弱さを演じる楽しさと孤独と
要約
強い人への憧れと諦め
これまでの人生、なにかと強い女の子に憧れてきた。そんなオタクは多いんじゃないだろうか?
だからギルクラの楪いのりや桜満真名に憧れたし、同い年の絵の上手な先生にも憧れたし、こんな寝言も起きたまま出てしまう。
基本的にいまも昔もボンクラヲタクだからだろう。好きなのはコンピュータRPGや漫画やガンプラで楽しむ空想の世界。苦手なのは人前で話すこと。
だからこそ、自分の空想の世界を絵や小説など表現で大人と対等にわたりあう女の子に、強く憧れてきた。「アルジャーノンに花束を」のチャーリイが、キニアン先生にどこか憧れを抱くように。
僕もあんなふうになれるかな?みたいなことを言って本気でやってきた人生だった。でもいろんな煩悩のせいでなにかとうまくいかず、いつしか憧れは諦めに変わり、凝り固まっていく。
学んだことは拡張されない。少しずつ失われていくのを感じる。
でも人生はそう簡単に終わりやしないものだ。
ヘラヘラ笑って一日が終わる、穏やかすぎる世界は手に入っていた。それでも孤立した人間は、ときに暴力を振るってくる。まあ事故みたいなものだ。そんな孤立した人間を黙らせ、バカなことを諦めさせる強さは、すでに手に入れていた。
つまり、絵が多少描けるようになったり、小説が多少描けるようになったり、プログラムコードが多少描けるようになってはいた。孤立した人間が刺しにきた言葉をそのまま刺し返すレトリックも、普通に使ってきた。
とはいえ、力を手にしたところで、憧れを抱かず、新しいことを学ばないオタクは、めんどくさい戦争になるときだけ呼ばれ、終わればレイオフされる兵士、つまらない人間に成れ果てるしかない。
弱さを演じる楽しさ
そんなふうにつまらなくなっていくなか、推しの子をみて演じるということを考え始めてから、弱さを演じることを楽しむようになった。
演じるというのは、自分が弱いと嘘をつくことなんかじゃない。むしろその自分の弱さと本気で向き合うことを意味する。嫌なものに向き合うと、なにかと世界をみるときの印象は強くなるものだ。
noteで感想記事を描くのも、そうして弱さと向き合い、弱さを本気で演じるためでもある。弱さをなくせるわけじゃないが、弱いことの不安は克服することができる。
わりと現実でもあえて道化を演じてみると、みんながしょうもなさすぎて笑ってくれるのがうれしかったりする。ボンクラヲタクだから、みんなが笑ってくれるのは素直に嬉しいのだ。
なにより、弱さとは親近感でもある。僕はそれをエリートまみれないまの自分の作品に取り入れたいと思ってきた。
婚活パーティーの外で弱さを演じきれない僕
この記事はおどろくほどルポだ。
しかしこのとき新宿放浪していたのは、婚活パーティーまですることがなくてブラブラしていただけである。
TOHOシネマズを目指して間違って歌舞伎町のヤバそうなところに真っ昼間に突入したり、紀伊國屋書店でありえないほど本を買ったり、喫茶店でぼっちで本を読んで時間をつぶしたり、大久保を練り歩いてホストとすれ違う。
そうして怪しい雑居ビルのなかに入り、平日通りにしょうもない会話の応酬を繰り広げる。推しの子をみてめちゃくちゃハマって俳優の本を数冊買って読んでた、といつも通りなボンクラの弱さを演じる。
そのときは、自分が小説を書く作家もどきであるということを知られることもない。だから相手も流暢にネタを出してくることを不思議がってくれて、楽しいのだ。
手品がうまくいってはしゃぐ小学生といえばわかりやすいだろうか。
とはいえ、結局本気で僕みたいな道化とマッチングしたがる人なんかいるはずもなく、連絡先しか得られるものもない。たまたまLINEのやりとりをした相手に作家もどきだとネタばらしをしてみたら、結局「人脈のひと」だった。
曰く、ゴトーさんというすごいひとがいる。その人の知り合いが官能小説の作家だという。百田さんというらしかった。
曰く、本が好きなら金持ち父さん貧乏父さんの感想を聞くために次会ってみたい。
曰く、ラットレースから抜け出して海外旅行にいけるように達成したい。
そんな孤立した人間を黙らせ、バカなことを諦めさせる強さを、気づけば僕は使ってしまった。
僕は弱さを演じきれなかったのだ。結局、防御反応としてこんな言葉で反撃していたのだ。大人げなかった。
僕は自分の作品で一億部を突破させ、それで得たお金でアニメ映画のプロデューサーになってみんなを楽しませたい。だから、正しいことを、正しいやりかたで果たし、正しく評価されなきゃいけない。作家の前に立つのは、対等に話すためにも正しく評価されてからでなきゃいけない。
僕はお金をみんなのために使いたいと思う。経済活動で勝利するとは、だらしないやつが不祥事で没落してる時も何食わぬ顔で仕事を続けられているときを意味する。そういうふうな経済活動をつくるのは、別に従業員であってもぜんぜんできるし、自分のお金もいい作品をつくるために経済的に使いたい。
僕はシンガポールのマリーナベイサンズで「トイレどこ?」すら英語で伝わらなくて困ってしまった。でも、海外旅行はとても楽しかったと思う。
孤立した人間が刺しにきた言葉をそのまま刺し返すレトリックは、相手を苦しめるには十分すぎたようだった。
相手の会話の筋書きから意図的に離れ、相手の同意も求めずまくし立てる僕に、相手はただ同じ言葉を繰り返すことしかできない。ゴトーさん、金持ち父さん、ラットレース。
僕のつくりだす苦痛なハムスターホイールについに相手は音をあげ、もう夜遅いから、そして人脈が必要なら声をかけて、と言われて通話は終わった。23時ももうすぐの時間だった。
僕は夢バトルに勝利した。
けれど大人バトルなら、明らかに負けていたと思う。
でも、僕はどうすればよかったんだろう?弱さを演じ続け、相手にホイホイついていき、ゴトーさんに会って、その果てに僕は自らの意思で貯金ぜんぶ剥がされていたほうがやはりよかったのだろうか。
孤立した人間に向き合い、弱さから救い上げるような優しさは結局出せなかった。あんなに手をさしのべよう、とかnoteで言ってたのに、僕は結局、無力だ。
だからこそ、僕は孤独になるしかない。
真に孤独を癒してくれるのは、インターネットの向こう側にいる、優しい家庭で幸せそうにぐーたらしているネコチャンだけ。
ついでに、作家もどきとしてデビューしようとしていたハヤカワSFコンテストでは一次選考に残れなかった。人生でははじめて紙を刷りまくって直接送りつけただけに、残念だ。
でも今回のかなしい出来事を手がかりに、もういちどちゃんと作品を書き直してみようと思う。
本当に孤立したひとに、ぼくはどう手を伸ばせるのだろう?
きっとそれは、弱さを演じ切るということなんだろう。それは、人と寄り添うための優しさでもあり、同時に相手から僕のできていないことを学ぶ、最大のきっかけになると思う。
じっさい、会社ではそうしてたくさんの人から教えてもらっている。強い人への憧れを思い出せば、もっといろんな人から、僕は学ぶことができるだろう。
僕は今度こそ、かしこくなりたい。
強い子を支えられるような大人になりたい。