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施餓鬼私案 その1

施餓鬼、という言葉を耳にしたことはおありだろうか?

よくお盆の近辺の時期に、菩提寺にて、

施餓鬼法要というのが行われているのをご存じならば、

現代人としては甚だご奇特なお方に分類されよう。

その目的について、一つには死後餓鬼に転生したご先祖に、

飲食を施すことによって家内安全、身体健全など、

その家の維持を図る、ということがあろう。

もう一つには、自分たちとの関係の有無に関わらず、

三千世界に遍満する餓鬼達に飲食を施すことにより、

その功徳でご先祖の冥福を祈る、ということもあろう。

これらの目的が本当に有効であるのか、とか

そもそも本当に餓鬼なんているのか、とか、

そういう諸問題は横に置いての考察となることを、

予めご了承いただきたい。

そして施餓鬼に必要なのは、小さな器と、

その中に入れた、水と混ぜたご飯である。


さて、その上で、改めて施餓鬼とは何なのか、

ご紹介していきたい。

他宗の寺門において行われているか否かはさておき、

真言宗の寺院であれば、毎夜行われているべき、

真言僧侶にとって重要な作法であることに、

真言僧侶の間で異論はなかろうと思う。

というか、異論を出す真言僧侶があれば、

還俗して無宗教者となることをお勧めする、

そんなレベルの話である。


ちなみに、私が毎夜しているかと言われると、

それはしていない、と恥じることなく申し上げる。

なぜなら、毎夜というのは、

外食などほぼあり得なかった昔の話であり、

現代の家庭で毎日炊飯をするかといえば、

しないところも多いと思われるからである。

かく言う我が家においても、炊飯は毎日ではない。

食べる日に炊いて、翌日になくなる、という感じだ。

そして、例えば夕飯がスパゲッティの時に炊飯はしない。

我が家は炊飯器を使わず、鍋で炊飯しているが、

同じ鍋でスパゲッティも煮るので、同時には出来ない。

当たり前ながら、江戸時代にスパゲッティはなかった。

平安時代にまで遡れば尚更当然である。

寺方ともなれば、毎日炊飯していたであろう。

あくまでもその前提での毎夜、なのである。


ところで、今日炊いたご飯が明日に残るのであれば、

明日の施餓鬼にはそれを使えばいいのではないか、

というご意見もあろうかと思うが、それは断じて出来ない。

寺院で申せば、朝に炊飯して炊きあがったご飯の、

最初の分配は本堂や諸堂の祭壇に供える、

いわゆる仏飯というやつである。

その後、施餓鬼用にひと掬い取って、

蓋つきの器に入れ、蓋をして夕刻まで取り置く。

であるから、炊きあがったその時にしか取ることができない。

それが炊飯一回分の施餓鬼なのである。

工夫としては、明日は炊飯しないとわかっていれば、

二回分取り置いて冷蔵庫にでも入れておく、

という手は考えられるが、その可否は、

僧侶各人の判断に委ねたいと思う。


これまたちなみに、修行道場などで、

朝食と昼食で各自の飯椀から取り分けた、

各7粒以上の生飯(さば)を施餓鬼に使うことがあるが、

あれは本義としては不可である。

そのようなものは、鳥獣供養といって、

庭に撒いて雀にでも食べさせるべきものである。


さて、今回は本論に入らず、前段となるのだが、

その締めくくりに、施餓鬼の流れを簡単に説明しよう。

真言宗は密教であるから、護摩などの行法と同様に、

施餓鬼も印と真言を結誦し、観想を用いて行われる。

次第(テキスト)は多種存在するのであるが、

元々作られていた、昔は行われていたであろう、

長大な「広次第」というものと、

それを短くした、現代で一般的に用いられている、

「施餓鬼略作法」というものがある。

私が暗記し、炊飯毎に行っているのは「略作法」なので、

それを基に解説したい。


まずは護身法を結び、口伝で摩利支天の印明を結んで姿を隠す。

そして全ての餓鬼を呼び出し、彼らの食道を広げてやる。

というのは、餓鬼は食道が極端に細くなっており、

それで飲食が不可能になっているからである。

その後、器に入った水とご飯を印と真言、観想によって、

究極的なまでに増量する。

そして、味も甘露なものに変えてやり、

お盆など、餓鬼が食を取れる場所に移してやる。

ここからが餓鬼の食事タイムである。

餓鬼が食べている間、貪りのカルマがなくなるように、

餓鬼の醜い容姿から美しいものになるように、

甘露を浴びて心地よい状態になれるように、

食道が広げられて飲食が可能になるように、

そして餓鬼の境涯から抜け出せるように、

仏に祈るのである。

そして餓鬼をして発心させ、戒を授け、

仏の智慧の光を浴びせてやる。

般若心経を唱えて智慧を授け、

我らとともに成道して仏となることを祈願し、

この場から去らせ、(撥遣という)

回向文を唱えて終わる。

なお、その後は速やかに、

後ろを振り返ることなく立ち去るのが作法である。


ちなみに、今解説した意味合いが、

「浅略(せんりゃく)」といって、最も表面的な解釈である。

その対義語が「深秘(じんぴ)」といって、

突っ込んだ解釈であったり、本当の意味合いであったりするのだが、

次回で考察したいのは、単なる深秘ではなくて、

炊飯するごとに施餓鬼をしてきた私の実感から得られた、

見解のようなものだと考えていただきたい。

伝授では教えられていないレベルの話をしようと思う。

しかし、深秘の更に奥にある「秘中の秘」と、

それほど違わないのではないかと私は感じている。


その2に続く



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