「言語の本質」から考える、学生であり、先生であるということ
要約
言語の本質という本がものすごく面白かった。
子供がよく使うオノマトペから始まり、高度な言語を人が学んでいくというその過程において、よくないとみなされがちな認知バイアスこそが必要なんじゃないのか?という凄まじい仮説が提示されるからだ。
論理的誤謬が発生する認知バイアスを利用する以上、間違いが発生する。この間違いを知識量で訂正を行うことで、知識として吸収していく。これはブートストラッピング・サイクルと呼ばれている。
つまり言語学習においてこそ、間違いは当然起きる。この間違いによって恐怖することがないようにしないといけない。学習環境をいかにつくるべきか?という意味で大いに参考になる。
職場や学校の環境だけでなく、可視化されてきた愛着障害といかにして向き合うか?や移民向けの言語教育はどのように行うべきか?という話にもつながる気がしてきているからだ。
それら学習環境をつくっていくことを通して、学生であり、先生であるということの意味を考えていく。
過度な一般化という認知バイアスが僕らを夢見させ、学ばせる
僕らは常日頃、過度な一般化をする。そうすることで、夢を見る。
つまり、こういうことだ。
トム・クルーズは、僕と同じ人間だ。
同じ人間だから、僕はトム・クルーズのようになれる。
こうした過度な一般化の論理誤謬、認知バイアスを、対称性推論と呼ぶらしい。
夢をみるだけでなく、高度な言語を人が学んでいくというその過程においてこそ、こうした過度な一般化の認知バイアスが必要ではないかと、「言語の本質」では書かれている。
当然だが、僕はトム・クルーズのように訓練をしていないし、普段の仕事はITエンジニアでありプログラマーだ。
だから航空機を操縦できるわけでもないし、ビルからビルに飛び移れるわけでもないし、プロデューサーとして映画をつくれるほどのお金やコネクションを持ってるわけでもない。
そうであったとしても、戦闘機パイロット、マーヴェリックやIMFのスパイ、イーサン、ハリウッドの伝説のスター、トム・クルーズに憧れることで、人は彼のようになろうと目指すのだ。
僕も、トム・クルーズみたいになんでもできる人になりたいし、素敵なフィクションのプロジェクトのプロデューサーになりたい。
なぜなら、ITエンジニアである僕はSF作家にも至ろうとしているからだ。そして、この星の素敵な作品たちをみんなにもっとたのしんでもらいたくてこうして記事を書くところから始めている。
だから僕はトム・クルーズみたいに学び続けられる人になりたいし、かつて僕が憧れた同い年の先生のようになりたい。僕自身もまた、あまねく奇跡の始発点になりたいのだ。
二十代後半にさしかかって、そんな願いを抱くに至った。
では、僕はどうすればいいんだろう?
大人は一日にしてならず、対称性推論という認知バイアスと向き合うということ
ローマは一日にしてならず。同じようにトム・クルーズも一日にしてならず。大人もそんな感じだ。学習は永遠に続く。終わりなどない。
言い間違いというやつがある。これは幼少期に多い傾向があるとされるが、大人の世界においてもこの言い間違いなんか日常茶飯事となっている。
特にITとかいうカタコト英語が溢れる空間で、言い間違いをしないものを見つけられない。GitといおうとしてGitHubという人もいるし、JavaScriptと言おうとしてJavaという人もいる。
問題は、こうした言い間違いは相手がバカだと評していいのか?ということだ。また反対に、これを言い間違いしなければバカではない、と品評会をしていいことになるのだろうか?
この言い間違いの問題の答えは、そもそもの前提が間違っている。人を品評するのは教育環境上、望ましくない。詳細は後述する。
それだけでなく、我々は学ぶ時点で、対称性推論という認知バイアスを利用しなければならないため、品評の価値がない。
このため、間違いを当然のものとして受け入れ、誤り訂正を行うことを前提に、人は人と向き合わなければならない。この間違いを知識量で訂正を行うことで、知識として吸収していく。先生たちのようになっていく。
これがブートストラッピング・サイクルと呼ばれる想定である。
これは学習を続けるものにとってありがたいことである。間違うことを恐れる必要はないからだ。
基本的に間違って覚えるものなんだから、自分なりに納得いくところまで、つまり人間で言うところの腑に落ちるところまで、間違って覚えていけばいい。人間による記号接地問題の解決、ともいえるだろうか。
知識を量的に補填することで、誤りは訂正され、知識としてモデル化されて強固になっていく。
これは小説を描く時とか、プログラムを描く時とか、こうしたnoteで記事を描く時とかもそうだ。一作ごとに学んでいくことが大事だとよく言われる。
僕自身も、小説を各話、三幕構成における各幕をつくりながら、作品の作り方を学んでいる。同時に他の人の作品を読んで学び、noteにおける感想として記事を書いている。
小説と感想記事はそれぞれ違った形で自分と向き合うことができる。特に認知バイアスに気づくのにもってこいだし、話の組み立て方も常に学び続けることができる。
特に、リスクのない場所で間違うことをためらわないようになってから、かなり効率的に作品のことを理解し、書けるようになってきたように思う。
それだけじゃなくて、相手の言ってる言葉をちゃんと受け止められるようになってきた。思考停止したり、他のことで現を抜かすことが大幅に減って、集中し続けられるようになった。
間違ってるのに学んでいける。不思議なことだ。
ブートストラッピング・サイクルから考える教育環境
ブートストラッピング・サイクルを考えると、基本的に間違ってしまうものだという前提に基づいて教育環境をつくらなければならない。
専門的な教育領域である医療やITへとシフトしながら考えてみる。
医療の教育環境
学ぶために間違った時のリスクを負わねばならない、というのは非常にストレスのある状況だ。人間への医療行為はその代表格だろう。医師による手術は、生命に関わるゆえに最も慎重に行わなければならない。
だから医師になるためには医師免許が必要で、それを得るためには病院での研究医としての臨床の時間、それ以前に医大で単位を取得することや、医大に合格するところまで果たさねばならないようになっていると、素人の僕は思う。
これら全部が、教育環境といえる。複数の機関を駆使することで、ブートストラッピング・サイクルを形成しようとしているのだと思う。この機構を作り上げた先人たちのおかげで、安定した日本の医療は作られているのだと思う。
ITエンジニアの教育環境
一方で、ITにおいてはこうした医師免許に相当するものはない。あってもIPAによる資格ぐらいなもので、僕自身は資格もいっさい持っておらず、高専で得た情報工学系の準学士を名乗っていいと言われてる程度しか公的なものがない。
とはいえ、昨今のITシステムにおいてもオペミスが許されない。
そのうえ、ITシステムは生物で例えるならゾウからハムスターまで多種多様なものがつくられており、前例を使うということが医師の世界以上に難しい。ゆえに医師免許を前提とするような教育環境をつくることができない。
そこで、ITシステムでは本番環境だけでなく、ステージング環境、検証環境、テスト環境、開発環境とさまざまな環境をつくる手法が一般的に行われている。区分けされた実験環境だ。
ほとんど同一のシステムをさまざまな場所でつくり、そこでオペを行うことで、間違ったときの実質的なリスクを低減したり、なくしたりできる。特に開発環境においては勇気をもって間違ったことができる。実験にはもってこいだ。
またITシステムは、記述した内容を巻き戻したりするプログラムコードのバージョン管理システムGitがあったり、いかなる環境でも同一のソフトウェア群を低リスクで確保できるDockerがあったりすることで、開発環境においても元に戻すことができるようになっている。
これらはすごい発明で、僕はこの2つのおかげでかなりITシステムのソフトウェアの部分を書き直しまくり、学ぶことができた。間違ったとしても動かなくなるだけで、動く環境に戻すことはこれまでよりずっと容易くなっている。
教育環境でどう統制を敷き直し続け、恐怖や功利というサブシステムを取り除き続けるか?
医療とITも似たり寄ったりな部分があるわけだが、とにかく意識されているのはストレスがかからないように配慮した形で教育環境を形作ろうとしているところにある。
上記は技術的な世界においては当然のように行われているわけだが、それでも恐怖や功利というストレスがかかるものが残りやすい。それは研修や学校という最も安全を意識されているはずの教育環境において一般的だ。
簡単に言えば、統制崩壊だ。
学校における、睡眠学習が当然となったすべての講義、公立の学校で繰り返される学級崩壊、学習よりも就職が当然のように学校内で優先される現状は、統制が崩壊したわかりやすい結果だ。
これらの崩壊と功利的な認識は、不完全な組織の統制における個人の誤った防御反応と僕は考えている。
ブートストラッピング・サイクルにおいて、品評会を筆頭とする功利的な認識の蔓延は真っ先に避けなければならない。
なぜなら、基本的に間違ってしまうものだという前提に基づかない判断が優先され、誤りを訂正する機会を完全に喪失させるからだ。
このため基本的に間違ってしまうものだという前提に基づいた統制を再確立することが求められる。
暴言や暴行を行ったりそれを教唆したり幇助した学生を即時隔離するのも必要な行為だし、同じようなことをした先生も等しく隔離されなければならない。
品評を行い、人に優劣をつけて差別を行う行為に対し、その意図を徹底的にくじき、諦めさせなければならない。そうしないと、のびのびと学ぶということが成立しないのだ。
実際、僕自身もいまの会社においてはかなり厳しく統制をつくりつづけていく方針を選び、教育プログラムのなかに組み込み、あるいは不文律として多くの人に協力してもらっている。
もともと会社自体がかなり統制されているおかげもあって、いまは学んだり教えたりするさいに困らない状態になっている。
教育の統制をしいた僕の過去の挫折
そんなふうにいまは会社で統制を敷けるように発案し、たくさんの人の協力のもとで実施しているものの、僕は一度致命的な挫折を経験している。
それが、重度のアトピー性皮膚炎を患い、治療の方法を見出せないがためにスピリチュアルな出資ばかりしてしまっていた、反病院な傾向を持ってしまった元彼女だった。僕は自分を守るために4年の同棲を解消し、逃げてしまった。
ここまでの教育や組織犯罪、医療や政治に関する独学への傾倒は、彼女がなぜああなってしまったのか?ああさせないために僕にできたことはなかったのか?を追い求めていた側面もある。
彼女の傾向として真っ先にわかったのは、人を信頼できなくなりつつある、ということだった。
自分を救ってくれない病院や政治。
自分の仕事のことをわかってくれない上司や職場。
自分のことをわかってくれない僕や彼女の両親。
そうしたすべてから逃げるために彼女が選んだものは、残念ながら悲惨なものだった。彼女は自立していくのではなく、孤立していった。
エビデンスが確立されていない民間療法や怪しい電磁ノイズ商法。
休職後から変わることのなく、上司や職場と向き合わない、週休3日。
希少性の高い石と降霊を行うスピリチュアル商法でのつながり。
不完全な組織の統制における個人の誤った防御反応を、かつて僕は止めることができなかったのだ。
アトピー性皮膚炎は原因がわからず、再発しやすい症状だ。なので治療は根気が必要なだけでなく、病院の人との信頼をいかにしてつくりあげていくのか?を本気でやらねばならない。
しかし彼女は真っ先にこれを拒否した。理由としては、いくつもの病院をまわったが薬を出すだけでまったく自分をみてくれない、といったことだった。そのときの僕はただなだめるしかできなかった。
ブートストラッピング・サイクルにおける変動しないループ症状が愛着障害?
いまになって考えれば、彼女はまさしくブートストラッピング・サイクルが失敗し、ループする状態に突入していた。彼女のさまざまな行動は孤立を促した。知識量は増えるどころか、孤立によって狭窄され、ほとんど増えることはなくなった。
ブートストラッピング・サイクルという想定がうまくいく方向だけで説明されているのをみるに、ループするという症状までは語られていない。
そこで思いついたのは、彼女は人を信頼できなくなった結果、リスクの回避が不可能となり、後天的に愛着障害のような傾向に陥ったのではないか、という新しい仮説推論だった。
ブートストラッピング・サイクルとは愛着というものの形成は同じものなのではいか、という仮説推論にもなりうる。
愛着とは、次のようなものと語られている。
子どももまた、安全基地と呼ばれる恐怖に怯えない相手やその場所においてこそ、感情という最もやっかいなものとの付き合い方を、親密な保護者から学んでいく。その過程は、ブートストラッピング・サイクルという言語学習の想定の初期型ともいえる。
このサイクルが、幼少期において重要視されはするものの、大人になったそのあとでもありうるのではないかと僕は考えている。それが、うまくいけば僕のように、うまくいかないと民間療法だのみの彼女のようになるのだと思う。
社会や人を信頼できず、孤立した人間は、驚くほど脆弱な状況に追い込まれる。
特に日本においては病院は国民皆保険制度のおかげで金銭的な側面では利用の制約はほぼないが、そもそも病院を信頼できなければ無意味だ。病気を自己克服できることなど、死以外にありえなかったとこれまでの歴史は示す。
転職サイトや失業保険、生活保護も、利用しようと思い、申請しなければ無意味だ。生命に関わる致命的な問題がなければ、犯罪をしていない人を強制的に保護することは実質できない。
親しい間柄の人間がいても、助けを求められないのなら役に立つはずがない。僕たちはただ、なだめることしかできなかった。
そうして彼女のような孤立した人は、というか僕が孤立させてしまった人は、人と人との絆を結ぶ能力をまた行使できないがために苦しむ。
では彼女のように何も信じられなくなった人に、僕は何ができるのだろうか?
人を繋ぐ安全基地になるしかない?
積極的に、自分が信頼できる人になり、そして信頼できる人と繋いでいくしかないのかもしれない。これは養育者による安全基地、という考え方をより発展させたものだ。
安全基地とは、いわばその人にとって理想の養育者であるということであり、このよい安全基地になるための条件は、以下のようになるとみられる。理想的な先生を示すような傾向にある。
とはいえ、養育者も完璧なわけがない。そのため、上記条件に加えて、養育者こそが積極的に協力を要請し、人と繋がり、信頼できる人を増やしてリスクを回避できるようにしていかなければならない。
これは引っ込み思案な僕には結構つらいところがあるが、会社では奇跡的に協力してくれる人が多く、どうにかなりはじめている。これをより広範囲に適用できるようにすることで、彼女のような人を増やすことを回避できるかもしれない。
あまねく人々のために人を繋ぐ安全基地となる。そんな無茶を本気に履行しようと願い、学び続ける人こそが、人の理想と違わぬ先生なんだと思う。
また、僕が書いている作品において移民の子が戦闘機パイロットになっていく話を書いている。そのなかで、移民向けの言語教育について書こうとしている。どのように書くべきか、ものすごく悩んでいた。
「移民国家」としての日本、を読み、ここまで書いていく中で感じているのは、公的機関による参画が必要なのは確実としても、人を繋ぐ安全基地となることがなによりも重要そうな気がしている。
正直、自分がかつての彼女や移民の人たちにうまく教えられる自身はない。けれど僕は、少なくとも人を繋ぐ安全基地に、先生になりたいと思う。いまいる会社のなかから、少しずつはじめていくしかないのだろう。
結論
ブートストラッピング・サイクルと呼ばれる想定から考えるに、教育環境において間違いは当然起きる。人は間違いから学んでいく。
だからこの間違いによって恐怖することがないようにしないといけない。さもなければ、愛着障害に似た無効なブートストラッピング・サイクルが起き、学習は進まないとみられる。
学習環境をいかにつくるべきか?という意味で検討した結果、恐怖をなくすよう統制をとり、功利的な行動を阻止すること、同時に、人を繋ぐ安全基地となることが必要と見られている。
安全基地として分け隔てなく、平等に対応していくことで、
僕はようやく、トム・クルーズみたいに学び続けられる人になれると思っている。
かつて僕が憧れ、教えてくれた同い年の先生のようになれると思っている。そのなかで僕はようやく、あまねく人々の奇跡の始発点になれるのだと思っている。
そうでないと、自分の間違いすら気づけそうにないからだ。僕自身が間違いながら学び、それを訂正していくことで語彙を獲得し、みんなに還元できなければならない。
二十代後半にさしかかって、先生みたいな学生になりたいと願いを抱いた。
だから僕は頑張ってみようと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?