『The Best of 1980–1990』のリードシングルとして、『The Joshua Tree」のアウトテイクをリテイクしたもの。『Pop』の後に発表された曲がリリーホワイト、イーノ、ラノワのプロデュースによるストレートなロックだったことから、次のアルバムは原点回帰的なものになるのではないかという憶測を呼んだ。

1999年10月9日、インターネットを通じて貧困に対する意識を高めるとい目的でニューヨークでネット・エイドが開催。ボノは「One」と「New Day 」を歌った。が、デヴィッド・ボウイ、ジョージ・マイケル、ロビー・ウィリアムズ、ジミー・ペイジなど豪華な顔ぶれにも関わらず、会場の客席は半分も埋まらず、ライヴは低調なものに終わった。今となってはこのライヴが語られることはほとんどない。

そしてこの年から、ボノは発展途上国の先進国に対する債務を帳消しにするジュビリー2000に関わるようになった。当初、スポークスマン的な役割しか期待されていなかったボノだが、知名度と人脈と、そして持ち前のヴァイタリティを生かして、世界の要人と面会し、債務帳消しを訴えた。そのハイライトが9月23日のローマ法王・ヨハネ・パウロ2世との面会である。このボノから贈られたサングラスをかける法王の写真は、しばらくの間、封印されていた。

2000年1月21日の朝日新聞朝刊の論壇には、ロックバンド・U2リードボーカルであるボノ氏の投稿が掲載された。

2000年3月18日、U2のメンバー4人にダブリン名誉市民権が授与された。市長から贈られたのはヨシュア・ツリーのレプリカ。なお同時に授与されたのは、当時、ミャンマーで自宅軟禁中だったアウンサンスーチー。この時その名前を初めて知ったボノは、彼女のことを調べて非常に感銘を受け、「Walk On」を書き上げた。

The Ground Beneath Her Feet
2000年3月、アルバム作りと並行して制作していたヴェンダースの映画『ミリオンダラー・ホテル』のサントラをリリース。この映画の原案はボノで、サルマン・ラシュディの詩にU2がメロディをつけたこの曲が主題歌に使われた。が、映画のできが悪く、シングルカットは見送られた。

All That You Can't Leave Behind

2000年10月30日発売
UK1位 US3位
そして待望のニューアルバム完成。原点回帰というか21世紀版『The Joshua Tree』だ。過去U2の作品で、これほどまでにストレートな愛に満ち、リラックスして聴けるアルバムはないだろう……が、90年代の成果がほんのちょこっとしか残っていなかったので、少し落胆したのも事実。The Storokesの1stが2001年、The Libertinesの1stが2001年だということを考えれば、ロックンロールリバイバルの先駆けだったといえるかもしれない。その点、この頃はまだ時代とシンクロしていたわけである。

素晴らしいアルバムだ。アイデアの完璧なるセットだね。本質について、非本質的なものを捨て去ることについて、また本質的なものが何であるか――家族や、友情――に気づくことについてのアルバムだ……アイデアっていうのは「ぼくらのバンドの本質とは何だろうか? それを洗練するためには何をしなければならないだろうか?」ということだった。10年間、ぼくらはまったく逆のことをやっていたんだ。ぼくらは「足りないものは何だろう?」と考え、それを求めていた。でも今、ぼくらは新鮮さを保つためにこう言うんだ。「ぼくらが持っているものは何だろう?」。そして、それを求める……"I Love You"っていうタイトルの曲を作りたかったんだよ。結局書けなかったけどね。でも、同じ種類の曲ならある。一体誰が「美しい日」なんてタイトルの曲を作りたがるだろうね? 戸惑わないよね。ぼくはU2ってバンドは、まったくかっこよくない時に一番いいんじゃないかと思うんだ。
(ボノ)

BONO on the RECORDS #5

2001年2月21日、U2は「Beautiful Day」でグラミー賞を3部門受賞した。この時のスピーチで、ボノは「もう一度、世界一のバンドに志願する」と力強く宣言し、万雷の拍手を浴びた。

ツアーはElevationツアーと名づけられた。前回、前々回と違って、ステージはいたってシンプル。会場も小規模なところが選ばれ、チケット代も安く抑えられた。余計な装飾なくして『Pop』で離れかけた観客との絆を取り戻そうとしたのだ。途中、ボノの父、ボブ・ヒューソンが亡くなるという不幸があったものの、仮面を脱いで素顔に戻ったU2をファンは暖かく迎えた。

2011年9月11日、世界貿易センターで、テロ発生。9月21日、テロの犠牲者のための追悼番組『ア・トリビュート・トゥ・ヒーローズ』で「Walk On」を演奏。皮肉もテロを機に「Peace On Earth」や「New York」収録されている「All That You Can't Leave Behind」の売り上げが伸びるという現象が起きた。

北米ツアーが終わった直後の2002年2月3日、U2はスーパーボールでハーフタイムショーを行った。

ツアーは大絶賛のうちに終わり、それに引きずられて新作だけではなく、過去の作品の売上も大きく伸びた。そしてこの年のグラミー賞でも4部門で授賞。世界一のバンドに再び挑戦するというU2の野望はここに果たされたのである。

Electrical Storm
2002年 UK5位 US77位
2002年11月に発売された『The Best Of U2 1990-2000』のリードシングル。テロに対抗するために再び覇権主義を剥き出しにしてきたアメリカに対する不安を雷雨に喩えて歌った曲。各国でチャートインするスマッシュヒットとなった。またアントン・コービンが監督した、ラリー熱演(本人はかなり照れていたらしい)のこのPVも「コービンの最高傑作」と高い評価を得た。

The Hands That Built America
ワスプとアイルランド系アメリカ人のアメリカン・フロンティアを巡る争いを描いた。マーチン・スコセッシの映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』の主題歌。「アメリカを作った手」とは後発移民として建築労働者などの劣悪な労働条件の仕事にしか就けず、祖国だけではなく新大陸でも辛酸を舐めたアイルランド系アメリカ人のことだ。そんな彼らがロックンロールを生み、ロックンロールの世界で頂点を極めたアイルランドのバンドがお返しをした格好。ゴールデン・グローブ主題歌賞を受賞した。

そして次はもっとハードなロックアルバムを作りたいといことになり、セxPistols、Pink Floyd、ポール・マッカートニーを手がけたクリス・トーマスがプロデューサーに選ばれた。が、この頃からボノの政治活動が本格化し、ニューアルバムの完成は遅れに遅れた。

2002年2月、アフリカの貧困救済のために50億ドルを拠出すると約束したブッシュ大統領と一緒に写った写真が世界中を駆け巡った。この写真が撮られた後、ブッシュは「明日の新聞の見出しは、『アイルランドのロックスターとテキサスの有害野郎』だな」とボノの耳元に囁いたという。

2002年10月17日、アイルランド郵便局は、アイルランドのロックスターの記念切手を発行したが、U2はその栄えある肖像第1号に選ばれた。ちなみに他に選ばれたのは、ヴァン・モリソン、フィル・ライノット、ロリー・ギャラガー。

2003年10月には、著名な画家ルイ・ル・ブロッキーによる「Image Of Bono」という作品が公開された。

が、肝心のアルバム制作は暗礁に乗り上げており、クリスがプロデューサーを退き、代わってリリーホワイトがプロデューサーに就く。さらにイーノ、ラノワ、ジャックナイフ・リー、フラッド、果てはネリー・フーパーもまで加わって、なんとかアルバムを完成にこぎつけた。まさに船頭多くしてなんとやら。そしてアルバム発売直前の2004年10月12日、U2がiPodのCMに登場。が、ファンの間ではU2が大企業に身売りしたと舌戦が繰り広げられ、U2は「CM出演料は貰っていない」という声明を出して、事態の沈静化を図る羽目になった。

そして10月26日、iTunesで「The Complete U2」というU2の曲が400曲入ったコレクションとU2モデルのiPodの発売を発表。値段はそれぞれ149ドルと300ドル。

How to Dismantle an Atomic Bomb

04年11月12日。UK1位 US1位 

プロデューサーの交代、エッジのプロモCDが盗まれるという様々な難局を経て、ようやく完成。 デビューアルバムを作るつもりで作ったそうで、そう言われれば、似たような調子の曲が多いあたり、『Boy』に似てなくもない。前作が『Pop』で傷ついた自尊心の回復、リハビリだったとすれば、これこそ原点回帰だったのだろう。アルバムのセールスは900万枚を超え、またしても大ヒット。ちなみに日本で一番売れたU2のアルバム。

ぼくらは今まで以上にロックなアルバムを作りたかった。サイ・ファイ・パンクは元々やりたかったことでもあった……ドラマティックなギター・ドライブの効いたアルバムなら作れただろうね。でもぼくたちは魔法を手に入れていなかった。奇妙だったよ。技術は持ってる、でも魔法がなかったんだ。それを得るために、ぼくらはまた実験的なことを始めなければならなかった……たんに普通のギター・アルバムを作るには、ぼくたちはずるがしこすぎたし、感情的に過ぎたね。多くの曲が純真さ、知識を拒否することへの讃歌だ……このアルバムにはいい曲を集められたと思う。弱い曲はひとつもない。でもアルバムとして見た時に、全体が部分を超えていないんだ。ほんとに悩ましいことなんだけど。
(ボノ)

BONO on the RECORDS #5

ツアー開始に先立つ3月14日、遂にロックの殿堂入りを果たす。U2を殿堂に招き入れたのは、Boyツアーの時からU2の才能を認め、1999年にボノが殿堂に招き入れたボスことブルース・スプリングスティーンだった。

エッジの子供の病気、チケット販売時のトラブルなど、実現が危ぶまれていたVertigoツアーだが、3月28日、サンディエゴで幕を開けた。前回同様ステージはいたってシンプルだったが、『Boy』の曲が演奏されたり、これまでのキャリアを総括するようなものだった。また天井から吊り下げられたLEDスクリーンにアフリカ各国の国旗や世界人権宣言が映されたりするなど、前回に比べて、政治的メッセージ色が強かった。後日、3D映画化され、これも好評を博した。

来日も果たしミュージックステーションにも出演して2曲演奏した。素人歌手ばかり顔を揃えたスタジオではドリカムの2人しかU2に反応していなかったのが大変印象深かった。

そして2006年2月8日のグラミー賞授賞式では、5部門を総なめにするという快挙を成し遂げ、しばらく前からグレイテスト・ヒッツ・バンドになっていたストーンズに成り代わって、U2こそが現役最高のロックバンドという評価が確立した。ダブリン界隈をうろうろしていたアイルランド人の少年たちが、The BeatlesやThe Rolling Stonesに比肩する不動の地位を築き上げたのである。

U2のセールス記録。
これまでミュージシャンのサクセスストーリーは、自分たちの音楽をひたすら追求し、頂点に立ったら、後は掴んだファンを大事にして、懐メロバンド化する、というものだった。
が、00年代のU2が世に問うたのは、それとは違う新たなサクセスストーリーだった。つまり、一度頂点に立った後、自分たちのスタイルは崩さないまま(ここ重要)、自分たちの音楽に最新の音楽を採り入れ、もう一度「転生」するというものである。
結果、U2は2度キャリアのピークを築くという神業をやってのけたのである。このキャリア形成はLinkin ParkやColdplayが参考にしていると思われる。

イギリスで売れた歴代バンドランキングでも2012年の時点で9位。「売れない」と言われているイギリスで堂々のベスト10入りである。

ちなみにこちらが地域別セールス。アメリカ市場のでかさよ。そしてたぶん日本は非英語圏でナンバー1……それなのになぜツアーをスキップするようになった?!(涙)

U2の歴史⑥

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