U2の歴史①
デビューまで
アイルランドのロックシーンは隣国イギリスに比して非常にお寒いものだった。
U2以前に世界的に成功したといえるのはヴァン・モリソン率いるThemと彼のソロキャリア。
孤高のブルーズマン、ロリー・ギャラガー。
「アイルランドの英雄」フィル・ライノット率いるThin Lizzy。
ボノの盟友、ボブ・ゲルドフが率い、アイルランド人のバンドとして初めてUKチャートNo.1に輝いたThe Boomtown Ratsも、すぐに失速していった。
学歴も資産もない音楽好きの青年の誰もが一度は夢見る「音楽で一発当てる!」――そんな淡い夢さえ描けないのが、当時「ヨーロッパのお荷物」と呼ばれたアイルランドの若者を取り巻く環境だったのである。
R&Bバンドを組んで一発当てようとするダブリンの若者たちを描いた映画『ザ・コミットメンツ』でバンドのマネージャー役のジミーはこう喝破した。
そんな時代と場所にU2の面々は生まれた。
メンバーの横顔
ボノ(V)
本名ポール・ヒューソン。
1960年5月10日、ダブリン生まれ。
U2の曲の中で一番好きな曲は「Stay (Faraway, So Close!)」。好きなアルバムは『The Joshua Tree』『Achtung Baby』。次に『All That You Can't Leave Behind』『How to Dismantle an Atomic Bomb』。
ジ・エッジ(G)
本名デヴィッド・エヴァンス。
1961年8月8日、イギリスのロンドン生まれ。
両親はウェールズ人。子供の頃、頭が大きすぎることがコンプレックスとなって、気弱で引っ込み思案な性格に育ったが、それをギターが治してくれた。IQが高いことでも有名。日本のビジュアル系にビジュアル以外の面で多大な影響を及ぼした人物。
アダム・クレイトン(B)。
1960年3月13日、イギリスのオックスフォードシャー生まれ。
両親はイングランド人。少年時代にケニアに住んでいたことがある。マウント・テンプル・スクールに転校してくる前に校則の厳しい寄宿制の学校に通っていたせいで、メンバーの中で唯一の無神論者。そして飲酒運転、大麻吸引、女癖の悪さなどメンバーで唯一少々の問題児。
ラリー・マーレン・ジュニア(D)。
1961年10月31日、ダブリン生まれ。
U2を結成する前に郵便局員のバンドに所属し、アイルランド中を巡業した経験がある。インタビュー嫌いで寡黙なイメージがあるが、プライベートではアイルランド人らしくお喋りとのこと。またその端麗な容姿からカルチャークラブのボーイ・ジョージに追いかけ回されたことがある。無事逃げ切ったようであるが。
ということでアイルランドのバンドであるが4人のうち2人はイギリス人である。
生い立ち
U2のメンバーが通っていたのはマウント・テンプル・スクールという公立の中高一貫校。カソリック色の強いアイルランドでは初めての特定の宗派に属さない画期的な学校だった。が、正直、学力レベルは高くなく、息子が寄宿制の名門校からここに移ることになった時、アダムの父はひどく落胆したのだという。ちなみにアイルランドでは1964年に高校までの義務教育が完全に無償化され、貧しい家庭の子供でも大学に行かせるのが可能になった時代だった。U2のメンバーはここで出会い、ポール・ヒューソンは後に妻となるアリスン・スチュワートとも出会う。ポールの一目惚れだった。
アリ・ヒューソン。ボノがジョン・レノンにならずにすんでいるのは彼女のおかげ。ロックスターに珍しくボノは「放蕩なセックスライフなんて退屈な代物だ。唯一の愛を貫く方が、ずっとラディカルだよ」という言葉どおり、アリ一筋で、2人の間には4人の子供がいる。アリは活動的な女性で、チェルノブイリ事故で被爆した子供たちの写真集やドキュメンタリーを作ったり、発展途上国で生産された衣類を販売するブランドを立ち上げたりしている。
学校ではポールはかなり目立つ生徒だったが、14歳の時に母親を失ったせいで信心深い一面があった。また近所の悪友たちとリプトン・ヴィレッジという徒党を組み、路上パフォーマンスなどをして、退屈を紛らわせていた。彼らが関心を持ったのは、政治、芸術、セックス、そしてロック。
写真は1979年頃、リプトン・ヴィレッジのメンバーが地元紙からインタビューを受けてるところ。 左から エッジ、ストロングマン、ボノ、インタビュアー、ディック(エッジの兄)、ギャビン・フライデー、アダム、グッギ。
グループのメンバーは仇名で呼び合い、ポールは、ステインヘグヴァンフイセノーレグバンバンバンバン、後にオコンネル・ストリートのボノ・ヴォクス、縮めてボノ・ヴォクス、さらに縮めて単にボノと呼ばれるようになった。名前の由来はダブリン中心街の大通り、オコンネル・ストリートにある補聴器店の名前である。ちなみに後にグループの「非公式メンバー」になったU2の他の3人にも仇名がつけられ、デイブにはインチコア、後にボノがそれをエッジに変え、ラリーにはジャムジャー、アダムにはスパーキーもしくはミセス・バーンズという仇名が与えられた。うち後2つは定着しなかった。やがてリプトン・ヴィレッジはU2とギャヴィン、グッギが率いるVirgine Prunesに分かれていった。
バンド結成
1976年9月、学校の校内掲示板に1枚の貼り紙が貼られた。
貼ったのはラリー・マレーン・ジュニア。ロックバンドを結成したがっていた息子を見かねたラリー・マレーン・シニアのアイデアだったが、ラリー自身は「ただ楽しむだけのつもりだった。それ以外何のアイデアもなかったし、何も期待していなかった」のだという。
9月25日、貼り紙を見た生徒7人がラリーの自宅にやって来た。顔を見せたのはボノ、エッジ、エッジの兄のディック、アダム、その他2人。結局、ボノ、エッジ、アダム、ラリー、そしてエッジの兄のディックの5人が残り、バンド名はFeedbackに決まった。理由は演奏するとフィードバック=元に戻ることが多かったから。年長で既に大学生だったディックと他の4人の関係は最初からぎくしゃくしていた。
そしてこの年の冬、学校のタレントコンテストでFeedbackはディック抜きで初めてのギグを行い、ピーター・フランプトンの「Show Me The Way」とベイシティ・ローラーズ「Bye Bye Baby」を演奏した。ぎこちない演奏だったが、生徒には大いに受け、遊びのつもりのバンドが少し本気になった。その後、バンドはせっせと練習とギグを繰り返す日々。が、バンドの演奏技術はお世辞にも上手いとはいえず、他人の曲を演奏できなかったので、やがて自分たちで作曲するようになった――が、これが功を奏して、カバーばかりやっていた他のバンドと違い、自分たちのスタイルを早めに築くことになったのである。
やがてアイルランドにもパンクムーブメントが押し寄せ、The Radiators From Space、The Undertones 、Stiff Little Fingersなどのアイルランド出身のパンクバンドも現れ、これに大いに刺激されたボノたちはバンド名をパンク風にThe Hypeに変更した。ロンドンから離れた場所にいたU2のメンバーはパンクバンドが本気で社会への反抗を企てていると信じ込んでいた。その後、その実態がファッションであること知って大いに失望するのだが、それでも彼らは「本気」あることを止めなかった。このへんは彼ら(アダム以外)の信仰の深さから来ているのだろう。
1978年、RTAテレビのプロデューサーの前で自分たちの曲だと偽ってThe Ramonesの曲を演奏し、「好意的な評価」を得たThe Hypeは、初めてのテレビ出演を果たした。演奏したのはオリジナル曲の「The Fool」。収録したのは1978年2月の最後の週か3月の最初の週、オンエアされたのは3月末。収録した時のバンド名はThe Hypeだったが、オンエアされた時にはバンド名はU2に変わっていた。
The Hypeという名前がどうもしっくりこなかったので、当時バンドのマネージャー役だったアダムが、アイルランド初のパンクバンドと言われるThe Radiators From Spaceの元メンバーで、当時広告代理店で働き、「Boy」以降U2のすべてのジャケットを手がけることになるスティーヴ・アブリルと一緒に新バンド名を考案。そのリストの最後にあったのが「U2」だった。ボノは「解釈の仕方が無限だろ? 僕の中ではU2偵察機よりもUボートのイメージだった」などと言っているが、アダムはただ「文字1個、数字1個だけだからポスターに名前を大きく書けるし、普通の会話で使う言葉だから、宣伝文句等の中にも滑り込ませやすかった」からそうしただけった
そしてアダムの思惑は当たった。
1978年3月18日、U2はLimerick Civic Week Pop '78に出場。「Street Missions」「Life On A Distant Planet」「The TV Show」の3曲を演奏し、36組のバンドとの争いを勝ち抜いて、見事優勝した。賞金は500ポンド、他にトロフィーとCBSアイルランドでデモセッションをする権利を得た。こちらが当時の新聞記事。
が、同コンテストを戦ったバンドの1つであるザ・ダブズのギタリスト、フラン・ケネディが、後年、こんな証言をしている。
そしてこれを機に、前々からバンドのメンバーとしっくりいっていなかったエッジの兄、ディックが正式にバンドを脱退する。メンバーにとっては辛い決断だったらしいが、政府から奨学金どころか給料を貰って大学へ通うほどの秀才だったディックは、音楽よりも大学で専攻していたコンピューターサイエンスの方に興味が移っており、渡りに舟だったとか。
ディックは学業の傍ら1977年~1984年までVirgine Prunesでギタリストを務めた後、1988年~1996年まで Screech Owlsというバンドでギターを弾いていた。その後、イギリスの名門大学、インペリアル・カレッジ・ロンドンでコンピューター関係の博士号を取得し、現在はコンピューターサイエンスの研究者をしているとのことである。
コンテストの後、U2はRTEテレビのヤングラインという番組に出演。先に収録した「The Fool」より先に放送されたので、これがU2の初めてのテレビ出演となる。
また4月、アダムの電話攻勢が功を奏してホット・プレス誌のビル・グラハム(アメリカの大物プロモーターとは別人)が、コンテスト優勝で得たCBSアイルランドのデモセッションに立会い、初めて雑誌にU2の記事が載った。以来、ビルは駆け出しのU2の記事を頻繁に書いてくれ、U2の恩人といってもいい存在になる。そのビルからU2はマネージャーとしてポール・マクギネスを紹介される。
U2とポール・マクギネス(写真中央)が初めて顔を合わせた時の写真。先日、引退するまで、陰に陽にバンドを支え続け、「5人目のU2」と呼ばれている。
この年の6月、メンバーは全員学校を卒業し、親から1年の猶予期間を与えられてバンド活動に専念したーーが、なかなかレコード会社との契約を取り付けられない。
写真は最近になって発掘されたRSOというレーベルからのU2の曲の不採用通知。
が、ダブリンのダンデンライオン・マーケットのショーでギグを行って好評を博すと、ようやくCBSレコードとアイルランド国内でシングル盤を発売する契約を結び、「Out Of Control」「Boy/Girl」「Stories For Boys」の3曲が入った「U2 3」を発表した。プロデューサーはチャス・ド・ウェイリーというCBSのA&R。本職のプロデューサーではなかった。記念すべきU2の1stシングルである。ソングライティングに目覚しい進歩が見られる。
が、アイルランドは北アイルランドを足しても当時人口300万超の小国。アイルランドで売れただけでは生計は成り立たない――ということでU2はイギリスのレコード会社とアルバム契約を取り付けるべく、2週間のイギリスツアーを敢行することにした。
が、出発直前、このツアーのマネジメントを手がけた元ピンク・フロイドのマネージャー、ブライアン・モリソンが契約額を3000ポンドから1500ポンドに減額すると通告、さらに暗にラリーを首にするようにほのめかした。激昂したメンバーは、この話を蹴って、家族や友人に頭を下げまくって費用を捻出し、イギリスへ渡航した。
後年、当時の思い出をMCで語っている(3:20~)。
が、その甲斐もなくバンドはレコード会社の契約を取れず、手ぶらでダブリンに戻る羽目になった。どうやら当時のUK子にはU2の音楽は少しナイーブに映ったらしい。
約束の猶予期限の1年は既に過ぎている。バンドは解散の危機に瀕していたーーとそこでU2は一世一代の大博打に打って出る。ダブリンに戻ると、周囲に「イギリスツアーは大成功だった」と嘘八百を吹聴して回り、決死の覚悟でアイルランド国内ツアーに挑んだのだ。嘘も方便。後にノーベル平和賞候補にも挙がるボノたちの涙ぐましい努力だった。
そのハイライトが1980年2月26日、ダブリンのナショナル・ボクシング・スタジアムで開かれたライブ。2400人ほどの観客席は1000人ほどしか埋まらず、そのほとんどが家族や友人などだったが、アットホームな雰囲気でライヴを行うことにより好印象を残そうと考えたのである。ちなみにこの時点で完成していた『Boy』収録曲は「Twilight」「Out Of Control」「Stories For Boys」「A Day Without Me」「Another Time, Another Place」「Shadows And Tall Trees」。レコード会社の人間の心を動かすには十分のように思える。
これらの努力がようやく実を結び、5月23日、バンドはアイランド・レコードと契約。内容は4年間にアルバム4枚、初年度にシングル3枚を発売するというもので、当時としては割と平均的なものだった。またこの時、メンバーに支払われる報酬は完全に4等分することも決められたーーが、アルバムのクレジットは作詞ボノ作曲U2となっているので、印税収入はボノが62.5%で、他の3人は12.5%ということになる。
U2とキリスト教
U2ファンには割と知られていることだが、アダム以外のボノ、エッジ、ラリーの3人は、ツアーの合間にも聖書の勉強会を開いたり、毎日お祈りを欠かさない敬虔なクリスチャンである。「1976年頃から世界中で同じことが起きていた。アイルランドではボノやエッジやラリー・ミューレン・ジュニアがそうなった。オーストラリアではマイケル・ハッチェンスがそうなって、このロサンゼルスでもそうなった」というTボーン・バーネットの言葉にあるとおり、70年代半ば、世界中のキリスト教圏で大きなのスプリチュアル・ブームが起こり、多感な時期にあった彼らはその影響を多大に受けたのである。
当時、キリスト教圏の若者の間では、信仰を持つこと、信仰を告白することは非常にダサいこととされていたが、宗教的な束縛から自由な家庭環境、学校環境で育ったU2のメンバーにとっては、そんな環境で、あえて「自分の意思」で信仰を持つことはクールでラディカルなことだった。
そして1978年の春頃、ボノとリプトン・ヴィレッジのメンバー数人は、クリストファー・ローというカリスマ的人物が率いるシャロームという急進的なクリスチャンのグループに出会い、その集会に参加するようになる。
そんな3人を見て、1人信仰を持たないアダムは密かにバンドの行く末を案じていた。というのもクリスチャンの世界では、ロックンロールで成功して富と名声を手にすることは、神の教えに反することとされており、それどころか自分の好きなことを諦めることが美徳とされ、そのせいでキャリアを断念さぜるを得なくなったミュージシャンが多数いたからである。また70年代後半、私生活のゴタゴタに疲れ果て、キリスト教に嵌ったボブ・ディランが『Slow Train Coming』『Saved』『Shot Of Love』と立て続けにキリスト教色の強い作品を発表し、ライヴが宗教集会のような雰囲気に包まれるに及び、人気が急降下していったことも念頭にあったかもしれない。
「U2もそうならないとは限らない」――アダムはそんな懸念を抱いていたのだ。
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