私の父、76歳の人生記。-第2話:川口のオバチャン-
はじめに
このnoteを書いているのは、主人公”ぼんちゃん”、の息子です。
大阪出身で現在76歳の父が、自身が年老いていくことを理解しながら、自身の人生を振り返りパソコンにしたためてきた文章。
それを私が読みやすく校正し、名前や地名は仮のものに変えながら、ほぼそのままで掲載していこうと思います。
父が辿ってきたのは波乱万丈の人生なのか、平々凡々な人生なのか、私も楽しみです。皆様も楽しんでいただければと思います。
※”()”は私の補足です。
第2話:川口のオバチャン
その当時はオトン、おかんと他に”川口のオバチャン”言うて、オトンの姉で、その子供の純ちゃんとナントカちゃんと二世帯が共同生活営んでたんや。大きな屋敷なんでこわあて(怖くて)入った事のない部屋もあった。
おれはおかあちゃん子やったから、おかんがトイレに行く時も離れへんかった。それと「ねんねっこ ねんねっこ」言うてずっとおんぶされてたな。
”ねんねっこ”待っておかんの後追い回した。きっちり甘えた母子密着関係が形成されてんな。
よっぽど愛に飢えとったんやな。川口のオバチャンもよう可愛がってくれた。愛に飢えていたんはワケあり。後ほど明かすで。
それから長谷川のおばあちゃんがやって来た。
玄関先の三畳ぐらいの日当たりのええ部屋やったかな。そこで起居してた。その時はまだ元気やった。よう近所の商店街に買い物についていった。お菓子なんかよう買うてくれた。
おばあちゃんは陽気な人で、太鼓叩いて唄うとった。おれはそれに合わせて踊ってたな。
「♪ああー 良いとこ 良いとこ 春日町 ♫」やったな。
しかし次第に弱ってきた。寝たきりになる前に亡くなった。
葬式は至って簡素なもんやった。亡骸を大きい桶に入れられて斎場まで運ばれた。坐棺やねんな。
しかしこのおばあちゃん若い時は相当な人物やってんな。
藤井の家(父の実家。仮名)が傾いた時には八面六臂の活躍しててんな。和服着て、衿には扇子を縦に指し、人力車に乗って北浜界隈の証券取引所や証券会社を飛び回って株の売り買いしてたんやて。北浜の風雲女やな。
お陰で藤井の家を立て直したんやて。男顔負けや。いまやったらNHKの朝ドラの主人公そのものや。長谷川のおばちゃんは津久野斎場の俺んとこの墓で眠ってるで。
川口のオバチャンとの共同生活はおかんが賢明やったから、そんなに摩擦が無かった。おかんは大家族の長女として育ったさかい、みんなの心の動きがよう解るねん。
おかんの父親は”ヤオエ”言うて、割と手広く八百屋と果物屋しとった。繁盛しとったが、一番下の慶ちゃん兄ちゃんが乳飲み子の時、母親が尿毒症で亡くなった。そやからおかんは母親の担い手となったんや。
それからアメ公の空襲におうて店も家もおじゃんや。塗炭の苦しみや。防空壕の話もしとったな。家の建て直しの話も聞いたけど大変やった。
大きい家やけど、風呂がずーと故障してたな。台所は都市ガスが通ってた。 さすが橋本(高級住宅地)や。庭も広かったな。池が二つもあった。草花もよう咲いていた。ある秋のこと、コスモスが一面に咲いてたな。どっかの兄ちゃんがコスモス綺麗言うて写真撮りに来てたくらいや。
3~4才の時やったかな。悪戯して川口のオバチャンに怒られた時、「今後 一切いたしません なんみょうほうれんげんきょう」いうて謝りを請うたな。
おやつにようドーナツ作ってたな。当時としてはハイカラなおやつや。
それから川口のオバチャン一家は多賀のほうに引っ越した。
オバチャンとこはハイカラで蓄音機があった。おれはオバチャンの家まで行って、よう”剣の舞”なんかようきいたな。
♫エテテコ エテテコプーウンプーウン♫
いうて、バイオリンが悲哀の激情を奏でてた。
(第2話ここまで)
息子から
私も全く知らない話がいくつも飛び出してきて、校正しながら驚いていました。私の本籍地が橋本だった謎も今日解決しました…。そしてサラッと書いていましたが、坐棺(座棺)にも衝撃。現在ではまず無い方式ですが、父が子供の頃にはまだあった文化だったとは。
なんとなくですが、この先を読むのが少し怖いです。でも綴っていこうと思います。
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