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『O駅の隙間女』第6話

6.駅の裏の沼


私は、今日ここを発ったらもう二度と来ることはないであろうO駅を最後に見ておこうと思った。

だだっ広くて古い駅舎は、正面のロータリーに面した所にあったパン屋がコンビニエンスストアになったくらいで、子供の頃からほとんど変わっていない。
入って右側に券売機と案内所、正面に改札、左側に問題のコインロッカーと待合所。しかし、コインロッカーは既に撤去されており、現在は掲示板として使われている壁があるばかりだった。
待合所は、扉も当時のままで変わっていない。

私は、かつてコインロッカーがあった辺りを探ると、<隙間女>を目撃した位置に立ち、目の前を垂直に伸びる壁を見つめた。
ポシェットから例の写真を取り出し、目の前の光景と見比べてみる。コインロッカーがないだけで、やはりここで間違いない。

改めて写真の<隙間女>を見ると、思っていたよりも鮮明で、しっかりとその表情まで読み取ることができた。驚いたようなその目は、確かにこちらを向いている。

あまり見ていたら気分が悪くなってきたので、待合所に移動してベンチに座った。
久々に足を踏み入れた待合所は、ほとんど昔と変わらない。
入って右側には、ホームを見渡せる窓があるので、昼下がりの日差しが眩しいくらいに差し込んでくる。左側の壁だった部分には表に面したコンビニの裏口が開通しており、待合所からそのまま買い物に行ける構造になっていた。

私は、一息つこうとその裏口からコンビニに入り、カップ珈琲と小さなチョコレート菓子を買ってきた。待合所のベンチに座って珈琲を飲む。
比べるものではないが、昨日の喫茶店の珈琲の美味しさを思い出していた。

そういえば、昨日マダムから傘を借りていたのだった。ビジネスホテルに荷物と一緒に預けたままだったことを思い出し、後で返しに行くことにした。

おやつタイムを終え、空のカップと空き袋を捨てるゴミ箱を探していたら、待合所の扉側の壁、つまりかつてコインロッカーが設置されていた壁の丁度裏面に当たる位置に並んでいた。

その方向に目をやって初めて気づいたのだが、ゴミ箱の並ぶ周辺の床だけ他とは色合いが異なっている。床材自体が別物なのだ。
よく見ると、扉側の壁だけ他の三方より新しい感じがした。

――雨があがってよかったね。

待合所の床や壁をまじまじと凝視していたら、近くに座るジャージ姿のお婆さんに声を掛けられた。
聞くと、自主的に何十年も駅周辺の掃除をし続けている人らしい。

私は、問題の床と壁を指差し、何か工事でもしたのかと尋ねた。

――ああ、ここは前は小さい売店があったのよ。だいぶ前に閉まってシャッターが下りたままだったんだけど、何年か前に壊したの。その跡だね。

私は、このお婆さんならコインロッカーのことを覚えているかもしれないと思い訊いてみたのだが、それについては記憶が曖昧なようだった。
それならば、と駅の裏の沼について尋ねてみる。

――ああ、裏の沼ね。あすこはさすがに私一人じゃ手に負えない。周りが草ボーボーなのよ。二軒隣りの市議さんに言ってるんだけど、なかなか動いてもらえなくてね。

お婆さんは、コーラをがぶがぶ飲みながら、早口で喋った。

――あの沼も昔事故があったりしたから、ちゃんと掃除して供養してあげなきゃ可哀想よ、ねえ。だからね、アタシは時々入れる所まで行って、うちの庭で摘んできた花をお供えしてくるの。今日もね、山百合とダリアが見頃だったから瓶に活けてきたところ。

私は、その事故で亡くなったという女の人についてお婆さんに訊いてみた。
すると、お婆さんの朗らかで大きな声は途端に小さくなり、重く深刻な雰囲気になったのだった。

――私が駅の周りを掃除するようになってすぐの頃だから、三、四十年位前かね。週末になると、時刻表の前に若い女の人が一人でじっと立っているのを見かけるようになったのよ。誰かを待っている感じでもあるし、自分がどこかに行こうとしている感じでもあるし、でも、そこから一向に動こうとしない。

お婆さんが話しかける前に、駅員さんに連れて行かれてしまったという。

――後で聞いたら、どこか体が悪かったみたいでね。それで家に閉じ込められていたお嬢さんだったらしいんだけど、ちょくちょく家から逃げ出して、その度に連れ戻されていたそうなのよ。一度は、その母親らしき人が凄い剣幕で、そのお嬢さんを叱りつけて無理矢理連れて帰るのを見たことがあってね。

そこまで話すと、お婆さんは大きな溜息をついた。

――どこか遠くに行きたかったんだろうね。行きたい所に行かせてやりたかったね。あんなことになるならね。

ある日の夕暮れ。いつものように逃げ出した女の人をその母親が駅まで探しに来たが、その姿はどこにもなかった。駅員も保護しておらず、他に見かけた人もいない。周辺も含めて方々探した所、裏の沼で遺留品が見つかったという訳である。

前の晩に雨が降って地面がぬかるんでいたため足を取られて落ちたのか、あるいは自分で飛び込んだのか、何があったのかはわかっていない。

――昔から、あの沼は底なし沼って言われていて、落とした物は戻ってこないで有名だったから。あのお嬢さんもそれを知っていたのかね。

私は、駅の伝言板に書き置きを残して消えたJちゃんと沼に遺留品を残して消えた女の人が重なるように思えた。

――若い頃はね、あの沼も綺麗で、今頃の季節になると蓮の花が咲いていたんだけど。アタシもその辺りでデイトなんかしたもんよ。

お婆さんは、暗い話を吹き飛ばすようにイヒヒと笑った。

――さてそろそろ帰らねば。ヨン様の再放送の前にお風呂を済ましときたいからね。それじゃね。

お婆さんは、背中を向けたまま手を振り帰って行った。
私は、その姿を見送ると、今の沼の様子が見たくなり、駅の裏側へ行ってみることにした。

初めて歩く駅の裏通りは人の姿もほとんどなく、三十分百円の駐車場があるだけの暗くて寂しい場所だった。
駐車場を越えて奥の方に金網が見える。仕切られた向こう側が沼なのかもしれない。
駐車場を通り抜けて金網の手前まで行こうとしたが、鬱蒼と繁る草むらに行く手を阻まれてしまった。時期が時期だけに蚊も多い。

諦めようとした時、その一部分がモーゼの十戒のように割れて道ができているのを見つけた。さっきのお婆さんが行き来して作ったのだろう。
手で蚊を追い払いながら大股で進むと、その先には畳一畳分ほど草が刈り取られた場所があった。石を積んだ粗末な祠の脇に、古びたファンタの瓶に活けた花が供えられている。

私は、あの写真を花の瓶にそっと立てかけると、<隙間女>を偲んで手を合わせた。


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