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一つ知り、一つ出会い

ファンという生態


一つ前の投稿(最下部にリンク)の冒頭で、「小山田圭吾氏の音楽に、私自身、今現在も取り立てて関心はない」と書いたが、その後、感想を書いた本に関するシンポジウムをオンラインで聴き、シンポにまつわるTwitterのTLを眺めるうちに、また改めてこの本を振り返るうちに、気持ちが変わってきた。

「彼」や「彼の音楽」そのものへの興味というより、「その魅力を語る方々」に興味を惹かれたというのが正しいかもしれない。

一般的に何かのファンである、推しがいるという生態は、ひとたびその魅力を語り始めると、周りが見えなくなるほど語りすぎてしまうことがある。私なぞは気が多いので、俳優、男女アイドル、ロックバンド、キャラクターと、色々な人やモノのファンであることもあり、その魅力に少しでも気づいてくれそうな人がいたらその関心の扉をさらにこじ開けたいと、全力でノックしにいってしまうことがある。そして時に「何枚もドアを叩きつぶして」しまって反省する。

過度な「推し売り」は、自分のみならず、推しそのものへのマイナスになることだと、十分にわかっているつもりだ。でも、その推しが周りに正しく理解されていないとか、不当な評価を受けていると感じる時ほど、見境なく熱く語ってしまうものだ。

知的で謙虚な「稲妻」たち

小山田氏(音楽活動時はコーネリアス)について、片岡大右氏の著書「小山田圭吾の『いじめ』はなぜつくられたか」や、先のシンポジウム、小山田氏本人の謝罪文から私が判断するに、数十年前の雑誌から悪意ある部分転載が凝縮されて拡散し、その結果不当な根拠をもとに過剰に悪辣な評価を下されてしまったというのは確かなことのように思う。(もちろん、全てが誤りやでっち上げなわけではなく、彼自身過ちを認めて謝罪している点もある)

そんな状況で、彼のファンや彼の音楽を愛する人たちから、もっと熱狂的に、感情的に、周りへの「彼の正当性アピール」があってもおかしくはない。でも、私が見た「ファンだと名乗る方々の発言」(特に、今回の本に協力し、シンポへの登壇者が参画するファン有志のあつまり #IfYouAreHere委員会 のタグをつけたもの)は、とても冷静で、的確なものが多い気がする。

彼をいたずらに信じるわけでもなく、粘り強くファクトを積み上げ、今回の「炎上」に立ち向かったり、彼が非を認めた部分を感情的に擁護することもなく知的に現象をとらえて、その上で発言している人がとても多く見える。

「なぜ世間はわかってくれないのか」と持論でグイグイ迫るわけでもなく、淡々と謙虚さを持ちながら、不当に貶められた彼の名誉回復を願い、作品の素晴らしさを語っている姿は、私には驚異的なことに見えた。特に私が近年、若い男性アイドルの一つにどっぷりハマり、そのグループや周辺のグループのファンダムやハッシュタグ付の発言に触れることが多くなったから尚更、ということもあるかもしれない。推しに何かスキャンダルが起きた時、愛の強さゆえに冷静さを失ったファンの攻撃力は、凄まじいからだ。

閑話休題、コーネリアスのファンの総称があるのか私は知らないが、稲妻(⚡️)の絵文字をアイコンとして、ハンドルネームや発言の末尾につける方をよく見かける。少し調べた限りでは、コーネリアスの「69/96」という作品の「/」が稲妻の形をしているところから来ているようだ(コーネリアスの公式アカウントもこの稲妻を使っていますよ、と片岡さんがツイートで教えてくださった)

この場では便宜上、コーネリアスファンのことを「稲妻」と表現させていただくが、この稲妻の皆様の知的さ、粘り強さ、謙虚さは紛れもなく、これまでのコーネリアスの作品たちが引き寄せた属性なのだと思う。彼の音楽を求める人たちが、彼の名誉回復を進め、彼の活動再開を勝ち取ったということだけをとっても、彼の音楽が評価に値するものであることの証左に他ならない。

ファンタズマを聴いてみた

私はこの稲妻の皆様が魅力的であるがゆえに、この方々をこれほどまでに惹きつけるコーネリアスの音楽とはどんなものだろう、と興味を持った。逆輸入というか、ちょっと不思議な入り方なのはご勘弁いただきたい。

シンポやTLでオススメが多かったアルバム「FANTASMA(ファンタズマ)」(1997年)を聴いてみたいと思った。サブスクで探すとAmazon Musicで聴けることがわかり、シンポのあと、早速聴いてみた。

そもそもの私は、コーネリアスの音楽に対し、
「難解で尖った現代音楽かな」「俺ってすごいだろ、こんなこともできちゃうんだぜ的な自己顕示欲に満ちているのでは」などという、かなり勝手なイメージを抱いていた(特に二つ目のイメージは本当に勝手で申し訳ない)

ところが聴いてみると、思いの外ポップで、すっと入ってくる。全然難しくもないし、爽やかというか晴れやかだ。

途中のCOUNT FIVE OR SIX→MONKEY→STAR FRUITS SURF RIDERの流れが特に好きで、曲の繋ぎの全部がものすごく計算されていて、それでいて自然なことにもとても驚いた。パッケージとしての心地よさを求めて、彼や周りの方々が試行錯誤しながら、コンマ秒単位で繋ぎを調整したんだろうなと思った。

終曲の最後の強めの「吐息」は、彼の遊び心が感じられて、彼自身がこのアルバムを楽しみながら作ったんだろうなと、こちらが微笑んでしまうくらいだった。

総じて、祝祭感が強く、とても明るい気持ちで聴き終えた。喩えるなら、賑やかな蚤の市をドローンで見るかの如く俯瞰したり、その中のチンドン屋さんに混じってラッパを吹きながら歩いてみたり、道で売られているなんてこともないブリキのおもちゃにマクロ的に焦点を当てていたり、といった具合に、視点や時間の移動を感じた。

最後の吐息はといえば、その蚤の市自体がスノードームにでも入っていて、それを外から眺めて楽しんだ人が、はたと我に帰った時に漏れ出たもののようにも感じた。とにかく、曲が表現する時間、空間が複層的で、楽しかった。

一回聴いた印象なので、また何回か聴いたら変わるのかもしれない。私が当初抱いていた勝手なイメージの「自己顕示欲」を感じることはなく、むしろ「こういう表現をするには何を使うのが適切なのだろう」と音楽の表現を試行錯誤した姿が見えるようで、彼の素直さやサービス精神を感じ取ったぐらいだった。

まとめのようなもの

ということで、一冊の本から、その本を取り巻く人とSNSでやり取りができ、そこから新しく音楽やミュージシャンと出会うことができた。

一つ知り、一つ出会い、またそこから次の関心や心の動きが繋がっていく。だから読書は面白い、SNSも面白い、そして音楽もまた、面白い。

蛇足

前の投稿で、「アマチュアとして音楽活動をしている」と書いたのでその補足。私のジャンルはオペラや声楽というクラシック分野です。元々大学で合唱サークルに入っていて、歌うのが好きで、30歳を過ぎてからボイトレに通い、その後バリトンの先生に師事しています。年間数ステージ、ソリストや合唱メンバーとして歌って演技しております(目下、ドイツ語、イタリア語、フランス語の歌詞の暗譜中)

ポピュラーで言うと、聴く専門(&カラオケ)で、雑食です。ファンだと言えるくらい聴いているのは、エレファントカシマシ(ロックバンド)、SixTONES(男性アイドル)、RAG FAIR(アカペラ)、キンモクセイ(ポピュラーミュージックバンド)、陣内大蔵(シンガーソングライター)、ウシャコダ(ブルースロックバンド)、BEYOOOOONDS(ハロプロの女性アイドル)、Negicco(新潟のロコドル)、サンハウス(いわゆるめんたいロック)などなど(順不同)です。雑食でしょ。

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文中に書きましたシンポジウム(3/26)は、4/10の深夜まで、アーカイブ視聴が可能とのことです。

詳細はこちら(登録すると、視聴リンクが送られてくる形式かと思います。見たい方はお早めに登録されると、余裕を持ってみられるかと思います)←老婆心


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