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罪の王冠を二度書き換え辿り着いた、友達を武器に戦うということ: ギルティクラウン感想

Twitter版感想


以下note版感想

ボンクラヲタク略してクラヲです。
この感想は、ギルティクラウン改変作品を二度作り直すことでしか、この作品に真に向き合えなかったこじらせヲタクこと私、つまり本村集、倉部贋作、臓作、改作の人生の回顧録です。

実際に作り直された作品は以下のふたつ。Pixivやハーメルンでもしかしたら気がついた方もいるかもしれません。そして膨大な文字数にドン引きしたことでしょう。

実際に、どちらもそれぞれ47万文字(文庫本4~5冊ぶん)、36万文字(文庫本3冊)で完結させた物語だからです。つまり私は、ギルティクラウンと向き合うために83万文字(文庫本7~8冊ぶん)を必要としました。そして新たに、この感想によって更に文字数を積み重ねることとなります。実に12000字以上。どうかコーヒーでもなんでも飲みながら、ゆっくりお楽しみください。

今回のギルティクラウンの感想は、このふたつの作品をつくるに至った過去を美化された記憶のなかから回想しつつ、それを感想としてしたためていくという構成となります。

結局はだらだらリーマンに至る私のこの旅を、私の苦しんできた姿を、私の見出した景色を、みなさんにどうか笑って、そして楽しんでいただければと思います。

改変のコンセプトは、いのり:真名が生きていていい世界を完成させること


両作品に共通しているコンセプトは、至極シンプルでした。
ギルティクラウンでいなくなってしまった楪いのり:桜満真名を救い上げる。アポカリプスウイルスの始祖である彼女の生きていていい世界をつくるために、壊れた世界すらも書き換える。そんな全てを果たす主人公、桜満集は、黙示録の獣:名前のない怪物を体現する、というものでした。

つまり原作ギルティクラウンを改変するにあたっては、これらの問題をどうにかしなければならないと考えていました。それが、私の原作ギルティクラウンへの感想に近いものになるのだと思います。

楪いのりと桜満真名がなぜこんなにも好きになったのか?というのが、たぶん私のこの物語に対する心境の枢機に至る部分です。側から見ていれば、「そんなにいのりと真名が好きになったのか、ボンクラマン」ってわけですが、正直この感想を書いている今なお、よくわかっていないのです。

「顔のいい女を助けるのは当然だろ」と心の中のデンジくんは答えます。まあ実際に目の前で困ってたら即刻手を差し伸べてきましたし、みなさんもそうしてきたのだと思います。

しかし、美人さんはフィクションという別世界にしろ現実にしろ、幸運にもたくさんいます。今回は特に別世界なのであって、我々にできることなどほとんどありませんし、いのりも真名もこんなボンクラヲタクを知ることも決してありません。

ただ確実に言えるのは、いのりと真名が、人と違うからと、アポカリプスウイルスの始祖のようなものなのだとしても、共に生きていくこと諦めてほしくないと思ったことです。

彼女たちはアポカリプスウイルスも相まって原作ギルティクラウンにおいてもフィジカル面では最強ですが、心の面においてはアポカリプスウイルスがもたらす災害を目の当たりにしてしまうせいもあって、不安定さを感じさせます。

けれどアポカリプスウイルスの女王だからって、怪物だからってなんだっていうのでしょうか。君は何も悪くない。君はみんなと一緒にいていい。そう誰かが言い切ってあげて、彼女たち自身の気持ちで立ち上がってほしいと、それまでは守ってあげてほしいと、私はそう願ったのです。

けれど原作ギルティクラウンにそんなコンセプトがあるわけではなかったのです。

いのりと真名は世界を否定する黙示録の獣でしかなく、アポカリプスウイルスは消え去らなければなりませんでした。仮にいのりや真名がウイルスから解放され無事だったのだとしても、その罪をどうすることもできないまま物語は終わってしまうのです。

これが、ギルティクラウン放送終了直後、何度もiPhoneのメモ帳に書いては消してを繰り返した1万文字の試行錯誤の果てに理解したことでした。彼女たちがただ助かるだけの世界など、彼女たちにとっては地獄でしかないのです。

そうして改変を諦めた人たちは、きっとPixivやハーメルンに投稿されている二次創作者よりずっと数多くいたはずです。

私もこうして、物語をつくりなおすという道を一度諦めました。

改変が実現できないがゆえの、権力の座を画力によって目指す間違った旅

しかし、歪んだ形で私は新しい道を定めました。放送当時16歳、桜満集よりひとつ下。つまり高校生一年生相当で、高専生一年生だった当時の私は、もうひとつのやりかたに固執してでも、この夢を絶やすまいとしたのです。

それが、ぎりぎり描けるようになった絵で、イラストレーターかアニメーターとなり、やがてギルティクラウンを描き直すことのできるだろう権力の座を目指すという、誤った旅です。私の間違った青春は、こうして幕を開けました。

当時の絵はいちばんよくできているものでもこんな感じで、無理やりうまく描こうとあがいていた時期でした。



クラスのなかにひとりはいただろうオタク絵が少々描けるだけでデッサンもままならない私は、ギルティクラウンをただつくりなおすという願いを果たすために絵をもっとうまくしなければならないと考えたのです。その過程で漫研を同好会としてたてたりもしていましたが、大したことはできませんでした。

私自身に表現能力がないことは当時からもよく理解していて、うまい人たちをみては絶望しながら、がむしゃらに絵を描いていました。自分の周囲との優劣以上に、ギルティクラウンの作画の遥かなる高みと比較し続けていたからです。私はつねに理想と比べ、ミジンコ未満でした。

技術的なことがほとんどわかりませんでした。影やカメラの位置のこともいまほど理解できず、描いては消してを繰り返すしかありませんでした。そもそもうまく本が読めなかったのです。だからこそ高専時代の成績は悪化を重ね、親父にどやされる暮らしは続きました。

それでも親父から美大予備校に通い、手っ取り早く学歴という権力を手に入れるプランをどうにか手にしました。

そうして美大予備校に通いだし、三年近く経過した大学一年生相当(高専四年生)の頃の絵でも、まったくうまくなれず、まぐれで出てくる絵に苦しみ続けました。


ギルクラのアニメのような絵を目指しているのに、こぎれいにできても、その真髄にたどり着けないのです。どれだけ枚数を重ねようとも、技術のない私には偶然しか導くものはありません。たまたまよかったラフ、たまたまよかった線画。たまたまよかった厚塗り。そういった奇跡を幾度も繰り返さなければならないような描き方だったのです。ソシャゲのコンプガチャのような地獄です。

私はそのとき、人生で最も精神的に苦しんでいました。

画力によって権力の座にたどり着くことは、もうできない。あまりにも眩しくて読むのをやめてしまったバクマンのような人生も進めない。だが、今更高専生としてやり直し成績を良くしたとて、待っているのは使い物にならないコンピュータに、使い物にならないUIと機能しか持たないアプリ開発か運用だけ。おとなこどもという無意識ファシストに言われたことに従うだけの、無意味で無価値な、そして身を削られるばかりの暮らし。

私は自分の生きられる場所を、高度なクリエイターたちの権力の座のなかにしか見出せていませんでした。それ以外の場所では、というか高度な技術を持つクリエイターすらも食べていくので精一杯なようにしか見えませんでした。その見識の狭さこそが、私を時に自殺寸前まで追い込み続けました。

高専の実習をサボり、美大予備校をサボり、予備校近辺、つまりお茶の水や秋葉原の近辺をお金もなくさまよう日々。それでも諦めきれず、カバンの中に突っ込んだスケッチブックに絵を繰り返し書き続ける日々。家に帰れば、ネットゲームのなかでredjuiceさんの描くような顔のいいキャラクリをしたキャラを調節しながら電子の海を彷徨うか、イラストツールを開いて試行錯誤する日々。そうでもしなければ、またマンションの高層階から飛び降りようとしたりとか、また首をつろうとしてしまいそうでした。

どこにでも優しい友達はいました。逃避するように絵を描き続ける私と話してくれるのです。それがどうにか私に普通さをもたらしていましたが、ギルクラのコンセプトの問題を今更背負い、解決するべき人は、結局はそれを無謀にも願う自分だけです。

自分で絵を描いて証明しなければならない。自分こそがコンセプトを再定義し、すべてをやり直さなければならない。そうしなければ、アニメを再度作り直すことは決してできない。その使命感は、流石に誰にも理解してもらえるはずがありませんでした。

そんな折に、私は人生の転換点を、図らずも本屋でみつけ、それがすべてをやり直すきっかけとなりました。

redjuiceさんが表紙絵を描いて再販された、虐殺器官とハーモニーです。

物語をつくり直すことへの帰還、LORD_OF_PERFECTION

redjuiceさんが絵を描いていたこともあって、私はどちらの作品も読みました。本を読むのが苦手だったとしても、小説ならどうにか読めたからです。

そこで私は、一度絶望しました。虐殺器官やハーモニーのような世界観が、すでに現実で起きている真っ最中だったからです。

2014年はウクライナ政変が起き、その報復としてロシアのプーチン政権がいまのように大嘘を吐きながらウクライナを侵攻しており、EU離脱、ブレグジットが世論で繰り返し語られ、中国は繰り返し世界を挑発するような動きを繰り返し、なのに中国を資本面から礼賛するような言説が、侵略されかねない日本国内にも溢れていました。つまり世界はオバマ大統領のいうような民主主義より、ファシズムや資本主義的権威主義を当然とするような論調が繰り返されていたのです。サイコパスや1984年の描く世界が、ますます近づいているようにすら思えました。

すでにこの世にいない作家である伊藤計劃さんがここまでリアリティのある作品を描いていたのは驚きでしたが、同時に世界はこうして混沌に向かっていくものなのだと私も考えていました。

誰もが私のように権力を追い求め、争いの絶えない世界こそがこの世界の理なのだと思うと、自分の居場所はそこに見当たりそうにありませんでした。私には画力もなければ学力もなく、ただ奪われることだけを前提に生きるしかないのだと思っていたのです。

そんな状況が変わったきっかけはよく覚えていません。ただ、どこかでふと気がついたのです。

虐殺器官やハーモニーの描くフィクションのように言葉によって世界が無茶苦茶になっていくのなら、それを完全に防ぐことをフィクションで書くことはできるんじゃないのか?

その推測は、幾度となく回想し続けたギルクラを通して組み直されました。

現実世界の自分には力がなくても、桜満集自身のあのヴォイドの力と、楪いのりや桜満真名の歌さえあれば、絶望的なすべてを覆して、フィクションの世界くらいは書き換えることだってできるんじゃないのか?

そこには、いのりや真名が生きていていい世界が完成するんじゃないのか?

確信を得たのは、実際に書き直し始めたときにようやくでした。
かくして私は、物語をつくり直すことに帰還し、いのりや真名が生きていい世界を夢見始めました。世界を知るがゆえに世界と触れ合うことのできない世界の規範の創造者、いわば別世界の神となる道へと、私は駆り立てられていきました。もう、自殺できなくなりました。この責務は果たさねばならないと考えていました。

ただ、私自身が別世界の神になれたとて、その世界に干渉することはできません。神はサイコロを振らないとアインシュタインは言いましたが、少なくとも私は振る側でした。どう振ればある程度想像通りの世界に着地するか考えることしかできないのです。

だからこそ、全てを手にしていた桜満集に世界の王となれるだけの異常なまでの強さを与えました。

自分の知る世界の全ての無用な闘争を終わらせることのできるような力として、ヴォイドを、王の能力を、再定義しました。ヴォイドを使えるのなら、人の心が読めるのもまた不自然ではない、という推測が、彼を最強へと突き進めました。いまでこそなんてハックだ!と思いますが、当時はこれ以外の実装方法では、いのりや真名の救われる道が思いつかなかったのです。

そうして集が、ギルティクラウンのなかでのあらゆる理不尽を突破するがために世界から恐れられる存在、桜満真名や楪いのりの能力の正当な継承者として、黙示録の獣、名前のない怪物として世界に君臨し、虐殺器官のジョン・ポールのようにやがて世界を書き換える物語、LORD_OF_PERFECTIONは始まりました。

この作品ともうひとつの作品を書き終わってしばらく経過したころ、つまりここ最近、コードギアス叛逆のルルーシュをはじめてみました。このコンセプトと限りなく近くて驚き、同時に深い安らぎを感じました。こんな物語があっていいんだと安堵したのです。

ギルティクラウンの前にコードギアスがあったということですから、図らずも私はコンセプトを追求するうちに先祖返り、隔世遺伝を、数年間に果たしていたことになります。

LOP執筆当時の私はアポカリプスウイルスを再定義しようとしました。いのりや真名の生きていていい世界をつくるには、避けられなかったのです。なによりも現実に生きる私の直感からは、原作のアポカリプスウイルスのコンセプトは外れていました。物語の最後に消し飛ばせるような、簡単な設定とは到底思えなかったのです。

現実におけるウイルスや病気、つまり災害はそんな単純なものではありません。それは今の世界こそが証明しています。災害に悪意が載せられるのだとしても、その源泉は人間にあるのだし、病は人が社会をつくるうえで消し去ることはできず、できたとしても影響を抑え込んで共生するしかないのが現実です。

そこで逆説的に、アポカリプスウイルスがずっとずっと昔に人間に拡散し、それによって人間にコミュニケーション能力が形成された、という設定を採用することにしました。2001年宇宙の旅におけるモノリスと同じ役割を、アポカリプスウイルスに、いのり=真名に与えたのです。

そして真名といのりがロストクリスマスのタイミングで分たれることとなり、記憶を失った真名がいのり、その後インスタンスボディでその記憶を維持した真名という対決として、世界に絶望する真名と涯と、世界の悪意そのものと戦う物語へと変わっていきました。

結果として、アポカリプスウイルスを抑えたり撃滅しようとする誤った世界と戦う物語として再定義に成功し、真名との戦いの果て、いのりが生き延びる世界は完成しました。

そのさなか、高専をサボり留年を確定させ、美大予備校をサボって美大受験を適当にしたツケとして親父に一生分怒鳴られたりもしましたが、もはやそれらはなんら問題ではありませんでした。やることがここまで決まっているのなら、別に高専をやり直していてもすべて理解が追いついたからです。

実際、小説を書くうちにかなりの範囲で本が読めるようになっていきました。資料としてがんばって解釈しようと努力したのがよかったんだと思います。わけのわからなかったコンピュータの全てが、自分の中にすんなりと入っていくことに驚く日々でした。案外コンピュータの世界も悪くないんだと気付きました。結局私が一番憎んでいたのは、コンピュータやルールなどを言い訳に誰かに強制することしかできない無意識ファシストなんだと、その時体得しました。

本が読めるようになったことによるものとみられますが、絵を描く頻度が落ちて衰えていくはずだった私の画力は、たった一年前後で急激な変化を遂げました。コンセプトに裏打ちされた確信が、絵に如実に反映されました。



このLOPを書きながら、伊藤計劃さんの描いていたMGS4ノベライズにハマり、MGS4とMGSVを全クリできるまで遊び尽くしました。そうしてゲームの中で遊びながら、こんな絵もパロディで出せるようになっていきました。ソリッド・スネークならぬ、ソリッド・シェパード、という桜満集の新たなコードネームも、MGSから生まれました。なによりLOPにおけるヴォイドの光を示すオオアマナやベツレヘムの星のモチーフは、MGSからです。


かくして私は高専生時代においてギルティクラウンの世界を、絵においても、物語においても、自らの手で一度つくり直すに至りました。

リリースした日は、12月24日でした。それ以来私にとってのクリスマスは、どこか穏やかな気持ちになれる日となりました。

LOPを描いてだらだらリーマンになったあと

LOPはタイトルにつけたように完璧だったわけではありませんでした。
非常に長回しのセリフが乱立し、設定以外のあらゆる映像作品としての側面が弱く、何よりもコンセプトに噛み合った端的なデザインとは言い難い状態でした。

そうだったとしてもたくさんの人たちが読んでくれて、楽しんでくれました。感想を見て、安堵する日々が続きました。私の人生は、そこでひと段落つき、未練がほとんどなくなりました。

その後、どうせ人生に未練もないし、だからこそおとなこどもやファシストに従う気もない、だがやるべきことは果たす、という人生観に至り、就活には少々苦労はしましたが今も働き続けている会社に運良く入り込めました。

その後苦手だったコンピュータのことを再学習し、ITエンジニアとして要求される厄介な事柄をこなせるようになりました。必要であればコードを書くことも実践するようになり、いつしかそれは私の技術のひとつになりました。

私にとってIT世界は本を読めば読むほど、コードを書けば書くほど強くなるという奇妙な世界で、今もそんな感覚で生きています。結局は人の問題にいきつくので、それはそれでどうにかするしかないのですが。

そうしてコンピュータに仕事をさせるようにし、ルールを変える側になっていき、最終的に3年目にしてだらだらリーマンへと到達しました。

とはいえ、LOPを使ってギルクラをアニメとして作り直したいという野望は、まだ消えていませんでした。

そこでいろいろとオリジナルの作品を書くことで自分を有名にし、そこからLOPを売り込めるようにしようと考えました。

しかしオリジナルの小説を書くことは、難しいものです。
設定をゼロから考え出すのは、大変な苦労がかかります。コンセプトを整えても、物語の構造をどれだけ理解しても、完成させることは困難を極めます。

そうしてオリジナル小説は10万文字に行かない状態を何度も繰り返すことになり、私はいろいろと思案しました。

最後にたどり着いたのは、LOPをさらに作り直し、原作ギルティクラウンへと近づける、という新たな計画でした。

「友達を武器に戦う」への原点回帰、Bonding the Voids

LOPは、「友達を武器に戦う」というコンセプトからは明らかに外れていました。LOP集があまりにも強すぎたせいで、友達と苦難を乗り越えるというシーンが生み出せなかったというのが大きな要因でした。

そこで私はあるタイミングから、LOP集をどのあたりまで弱くしてもLOPのような結末にたどり着けるかを考え始めました。可能な限り原作通りの展開を見せつつ、原作通りの集のふるまいは残しつつ、けれどたどり着く先は、LOPのような世界観です。そうでなければ、いのりの生きられる世界はどこにもないのです。

大きな参考になったのは、友人と話した時にでた「友達を武器に戦う」の原点回帰でした。

「友達を武器に戦う」というのは、権力の行使のようなもの、と私は解釈しています。どんな友達であったとしてもやれと言わなければならない状況や、武器として使い潰してしまうかもしれないという恐怖感。対等な民主主義世界のなかでこそ成立しうる、とても素敵なデザインです。

しかしLOPの状況から考慮すると、友達になったりならなかったりの関係を対等にできる程度にまで、集の能力を限定する必要がありました。かといって原作ほど関係性が希薄では葛藤にならず、物語になりづらいということも、併せて問題として抱えていました。

だからこそ葛藤面として、作品のはじめるタイミングにおいては、王の能力を、父である桜満玄周の研究と敵対しなければならないと考えていました。

それは、当時から芽生えていた演出の組み方でした。王の能力に至るのなら、まず王の能力を否定していたほうがいい。たどり着く先がわかっているのなら、開幕はその逆の属性を持たせたほうが、矛盾していて面白いのです。

年末年始、家族と旅行し、その旅行先のラウンジでひとりノート広げ、私はコーヒーを飲みながら以下のパターンをボールペンで書き出していました。

・集は第三勢力の怪物(LOP)
・集は公開された玄周の研究を一人進める研究者。プログラマー。ロストクリスマスの真実を追いかけている。ただし孤独な兵士。
・集はただの高校生(原作)

結局採用されたパターンは、こんなふうになっていました。

セフィラゲノミクスに所属する研究者インターンでありながら、ネット上でclown: 道化師を名乗る開発者。そして自分の力しか信じることのできなかった人間。そんな彼が、人の力をヴォイドを通して使い始める。やがて自分の力そのものを、人に託していく。

このCLOWNというハンドルネームは、GUILTY CROWN redjuice's notebookに記載された、けれど採用が見送られた設定でした。曰く、学校じゃ目立たないけどネットじゃちょっとアレだぜ、という痛いキャラです。

そんな設定をほとんど完全に採用したのは、現実のITデザイナーやプログラマーの話をある程度知っていたからこそかもしれません。

私は当時、ITエンジニアという名のだらだらリーマンになっていく過程で、スティーブ・ジョブズやスティーブ・ウォズニアック、Linuxカーネル開発者リーナス・トーバルズの過去の物語を知っていました。そこから、案外リアリティを持たせたキャラクターとしてギルクラ世界でも成立しうると確信を得ていました・現実のケースにおいても、どちらもガレージやら寝室やらで、世界を変えるものをつくりあげたのです。かたやいまのiMacとiPhoneの原資、かたやいまのクラウド技術の中枢技術です。

ならばOSS溢れる豊かなの現代の延長線上の未来において、高校生がアポカリプスウイルスワクチンや、エンドレイヴ技術、ゲノムレゾナンス通信の開発者となり、ネットじゃちょっとアレだぜ、という痛いキャラだっていてもいんじゃないかと考えたわけです。ワクチンもシミュレーターがOSSで整えられたらありえますし(今はコードがあってもデータ少なすぎてほぼ無理かも)、エンドレイヴ技術もゲノムレゾナンス研究を玄周や春夏がしてさえいればありうる、ゲノムレゾナンス通信はセンサーがiPhoneなどのマシンすべてについている時代なら、試す環境は非常に低コストで手に入ります。

そうしてIT技術の延長線上で書くことに決めた私は、Connect the Dotsというジョブズがスタンフォード大学で語ったスピーチのフレーズであり、当時発売されていたデスストランディングをもとに、Bonding the Voidsというタイトルで、二度目の改変を開始しました。

作品のコンセプトを純粋に伝えようと四苦八苦した結果、このイラストを描くに至りました。決してとることのできないあやとりを差し出すいのり。この無理難題は原作一話にもありましたが、そこに回帰することを示そうとしました。

この作品は、だらだらリーマンになっていくなかで得た技術を総動員することで成立させました。

徹底的な構成に基づくシーンの接続、膨大な予備知識を感じさせないためのキャラクターによる違和感のない、可能な限り短いセリフ回し、地の文を徹底的に弾く作品スタイル。

まさしくbondという物語を使って、どこか脚本を切るように書いていきました。

そのなかで、ようやく原作ギルティクラウンの構成の良さを理解していきました。30分ごとでの構成の成立、展開の早さに直結する端的なセリフ回しや設定、なによりも上げて落とすという物語の演出のうまさ。進撃の巨人をこなしてた荒木監督の采配のオンパレードといった調子です。私はそれを映画のフォーマットになるように再配置してLOPで拾えなかった原作シーンを回収しつつ、ギルティクラウンにおけるいいシーンへとすべてを繋いでいきました。

同時に、群像劇である、というLOPにおいて外していたコンセプトも再度実践することが可能だとbond1を書く中で気がついたため、bond2, bond3においては全く別視点で語る物語として群像劇が成立しました。bond3act2 duskにおいては、集の視点は一切入らないところまでこなせるレベルに到達したのです。

最終的に、bondはギルクラ改変としては最も完成度の高い領域に到達することができました。ほとんどが、原作通りの展開。しかし、LOPの目指した到達点にゴールしたばかりか、登場人物全員が原作通り、あるいはそれに準ずる心境から、遥かなる高みへと成長していたのです。

bondにおいて達成したコンセプトのなかでもっともすさまじいのは、いのりが成長していく物語にもなっていたということです。

bond2において真名としての記憶を取り戻したいのりは、bond3から世界の惨状を自らの罪として受け止めています。けれどあまりに大きすぎる罪のせいで、彼女の心は毎日泣き出すくらいボロボロでした。このあたりは原作のシーンにおいても類似シーンがありますが、それを大幅に強化しています。

そこで集はいのりへとゲノムレゾナンス通信によってもう一度世界を繋ぎ直す任務を与え、彼女は繋いでいくなかで人との絆をもう一度つくりあげていく。さながらデスストランディングのような原作ギルクラ二期の世界観こそが、いのりがもう一度旅をはじめ、そして彼女の傷を癒すに至ったのです。たとえその果てに、仮面を被り王となり、名前のない怪物をふるまう集と、敵対することになったとしても。

君は何も悪くない。君はみんなと一緒にいていい。そう集が言い切ってあげて、彼女自身の気持ちで立ち上がってほしい。それまでは集が守ってあげてほしい。私はそう願ったすべては、bondにおいてこそ完遂されました。

そんないのりだからこそ、名前のない怪物を振る舞う集の心を、真に解き放つことができたのだと思います。

「友達を武器に戦う」という能力こそが王の能力であり、ギアスのようなものであったのだとしても、その力を使ってなお人のせいにせず罪を背負っていく集は、まさしく王にふさわしい存在になっていきます。たとえそのせいで世界の敵になるのだとしても、名前のない怪物と呼ばれたとしても、その願いと歩みが誰かを純粋に守り、命をいたずらに奪おうとするものでないのならば、それはもはや世界の敵などではなく、ただの心優しい人でしかありません。それを完全生還したbondいのりが、同じく生還したbond集に告げることによって、私のギルクラ改変という旅は、真の意味ですべての役目を果たすに至りました。

原作においても使われている「友達を武器に戦う」とは、自らの願いのために参加した作戦の中でヴォイドを使うことをきっかけに不和となってしまう部分を起点にしているように思います。花音や亞里沙、颯太や谷尋、ツグミや綾瀬、そして涯やいのりとの絆は、時にこわれるのです。

それでも最後の最後においてつながり、集を手助けし、そしてヴォイドとなって輝くのなら、これほど人の優しさに溢れる物語もそうそうないのです。これは原作ギルティクラウンの忘れられがちな良さのひとつであり、私がbondを描く中でようやく理解したものです。

私が罪の王冠を二度書き換えた果てに辿り着いた、友達を武器に戦うということは、武器そのものになるという奇妙さとともに、人間讃歌に溢れる普遍的なものだったのです。

おわりに: ボンクラヲタクのその後

bondをかいたときも今も会社で働いているわけですから、こんな無理無茶を、普通の人間がなにもダメージなくできるはずもありませんでした。残念ながら。

bond1が出来上がった直後に1週間近く寝込みましたし、bond2ができたときも一日で30000字書いてフラフラ、bond3に至っては12月24日にクリスマスイブリリースしようと思っていたら12月112日(3月22日)を迎えていて、外では桜が咲いていました。

私はbond完結以来、3月22日以降をチェリーブロッサム・クリスマスと呼んでいます。特に4月、桜が暖かい風のなか吹雪くとき、どこかいのりの歌が聞こえる気がして、穏やかな気持ちになれるのです。

そしてオリジナル小説を書けなかったわたしは無事作品を書けるようになり、10万文字以上で完成させられるようになりました。かつてヴォイドの意味を追跡していたせいで、究極の現代の幻覚、通貨をめぐるスパイものになってしまいましたが。


コンセプトがかなり複雑なんじゃないかとおもって漫画原作にしたりもできる程度には、今の私は表現が自由にできるようにはなりました。アニメだったギルクラから得られたものは、ものすごく大きいということでしょう。

まあそうはいっても書いてから一年しか経過しておらず、どこかのレーベルでデビューしたりはまだですし、私はいまもごく普通にだらだらリーマンです。

bondを書いていたときよりも給料はかなり増え、bondを書いたせいか本がさらに頭に入るようになってコードを書く量は大幅に増加し、仕事は厄介な事項は増え、責任は重くなってきていますが、食べていくためですから仕方がありません。

それとありがたいことに、#ギルクラ10thというツイッター上でのお祭りもありました。あのときはとてもうれしかったです。昼休みに急いでTwitterに投稿したのはいい思い出です。

いまはuncronで記念としてギルクラの絵を買って届くのを待っていたりします。十年以上経ったいま、こうして学生時代の思い出の品をまだ買えるのは幸運なことです。

2023/02/17追記
ついに届き、冒頭のTwitter版感想へとつながります。

私は、だらだらリーマンとして、名もなき開発者や管理者として生き続けることになるでしょう。

けれどギルクラとの思い出は誰の思い出からも決して消えることなく、星のように、ヴォイドのように、光り輝きつづけます。みなさんのなかには、作品に向き合えば苦しさが溢れる、私のような人もいたかもしれません。

そんな人のなかに、私の描いたLOPやbondを見て、どこか心が穏やかになった人がいたのなら。
そしてこの回顧録に触れて、こんなボンクラヲタクがいたんだと気づいて、そして笑ってくれたのなら。

私のこの旅にもまた、意味はあったということなのでしょう。

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