見出し画像

イタリア旅行から考察する,神と文化と,私達の生き方.

お久しぶりです,ぼんじーです.

国際学会での発表のため,イタリア,ボローニャ大学に行ってきました.

ボローニャ大学は,欧州最古の大学で,あのガリレオ・ガリレイやコペルニクスなどが学んだと言われています.

学会セッションの合間,私はボロネーゼ発祥の都市,ボローニャの観光に行ってきました.



1. 教会という舞台装置.

画像1

(聖マリアデッラヴィータ教会にて)


 ボローニャ中心に位置する,聖ペトロニオ大聖堂,聖ステーファノの教会群,聖マリアデッラヴィータ教会など,ローマカトリック教会が建ち並びます.
 アーチ構造を取り入れ,建造物の高くしつつ,大きなステンドグラスから光を取り込むことで,"感覚的に"外界との建繋がりを断っているように思えます.赤レンガと白い石畳の街中から建物の中に入った途端,色彩,遠近感,スケール感が一瞬で切り替わり,小さな肉体を持つ人間が,それよりも大きな何かが基準となる,"神聖な空間"に飲み込まれたように感じました.
 そこには,外界と聖域に,そして神(と呼ばれるもの)と人間に,大きな,越えようのない隔たりがあるようです.
 私達日本人が普段接している,神社や寺院には,このような"明確な壁"は基本的にはありません.
 大きな鳥居をくぐれば,そこはもう神域です.境内の中,ほんの数段上ったところに社があり,私達の目の高さに合わせて,"神"が祀られています.
 絶対神,唯一神と対峙するヨーロッパと,八百万の神の中に生きる日本.ボーローニャに建つ数々の教会の中で,その違いの断片を感じられました.
 

2. 文化の中に生きる.

画像2

(ボローニャ大学前の通りで)

 
 ボローニャ中心部のアーケードでは,その壁面,天井など至るところに,古い絵画や彫刻が残されていました.そのような趣のある建物も,看板を見ると『スターバックス』や『マクドナルド』など,アメリカナイゼーションの影響が見られます.
 木造の建物など,朽ちることを受け入れ,むしろ肯定さえする日本の価値観が好きですが,古い建造物の,中身(テナント)は現代的に,しかし外側は修復,修繕を繰り返して昔の趣を保つという都市造りが見れました.

 もちろん私達も,祭りや行事など,この国特有の文化に見を包む瞬間を感じることは多くあります.しかし,遠い異国の地ボローニャでは,まさに文字通り"文化の中"で生活しているのでした.

3. 人間を生きる.

画像3

(聖ステーファノの教会群前)

 
 街中を歩いていると,15時,16時を過ぎたあたりから,老若男女問わずに街の人々がカフェやバーのテラス席でお酒を飲み始めるのが見られます.その賑わいは,平日の昼から,そして夜まで.
 もちろん全員が同じ場所で飲み,食べ続けているわけではありませんが,17時辺りから飲食店以外の店は締まり始め,活気はますます上がり始めます.
 イタリア語やその他の欧州の言葉がわからなかったからかもしれませんが,日本のようにゲラゲラと馬鹿騒ぎをするわけでもなく,友人たちと語らい,夜風を浴びてゆったりと時間を過ごす人々が,妙に羨ましく思えました.

 私は,人と神々が近く寄り添う日本の宗教観が好きです.桜が咲いたその一瞬を楽しみ,散っていく花びらを惜しむ文化が好きです.
 しかしダラダラと,曖昧に,周りに流され,周りと同じように"きちんと"生活しなければならないという日本の息苦しい空気は,そろそろ換気するべきではないでしょうか.
 
 少なくともイタリア,ボローニャでは,満員電車だとか,社畜だとか,過労死だとか.そんな語彙の必要性が全く感じられず,それならばその分,彼らは何か他の物を表す言葉を持っているのはずです.

 それはきっと,私達よりも人間として生きるうえで,人生を豊かなものにする言葉なのではないでしょうか.

noteを最後までお読みいただき,ありがとうございます. 博士後期課程で学生をしています. 頂いたスキやコメントを励みに,研究,稽古に打ち込んでいきたいと思います. よろしくお願いします.