【エッセイ】オレの墓標に名はいらぬ!!死すならば戦いの荒野で!!
タイトルにある「オレの墓標に名はいらぬ!! 死すならば戦いの荒野で!!」。
これは漫画『北斗の拳』の、主人公・ケンシロウの最終回における台詞である。
ケンシロウの名台詞といえば「お前はもう死んでいる」が有名だろう。
実際、最終回においても、ケンシロウの最後の台詞は「お前はすでに死んでいる」で終わっている。
しかしながら、この名台詞。
実は原作で使われた回数が少ないのは有名な話だ。
敵のザコキャラが死ぬ間際に発する断末魔の叫び声、「あべし」や「ひでぶ」も同様である。
実際はアニメ版のインパクト、使用回数によって、原作のそれより勝手に一人歩きし、台詞として有名になったのだ。
有名な話ったって、そもそも10代、20代、下手したら30代の人には馴染みのない漫画だろう。
正直、リアフォーの僕においても、世代的にはドラゴンボールど真ん中にあたるので、北斗の拳はちょっと上の人達の世代ではなかろうか?
ONE PIECE、何やったら鬼滅の刃がドンピシャのこの時に、何故、北斗の拳の話をしているのかといえば、単純に僕が好きだからである。
どれくらい好きかといえば、僕の部屋には北斗の拳のゴミ箱が置いてある。
僕が幼少の頃、生前の父親が、僕には北斗の拳のゴミ箱を、姉には『タッチ』のゴミ箱を買ってきた。
僕は、もちろん亡き父親との思い出も含め、未だにそのゴミ箱を使っている。
いわゆる当時物と呼ぶにふさわしい品である。
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北斗の拳はその描写のエグさ、グロさから、バイオレンス漫画、ハードボイルドな漫画として位置づけされているが、実際は奥が深いのである。
拳法、何やったら暴力をテーマにしていると思われるかもしれないが、僕が考えるこの漫画のテーマは「愛」だと思っている。
拳法、暴力以外にも恋愛、友情、親子、希望、夢、絶望、嫉妬、権力、戦争、略奪、言い出したらキリがないほど、この作品にはいろいろが詰まっている。
原作者・武論 尊 先生、作画・原 哲夫 先生なる両名が、作中で書ききれなかったエピソード、裏設定が山ほどあるというほど、詰めても詰めきれないほどの、「すべて」が入っているのである。
そして僕は、それらを全部ひっくるめて、テーマとしてあるのが「愛」だと感じた。
後に、原作で書かれなかったそれらのエピソードや裏設定は、新作の劇場版や、スピンオフ漫画で紹介される。
あの暴君、世紀末覇者・ラオウですら愛深き男なのである。
僕はこの漫画から多くのことを学ばせてもらった。
人として生きる大切なこと。
人生において指針となること。
漫画とはいえ、多くのことを学ばせてもらったのだ。
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例えば、前々から僕がよく言っている「正義」の在り方。
昨今では、誰しもが簡単にネットで言論、表現が自由にできるようになった。
「炎上」「叩き」、過度な追及によって、そこにはいつも「正義」という大義に隠された「暴力」がつきまとう。
オフライン、リアルの世界でも同じで、最近では自粛警察なんてのもあった。
皆が皆してではないが、一部の人達は「正義」とは「悪を倒すこと」だと思っているようだが、そうではないと僕は思っている。
「正義」とは「民衆を救うこと」「民衆を守ること」であらねばならない。
世界を平和にし、世界を救うことこそが、「正義」の本懐であり、そこには「愛」がなければならないと思う。
北斗の拳にはそんなシーンがたくさん出てくる。
例えば、愛深きゆえに愛を否定し、悪行を尽くした聖帝サウザーにすら、ケンシロウは「北斗有情猛翔破」という、体に痛みを伴わない奥義、必殺技を繰り出すのである。
結果としてサウザーはやられるのだが、そこに痛みはない。
ケンシロウは、サウザーを倒すことよりも、痛みを与えないという方法で、サウザーに愛を説いたのだ。
ケンシロウとラオウの決着においてもそうである。
世界を暴力で統治しようとしたラオウ。
そもそも世界を暴力で統治しようとしたのも、ラオウの母国愛からくる焦りであったのだが……。
何にせよ、ラオウとの闘いの後、ユリアは「ラオウは自分が愛を持つ者に倒され、とってかわられる事を願っていたのでは……」と、暴力では解決にならないことをラオウは知っていた、それに代わるのはケンシロウの愛だと言った。
つまり、愛なき者に正義はなく、正義とは「悪を倒すこと」「悪を滅すること」ではなく、「民衆を救うこと」「民衆を守ること」で、それが世界を平和にし、世界を救う。
ケンシロウが、世紀末覇者・ラオウに対し、世紀末救世主と呼ばれる所以はそれである。
§
タイトルにある「オレの墓標に名はいらぬ!! 死すならば戦いの荒野で!!」。
何回、何十回と読み返した北斗の拳の中で、僕は、この台詞がケンシロウの1 番の名台詞だと思っている。
僕達のほとんどは、有名人、著名人ではない。
したがって、かの偉人たちのように、社会の教科書や、また歴史に名を残すことなく、その生涯を終えるだろう。
もちろん可能性は0 ではないが、ほとんどの人は世界中の誰に知られることもなく、ひっそりと、しれっと、その生涯を終える。
しかし、大きな意味合いの世界に対しては無名であっても、僕達は、人生という自身の世界の中では、ケンシロウと同じように、1 人1 人が主人公である。
そして、僕達において戦いとは、日々の生活の中にある。
家族の為に働く人、自身の為に働く人、主なき家を守り家事・育児をする人、将来の為に学ぶ人、その他、千差万別。
社会人として働く人、学生として学ぶ人のみならず、赤ん坊だって生きるという戦いの中にある。
仕事、学業、家事、育児のみならず、もはやこの世に生を受け、生きるということそのものが戦いである。
そして、僕達のほとんどが、その戦いの中で無名のまま、その生涯を終える。
それでも、社会の1 人として働く人、家を守る人、次の社会を担う為に学ぶ人、生きる人、皆がそれぞれに主人公で、皆がそれぞれに尊い。
様々な喜怒哀楽、苦楽の中にある、僕達の1 人1 人が、例え無名であっても、その中で戦っている、生きているというだけで尊いのではないだろうか?
そう思えばこそ、「オレの墓標に名はいらぬ!! 死すならば戦いの荒野で!!」とのケンシロウの台詞は、奥が深く、何と力強い言葉なのかと思う。
§
僕が今、こうしてnoteに書いていること。
創作。
これにおいても同じ事が言える。
noteにはたくさんの優秀な書き手さん、クリエイターさんがいる。
それでも、そのほとんどが無名であり、下手したらそのままその生涯を終える。
きっと、僕もそうだろう。
それでも僕は思う。
こんなに楽しい創作活動。
この創作という戦いを僕はできる限り続けたい。
たとえ無名に終わっても、僕は「さくら ぼんじり」として、この創作という戦いを続けていく決意なのである。
「オレの墓標に名はいらぬ!! 死すならば戦いの荒野で!!」
…
……
………
とはいえ。
ワイも。
エッセイが書籍化されて印税ウハウハしたり。
何かの賞を取ったり何だり。
有名になってチヤホヤされたりしたいのじゃ。
だから。
このエッセイを。
Panasonicさんとnoteさんの。
「#はたらくってなんだろう 」の投稿コンテストに。
応募しちゃうのだ、てへぺろ。
ぴえん、ぱおんの時代に、てへぺろが生きてるんか知らんけど(笑)。
おじさん、そんなん分からへん、へへへ……
って……あ?
……あっ…あべっ………あべっ……ひろ………し……あべっ………
あべしっ!!
さくら ぼんじりの作品を見て頂けただけで嬉しいので、サポートは無理なさらずに……お気持ちだけで結構です……。もしもサポート頂いた場合は、感謝の気持ちと共に、これからの活動費、また他の方への応援に使わせて頂きますm(_ _)m