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凡庸さを引き受けることの難しさ(「小山田圭吾の『いじめ』はいかにつくられたか」を読んで)

本書を手に取った理由

小山田圭吾氏の音楽に、私自身、今現在も取り立てて関心はない。高校の頃、同級生がコーネリアス(彼のソロプロジェクト)を熱狂的に追いかけていたことだけ、記憶にある

ただ、彼が受けてきた音楽的評価、東京五輪にまつわる出来事、そして、エコーチェンバーが生む効果と、その膜を超える拡散(≒炎上)について、とても気になっていたので読んだ。


私なりの論旨まとめ

私なりに論旨をまとめると、以下のようになる。

・初出のインタビュー(ROCKIN'ON JAPAN)で、「軟弱」に見える小山田氏をロック界に認めさせるための「装置」として、かなりの誇張と敢えて事実誤認を生むようなセンセーショナルな書き方がなされた。編集者は、彼がしていないこと、違う時に起こったことを重ねるような書き方で、いじめが「武勇伝」として語られる

・本人はそこでの「ひどいいじめをしたいじめっ子」という描かれ方を、雑誌発売直後から気にしていて、どうにか訂正したいと思っていた

・そこで第二の雑誌(Quick Japan)で「いじめ紀行」という体裁の取材に応じることで、訂正と軟着陸を図ろうとした

・第二雑誌のインタビュアーは、第一の雑誌の路線を広げる想定だったため、氏の試みは失敗し、悪い印象が増幅される

・この二誌からのコピペがネット掲示板で繰り返し語られる

・ブログに、ネット掲示板の誤字そのまま、さらに切り取る形で転載される

・東京オリンピック・パラリンピックの開会式の音楽スタッフに就任したという段階で、そのブログを見た人がツイートで拡散

・全国紙の一つ(毎日新聞)が取り上げる

・本人が、事実誤認の部分を訂正しつつ、積極的にではないにせよ、いじめに「加担」していたことを謝罪

・これをもって、他のメディアも事象を掲載

・事態を重く見た関係者が、開会式担当から氏を解任

ズレと誇張、増幅と拡散


詳細は本書をお読みいただきたいのだが、こうやって起きた少しずつのズレや誇張が、切り取られ、増幅していく様子や、そこに軽い気持ちで加担してしまうことの怖さを感じた。

また、氏自身が最初のインタビューで、それがたとえ誇張だとしても、自分がひどいいじめに加担したかのように捉えられる言い方をしたこと、話さなくてもいいはずの、周りで起きていた(一部は関わっていた)いじめの話を持ち出して、「周りから舐められないように虚勢を張ろうと『ワル』な自分を持ち出したこと(ここの解釈は私見)」が、全ての始まりだったのだと感じた。

表現活動と「物語」


絵画にせよ歌にせよダンスにせよ、何かの表現活動に対して、表現そのものの価値のみで世の中に「見つけてもらう」ことは難しい。そこで、評価の土俵に上がるために、その個性的な人となりや、付随する「物語」を広く伝えることがプロモーションとして多く行われる。

元来が個性的な人は、周りがその個性を発見してくれるが、表現活動は素晴らしくても、その人間としてはあまり個性がない場合、どうするか。

手っ取り早いのは、「物語」を作り出すこと、もしくは経験を「盛る」ことだ。もしこれらが発覚して糾弾されれば、仮に表現活動の成果にはなんの濁りもなく、素晴らしいものであったとしても、もろともに評価の場から追放されることになるという、諸刃の剣だ。

これまでにもそういう「物語」は量産されてきた。中途失聴の作曲家として有名になったS氏は、その「物語」にも、表現活動の結果(別人が作曲したものがあった)にも「嘘」があった(混じっていた)ということで騒動になったし、再生医療に大きく寄与するとされた細胞の研究者だったO氏は、割烹着姿での研究生活やリケジョとしての「物語」が大きく取り上げられることで注目を浴びたが、研究成果そのものへの疑義が取り沙汰され、評価を剥奪された。

この書籍によれば、大まかに言えば、①小山田氏が言わなくていいことまで喋ったり、少し自分を「盛った」、②それをある意味の個性として誇張し露悪的に媒体に載せた、③読者がその文脈と切り離し、部分的に切り取って拡散した、④切り取りが拡散したことで、本人へのバッシングが行われた、という流れが今回の不幸だった、ということになるだろう。

凡庸さを引き受ける覚悟


だからこそ表現に携わる者は、いかに自分というものをそのまま引き受けて、安易な「物語」に頼らず、表現活動のみで「見つかる」ことができるか、その胆力を試されることになる。それは多くの場合で、とてつもない時間がかかるし、最悪は見つけてもらえないことにすら腹を括る(それで生活していけないことすら飲み込む)ことを意味する。それが生きていく上でとても困難であることは、今の時代も、数十年前も変わらない。

この書籍は、小山田氏への直接取材を排して、テクストと事象の積み上げで仮説を示しているので、描かれたことや推察が果たして「事実」なのかは、読者の判断に委ねられることになる。読者は同時に、この件のみならず、安易な「物語」に検証なく飛びつき、拡散することの恐ろしさを、改めて知ることになる。

私がこの書籍を読んで心に刻んだことは、「凡庸さを引き受ける覚悟」と、「『物語』を表層的に信じ込まないこと」だ。

卑近な話になるが、私自身、アマチュアとして音楽活動をしている。努力をし続けても、表現結果は目指すレベルに対して納得いくものではないし、私自身に強烈な個性があるわけでもないため、地味で地道な活動を続けている。

本音を言えば、仕事をしながら、プロに混じって活動していることに誇りを持っているし、生来目立ちたがりなので、もう少し注目を集めたらもっと楽しいのかもしれないと思うことはある。でもだからといって、そこでこれまでの経験を誇張したり、「物語」を創作したりして、個性がなく技術も劣る自分を大きく見せようとしてはいけないのだ、と改めて心に刻んだ。地道に、活動を続けていくことが、自分を守り、生かすことになる。

また、Twitterなどでよく拡散されている様々な形の「物語」について、気軽に「いいね」を押すことの怖さも想像できた。真偽の定かでないものに過度に熱狂したり、安易に拡散したりということは、自分の思慮の及ばぬ被害を生むことにつながりかねない。自分のリテラシーを磨き、慎重であるべきだと足元を見つめ直した。

終わりに


長々と綴ってきたが、私の読み方は筆者の意図した本書の趣旨を正しく受け取っていない可能性もあるし、私なりの思いや帰結に止まることでもある。あくまでも、私の読書感想文として、お許し願いたい。

長い感想になってしまい恐縮だが、自分の備忘録としても書いておきたかった。それぐらい、色々考えさせられる書籍だった。

最後までのご高覧への心からの感謝と、筆者片岡大右氏への敬意を表したい。

書籍情報

小山田圭吾の「いじめ」はいかにしてつくられたか
現代の災い「インフォデミック」を考える

片岡大右著 集英社新書

2023年2月17日発売

1,078円(税込)

272ページ
(書籍情報は集英社サイトより転載)

追記

著者片岡さんや、本書に協力されたIfYouAreHere委員会のkobeniさんらがご紹介くださり、全く想定していなかった多くの方に読んでいただき、本当に嬉しく思います。

そして、3月26日の出版記念シンポジウムをオンラインで視聴し、これは一度コーネリアスの音楽を聴いてみたい、と思ってきました。

冒頭に「関心がない」と書きましたが、気持ちは変化しますよね。サブスクで、みなさまおすすめの「ファンタズマ」が聴けることがわかったので、追って聴いてみたいと思います。




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