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なんと美しい夕焼けだろう

なんと美しい夕焼けだろう
ひとりの影もない 風もない
平野の果てに遠く国境の山が続いている
夕焼けは燃えている
赤くあかね色に
あのように美しく
わたしは人に逢いたい
逢っても言うことができないのに
わたしは何も告げられないのに
新しいこころざしのなかで
わたしはその人を見た
わたしはおどろいて立ちどまった
わたしは聞いた
ひとすじの水が
せせらぎのようにわたしの胸に音をたてて流れるのを
もはやしずかなねむりは来なかった
そのことを人に告げることはできなかった
わたしは急いだ
ものにつまずき
街角をまがることを忘れて
わたしは立ちあがらなければならなかった
立ちあがれ 立ちあがれ
かなしみがわたしを追いたてた
わたしは
忘れることができない
昔もいまも
いまも昔のように
夕焼けは燃えている
あかね色に
あのように美しく
なんと美しい夕焼けだろう 中野鈴子

この詩は、岩波新書の復刻版である真壁仁編「詩の中にめざめる日本」に収められています。この本には、いわゆる詩人を肩書きにし、職業としていた人ではなく、真壁さんが言う民衆の詩の集まりです。ただ美しいように見える飾りのような言葉ではなく、血や肉や足音が聞こえてくるような命の言葉ばかりです。

その中でも心に残り、何度も何度も目で読み、音で読んだのがこの中野鈴子さんの「なんと美しい夕焼けだろう」と言う詩です。
始めは、読みながら美しい夕焼けを浮かべるでしょう。けれども、この美しい夕焼けは、風景のことを詠んではいないと言うことにすぐに気が付くはずです。

こんなにも美しくこころの動きを、想いを言葉にすることができるのかと驚きました。目には映らないものを、このように見せてくれるのかと。
感情はいくらでも言葉にすることができます。喜んでいるとか悲しんでいるとか、とても簡単です。
けれども、感受性を言葉にすることはできない。できたとしても心や言葉を親密に理解し、尊厳を守り、一瞬の煌めきをとらえるには、技量でまかなえることでは決してないと思います。
感受性はその人そのままで、その人だけが唯一持ち得るもの、同じものは一つもないものです。中野さんは、詩を書くのではなく、詩そのものなのだと思います。感受性そのもの。そして美しい夕焼けそのものだと思うのです。

わたしたちは言葉を使いすぎたのかもしれないと思う時があります。誰かの言葉を、使い古した言葉を、安易に使いすぎているのかもしれないと。それを平気で他者に投げてみたり、自分に突き刺してみたり。

わたしにとっての言葉は、この中野さんのようにその人自身になれることです。ですから、瑞々しく落とされた一滴の水のような言葉を持つことをこころざしとして持っていたいと思います。

今年起きるあらゆる出来事の前で、わたしも「赤くあかね色に あのように美しく
わたしは人に逢いたい」。そうありますように。

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