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言語から見た物理オリンピック 

7月の9日から17日にかけて行われた、第53回国際物理オリンピック日本大会。およそ80か国の国から約300人の物理の天才高校生たちが集い、物理の理論試験と実験試験に取り組む。試験の難易度は実に大学院入試以上と言われる。同じく東京で行われた数学オリンピックの物理版だ。

この大会には、英語や物理に馴染みのあるいくつかの大学(ICU、上智、外大、東京理科大など)から学生バイトサポーターが集まった。書道や抹茶などの文化体験を実施したり、国それぞれについて観光を案内したりする。

私もこのバイトに参加し、キルギスの担当として、日々のアテンドをしたり、鎌倉や筑波の観光に同伴したりな1週間を過ごした。そこで感じたいくつかのことを、言語とジェンダーの視点から残しておこうと思う。今回は言語について。

「英語」のスタンダードさと限界

日本で行われる国際大会、案内はほぼ全て英語で書かれる。大会に際して、出場者は日本語を使う機会はほとんどない。日本にいてさえである。世界の日本語話者の比率を見たらそんなの当たり前なんだけど、日本語を一切覚えようとすることなく1週間を過ごせることって、なんだか浮世離れしている気がする。挨拶程度の日本語を覚えようとするのは、一部の日本文化に興味のある高校生だけだった。大会本部の日本人たちがするステージ上での挨拶も全て英語。でも、ロシア語や中国語圏、スペイン語圏など、英語圏から来ていない高校生も多い。とりあえず通じる最大公約数が、英語なのだろう。

一つ面白いなと思ったことは、物理オリンピックの問題は、最初に作成された後、出場者に同伴する大人のリーダーズたちによって、各国の言語に翻訳されるということだ。てっきり問題も英語で解くのだと思っていたら、それは違うみたい。開会式が終わった日、問題の協議と翻訳の作業は夜を徹して行われる。それらが試験日当日に生徒に配られ、個人戦で順位が決まる。

試験に関しては、英語圏以外の生徒もハンデなく解けるように、このように決まっているのだろう。

言語を話せるってどういうことだろう

私がアテンドを担当したキルギスは中央アジアの国で、ここからきた選手たちは、言われなければ日本人にも見えるような、モンゴル系の顔をしていた。彼らはキルギス後、ロシア語、トルコ語を喋る。学校によっては英語を使って勉強する程度のようで、英語のコミュニケーションはそこまでスムーズではなかった。それでも私はキルギス語やロシア語を喋れないので、英語で意思疎通するしかない。その試みの中で、私は「英語を話せる」ということの解釈がガラッと変わった。

日本の学校で文法や英会話の授業を受けてきた自分にとって、英語で喋る相手は英語ネイティブか、英語圏で生活したことのある人たちだった。だから自分の方が英語の言い回しや語彙が豊富であることはほとんどなかったし、自分が(英語力不足で)相手の言ってることがわからないことはあっても、その逆はかなりレアだった。

でも今回は、いつもはスムーズに伝わる英語を話しても、相手が首を傾げたり聞き返してきたりすることがあった。そりゃそうだ、彼らは日常で使わんのやもん。それからは、より正確にスムーズに情報や感情を伝えられるように、自分が英語を授業で学んでいた頃に理解していた語彙や、よりベーシックな言い回しを心がけた。発音も、自分が憧れていたネイティブっぽい勢いや流れを捨て、彼らの母語の発音に近づけた。(例えばaの発音ひとつで伝わるかどうかがかなり変わってくるのだ。)

そのうち、「英語力」って言葉自体をなんだか疑問に思いはじめた。英語が学校で大きな比率を占める勉強教科である限り、喋れることや読めることがよりよしとされる。このことは、学校を離れたとしても、英語に日常的に触れてきた人と、今まで英語に触れる機会がなかった人に気づかぬうちに序列をつけることになる。これは今思うと結構偏ってるなと思うんだけど、高校を卒業してICUに入学した時、周りにたくさんいた帰国子女の同級生を見て、彼らは「英語が喋れる=(英語以外の教科でも)とても頭がいい」とか、なんなら「(勉強がとてもよくできるのだろうという理由から)人格的に優れている」とさえ感じていたのだ。日本の高校では英語が喋れるということは学校の成績がいいということだったから、そう感じてしまうのも半分しょうがない気もする。でもこの考えは、英語以外の言語の重要性を下げてしまうし、限られた要素で人を判断してしまう、非常に貧しいものの見方だったなと思う

キルギスの高校生とのコミュニケーションの話に戻ろう。この大会を通して得た新たな「言語を話せる」ことの解釈は、スムーズに発話できるとか発音がいいとかではなく、話す相手に合わせて言葉や伝え方を選んで話せること、である。いくら発音がよくても流暢でも、伝わらなければ意味がない。コミュニケーションにおい、言語はツールである。

そうは言っても、伝えるために様々な工夫をしないといけないことは少し疲れることでもあり、大会を通して仲良くなったアメリカ代表の子(英語ネイティブ)と話している時は、いつも通りの英語がスムーズに通じることが嬉しくて安心したりもした。キルギスの子たちと話している時間、アメリカから来ている子と話している時間、それぞれ違う楽しさがあったように感じる。

英語以外の言語の豊かさへの気づき

キルギスの担当を希望したのは、今まで触れてこなかった国の人と知り合いたいという理由からだった。8月からアメリカに留学する自分にとって、アメリカを志願しても良かったし、英語圏に志願して英語の練習がわりに勤務しても良かったんだけど、こういう機会じゃないと出会えない文化圏に自分をさらしたかった。この試みは、予想以上の結果を生んだ。

キルギスについて知っていたのは、中央アジアにある旧ソ連国家で、自然が豊かで山が多いということ。しかし、生徒や引率のリーダーと話しているうちに、彼らは日本の文化(アニメや歌)を意外とよく知っていて、家族を大事にし、言語が驚くほど豊かであることに気付かざるを得なかった。

例えば、夕食のために食堂に並んでいた時、ひとりのキルギス人生徒が「〇〇を知ってる?」と聞いてきて、「え、もう一回言って?」と聞き返したら、「藤井風とか竹内まりあ知ってる?」と言うのだ。竹内まりあなんて、最近シティポップブームが来ているとはいえ私たちの親世代である。ひとりは日本のヒップホップアーティストのNujabesを教えてくれて、聴いてみたらめちゃよくて、私自身の音楽のテイストの幅が広がった。まーじでびっくりした。
アニメなんて、私も知らなかった2004年の作品「サムライチャンプルー」や、ジブリのちょいマイナー作品まで、驚くほど通暁していた。(とある日渋谷のアニメイトに連れて行ったら、彼らは目を輝かせて楽しんでいた。)

家族を大事にするという点については、時間をかけて家族全員分のお土産を選んでいる姿からや、夏休みは親戚をたずねて田舎に行く習慣があること、そこで一日8時間くらい彼らの手伝いをすることなどを教えてくれたことから感じた。そして、キルギス語には「さようなら」という語彙はなく、代わりに、"Stay well/healthy"のような相手の健康を祈る言葉をかけるらしい。彼らとの別れの時、この言葉を教えてもらって涙が出そうになった。(しかしキルギス語のその言葉自体は忘れてしまった。あちゃー)

悔しいのは、私が日々お世話になっているDeepL翻訳機にはキルギス語がない。くれたメッセージをコピペしてみても、ロシア語と検知されてうまく翻訳されない。いやカタカナになってもわからんけん、ってツッコミたくなる。

万能に見えるDeepLの限界か
彼らの名前や言葉を必死に学ぼうとした軌跡。今読んでも意味わからんとこがある

最後に、私のお気に入りのキルギス語を残しておこう。それは観光の日、江ノ島水族館のカピバラがいるところで聞いた。小屋の中でぐでーっと眠るカピバラに、180cmもある大柄なキルギス少年が"トゥル トゥル!"と言うのである。さすがに可愛くて聞き返したら、「起きて!」と言う意味らしい。この響き、ユニークでとてもチャーミングだった。

日本での「外国人」のイメージは、もっと多様になるべきだと思う。特にアジア圏の外国人の扱いがよくわからない人が多いように感じる。いまだに残る「外国人=(英語圏の)白人」というステレオタイプは西洋以外の文化を軽んじてしまうし、それ以外の文化や言語にも心を開いていることは、新たな豊さを知るチャンスにもなるのだと思う。私自身この機会を通してハッと気づいた点だ。快適さを超えて理解しようとするところに豊さは宿るのだろうなと思うし、同時にその余裕がある時って限られてしまうのも現実なのだろうなと思う

新たな名前

最終日、仲良くなったキルギス人の子に、私の名前「さり」はキルギス語で"Сари"と書くと教えてもらった。初めて見る字面、でも不思議としっくり来る。新たな名前を与えられた気持ちになった。

遠くアジアの向こう側、キルギス語の豊さに少しだけ触れた、そんな素敵な1週間だった。

2023年7月19日 Сари

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