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7月の雑記/川島小鳥と谷川俊太郎

とある日。手続きに必要な健康診断を受けた帰り、代官山の蔦屋書店に寄ってみた。谷川俊太郎と川島小鳥さんの写真詩集「おやすみ神たち」の展示が見たかったのだ。

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睡眠不足が祟って、ノーメイクのちょぼちょぼした顔で新宿へ。喉がとても乾いた。あんまちょこちょこ買い物したくないけど、買いたい時に買えるっての、結構これが幸せなんだよなあ。山手線の自販機で、水ゼリーなるものを買ってみる。人混みで干からびた体に染み渡る、ちゅるっとしたゼリーの食感とラムネの爽やかさ。こりゃうまい!健康診断では尿検査もしなきゃで、ちゃんと体の外に出ますようにって思いながら飲んだ。(後記、全然出なかった。)

健康診断もすぐ終わり、課金して当日に結果が出るようにしたので、保険の効かない診断代を支払って外に出る。エレベーターで他の人のためにドアを開けとくとか、先どうぞ〜ってやるとか、そういうとこでちょこまかと徳を積もうとする。巡り巡れば利己的な優しさだな、とか思いつつ。

新宿の人の流れは、なんだか強制的だと感じる。同じような歩調で、同じような気だるげな顔で歩いていく。ビジネスパーソン、地雷系、外国人観光客。他の人から見て、私はどんなカテゴライズをされるんだろう、とか。

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山手線で渋谷に行って、その後東横線で代官山へ。一駅分の乗車中に3時間分のうたた寝をした。駅を出たらびっくりするほどの大雨。さっきポッドキャストで、テキサスで大規模なハリケーンが来て停電が続いてるっていうニュースを思い出した。1ヶ月前に会った昔の幼稚園の先生は、その辺りに住んでいるはずだ。大丈夫だろうか。こういう突然降って突然止む大雨は、昔から結構すきだ。なんか貴賤・性別・年齢関わらず、みんな同じように立ち尽くしてる感じがいい。スマホの天気予報を見てみたら、あと20分は止みそうにない。しょうがない、歩くか。そう決めて、ラップトップの入ったトートバッグにヘッドフォンを入れ、チャックを固く閉じた。代官山のおしゃれな洋服屋さんの雨よけから雨よけへ、まるで忍者のようにジグザグ進んでいった。時々通り過ぎるマダムから刺すような視線を感じる。ふむ、と思いながらお母ちゃんのお下がりの赤いワンピースについた雨粒をちょっと払った。さっきの健康診断の結果を思い出す。視力検査の時の、正解を言わなきゃって思ってよく見えなくても「下!」とか言っちゃうあの感じ。小学生の頃から視力がすこぶる悪かった自分は、健康手帳に「要再検査」と書かれるのが怖くて、できるだけ結果がよく出るように必死こいてた。あと、留学前からしっかり体重増えてたな。じゃあ戻そう、ってそんな単純なものじゃないんだよな。どんな変化であっても、自分が必死に生きてきた証なんだと思いたい。体が重いのはつらいしメンタルが安定するから、コンスタントに運動しようとは思うけど、それは痩せるため、なんていう他者/社会軸には落とし込みたくない。

5分くらい歩いて、蔦屋書店が見えてくる。雨がポツポツ、頭や肩を濡らしていく。その時思った。「メイクしてなくてよかったな」。だから雨の中でも歩いていいかなと思えたんだ。装うこと、何かを所有することは、同時に反作用を内包する。装いが崩れないように行動を制限しようとか、所有物を失わないように疑心暗鬼になるとか。地元のアッパーミドルの人たちの高慢さというかよそよそしさ、近寄りがたさはここから来てるんじゃないかと思った。モノや安定を持つと、それを保持するために多くの場合保守的になり、警戒心が強くなる。アメリカ留学中、本当に優しかったのは、全く裕福じゃない移民二世の子たちだった。

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蔦屋書店は、作業しに来た人たちでいっぱい。涼しい顔して席取り合戦している。展示は別の館だと教えてもらって、2号館に行ってみる。階段の前の小さな壁に、川島小鳥さんの台湾での写真たちと、それに呼応して紡がれた谷川俊太郎さんのことばが並べれていた。

私が好きな詩は、「タマシヒ」(下に引用)。川島さんのインスタグラムに載っていたこの詩に、私はそれこそたましいが引っ張られるように展示を見にいくことに決めた。こうして打ってみたら、谷川さんの表記選び(漢字にするか、ひらがなにするか、はたまた漢字にするか)はすごく意図的なんだと感じた。スムーズじゃないところに、彼のいう「ずらし」が効いてくる。そういえば、昨日めちゃくちゃ美味しくできたたまねぎスープ。…タマネギスープ…玉葱スープ……。うーむ、どれがしっくりくるかな。読んだときに、どんな印象を与えるんだろう。たまねぎっていうと、子ども用のキッチンセットの中にある、あのマジクテープでくっついててサクッときれる木製の野菜の延長線上にある気がする。タマネギっていうと、なんか水の量を計量カップで測ってそう。玉葱っていうと、栗原はるみさんのおしゃれレシピ本に載ってそう。

思考はずらしずらされながら、両手に抱えきれないくらいの、丁寧に選ばれた言葉たちを目で追っていく。同じ詩を見つめる知らない人との、小さなシンパシーが心地よかった。谷川俊太郎さんの詩は、私をクッと優しいルアーで吊り上げて、水の中から掬い上げてくれる気がする。そうして気づいたらなんだか救われているのだ。そんなことを思いながら、この詩を感じてみる。

タマシヒは怖くない
怖がる心より深いところに
タマシヒはいる

タマシヒとは静かだ
はしゃぐ体より深いところに
タマシヒはいる

ヒトが目を通して
タマシヒで見つめると
色んなものが
ふだんとは違って見えてくる

ヒトが耳を通して
タマシヒで聞こうとすると
雑音の中から
澄んだ声が聞こえてくる

「おやすみ神たち」谷川俊太郎 詩 川島小鳥 写真

うまく言えないけど、ああ、これでいいんだな、って思った。どんな変化も、かなしみも喜びも、くるべきときにくるんだと。そういう悟りモーメント。ちょっと最近心満たされ乱されてたからな。ふと自分に立ち帰る時が必要だったんだろう。そう思えるのも、詩はこころをやわくするから。そうじゃなきゃ、この丁寧で美しい言葉たちを感じることなんてできない。だからきっと、胸の奥底にしまっておいた大事な人や思い出、そして深い傷が浮かび上がってくるんだろう。

そして、自分のえがく言葉を、より一層大事にしようと思った。なんかね、谷川俊太郎さんの書く言葉を読んでいると、頭に優しい音で再生されるんだけど、それが心の中の波を形作って、小さな、でも広い海をぷかぷか浮かぶような心地になる。読む人の心の波を作ること。それってものすごい影響なんじゃないかなって思った。もちろん谷川さんみたいにたくさんの人に読まれるなんて思ってないけど、自分の接する人に影響しうる自分の言葉は、せっかくならしなやかな波のようでありたい。だからって言って自分を押し込めたりはしないけど、それでも、全ての言葉の意図は本物で豊かな感情でありたい。

自省と諦念を帯びた時間をひとまず終えてふ〜っと一息つきつつ、時々ものすごく欲しくなるフラペチーノを飲んで席についた。そう、涼しい顔して関取合戦に参加したのだ。大学に提出する留学の報告書なるものを書きながら、レジの前の人の波をチラチラと見ていた。外国人観光客の人たちが、数十分おきにやってくる。レジから席に戻る垂直の動線と、出口に向かう水平の動線。この垂直の人の流れが見えていないかのように、水平の流れは前の人を追っていく。まるで、違う世界を生きているかのようだった。それを見て思い出したのは、「パーフェクト・デイズ」の平山さんのこの台詞。

この世界にはたくさんの世界がある。 つながっているようでつながっていない世界がある。

「パーフェクト・デイズ」より

この代官山蔦屋書店に集まった人たちも、似たような世界の人に見えて、実はものすごく多様な世界が交差しているのかもしれない。そんなことを考えいると、わたしはこれからどんな世界の人に出会い、共鳴し、時間や感情を共有し、離れ、また巡り合い、そしてまだ見ぬ自分になっていくのか、ものすごく圧倒されるような心地になるのだ。

近所の公園の遊具の下に自分だけの秘密基地を作り、次の日にはスペイン広場を闊歩する。鳥と空を飛んで「日本なんてちっちぇ!」と思いながら、いるかと日本海を渡って「いや割と日本広かったわ」と痛感する。「こんなとこ出てってやる!」とどこか遠くを目指しては、家が恋しいと涙を流す。

自分が自分である限り、自分なんてわからないんだろうし、人のことなんてもっとわからない。わからないということは、わかってる。ソクラテスの「無知の知」だろうか。最近五島で会った友達が、これをもとに「むちのち」という会社を作ったと聞いたんだけど、これも、あえてひらがなにすることによる意味のずらしだな、とふと気づいた。

さあ、お腹がえぐすいたので、ここらへんでドロンしようか。もう一回写真と詩の展示を見ていこう。今日は何を作ろうかな。落ち込みがちだけど、結構楽しい最近。ふと見上げたら、本棚の隙間の壁がいい色してることに気づいた。

7月11日 代官山蔦屋書店のカフェ席にて


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