『O駅の隙間女』第7話
7.伝言板と公衆電話
駅に戻った私は、帰りの電車の時間を確認するために時刻表を眺めていた。
まだ余裕があるので、傘を返すついでに珈琲も飲めそうだ。まずその前に、ビジネスホテルに荷物と傘を引き取りに行かなければならない。
時刻表の隣の掲示板には、この夏の花火大会の告知ポスターや詐欺防止の啓発ポスターなどが貼られている。
順番に眺めていたら、一番隅の目立たない場所に、全体が色褪せて罫線も剥げてしまった小さな黒板があることに気づいた。
伝言板である。
まだこんなものが残っているとは。
三十年前、Jちゃんの書き置きが見つかったのもこの伝言板だったのかもしれない。
近づいて見てみると、そこにはチョークで一件の伝言が残されていた。
<案内所に預け物があります>
差出人は不明。
しかし、その宛名を見て驚いた。
私のフルネームが書かれていたのだ。
急いで窓口に行って名乗り出ると、表も裏も何も書かれていない一通の茶封筒を渡された。中に入っていたのは一枚の白い紙きれ。
そこには、
<待合所の公衆電話の下を見てください>
とだけ書かれていた。
私は素直にその指示通りに動き、公衆電話と台の隙間を覗き込んだ。
すると、そこにあったのはまた別の茶封筒。次の紙には、携帯電話の番号と思われる十一桁の数字が書かれていた。
まさか…。
私は誘われるように受話器を取ると、眺めるだけで一度も使ったことがないJちゃんのテレホンカードをその差し込み口に吸い込ませた。
紙に書かれた番号を間違わないように、ピ・ポ・パ…と一つ一つ確認しながら、震える指で順に押していく。
プルルルル…プルルルル…と、少しかすれた呼び出し音が等間隔で繰り返されると、その音よりも、私の心臓の方が速く大きく脈打った。
やがて、ガチャリ、と電話が繋がる音がして…。
――…もしもし。
少しの間があり、静かで落ち着いた女の人の声が聞こえてきた。
緊張で声を詰まらせながら、私ももしもしと返し、自分の名前を告げる。
すると…。
――Kちゃん、お久し振りです。Jです。
半ば予想していたことだったが、驚きのあまり息が止まりそうになった。
電話の向こうにいるのは、Jちゃんだった。
大人の声になって少し余所余所しく丁寧な言葉で話していたが、Jちゃんで間違いなかった。
――あなたを見たらとても懐かしくなって、思わず伝言板にメッセージを書きました。気づいてもらえるとは思いませんでした。
私を見た?一体どこで?
Jちゃんは今どこにいるというのだ。
――遠足の日の朝、駅で見たものを覚えていますか?隙間の中に女の人がいたでしょう。私もその人みたいに、隙間からそちらの世界を見ていました。ずっと長いこと。
私の頭の中に、Jちゃんが沼の底に沈んでいく様子が映し出された。
白い肌が水草の根と泥を纏ってゆっくりゆっくり消えていく。
それでは、Jちゃんはもうこの世界にはいないのですか?
――いいえ、私は生きています。でも、Jとして生きていた頃の私は全部消してしまいました。だから、今ではもう違う人間です。
私は、受話器の向こうの人物が実際に生きている人間であるにせよ、白昼夢に現れた幻覚であるにせよ、もう自分のよく知るJちゃんではないのだと悟った。
――Kちゃん、私、高校に入ってから、あなたと離れ離れになってから、世界がモノクロに見えるようになりました。そこで初めて、これまでは隣りでKちゃんが灯りを照らしてくれていたから毎日が楽しかったのだと気づきました。あれから、自分一人でも灯りを点けられるよう頑張ってみたのだけれど。でも…私が点けた灯りは、全部片っ端から消されてしまいました。
私の脳裏に、ママが駄目だと言うから、お外に出たいのに出ることができない犬のチーちゃんの姿が浮かんだ。
考えてみればいつも、Jちゃんの前にはお母さんの選んだ選択肢しかなかった。
Jちゃんは、黙ってそれを受け入れてきたけれど、ある時遂に許容量を超えてしまったのだ。
――使い捨てカメラ、自分一人で現像に出せるようになるまで、隠していました。取り上げられるのがわかっていたから。写真は、手紙に入れて送ろうと思って準備していたけれど、果たせないままその日が来ました。Kちゃんには伝えておきたいことがあったのに。
その写真ならちゃんと見つけたよ、とJちゃんに言おうとしたが、声が詰まって何も喋れなかった。
――Kちゃん、バクのキーホルダー、覚えていますか?動物園であなたが買ってくれた。お守りのようにずっと大事に持っていたのだけれど。それをもうボロボロだからと勝手に捨てられてしまったあの日、これ以上はもう無理だと思いました。そして、別の場所へ逃げることに決めました。
どうやって逃げたのか、それからどんな風に生きてきたのか、今現在どこにいるのか、本当はもっと訊くべきことがあったと思うが、この時は頭が混乱していて、何も言葉が出てこなかった。
私はただ、Jちゃんの言葉に返事をするだけで精一杯だった。
――今日のことは、二人だけの秘密にしてください。今度はちゃんとお別れを言えてよかった。電話してくれてありがとう。さようなら、Kちゃん。
こうして、電話は一方的に切れた。
茫然としながら公衆電話に受話器を戻すと、Jちゃんはテレホンカードになって返ってきた。夢を見ているような気分だったが、夢ではない。テレホンカードには、通話した分の穴が開いている。
三十年前、Jちゃんは、お母さんの人形として生きることをやめるために家を出た。
そこからどんな苦労があったのかわからないが、どこかで元気に生きてくれていた。それだけで十分だった。できれば、声だけでなくて一目その姿も見たかったが、もう違う人間になっているというJちゃんにとっては、負担になるだけだろう。
やがて、待合所の窓から見えるホームに電車が到着した。
扉が開いてJちゃんと同じ制服を着た女子高生たちが降りてくる。私は、思わず、その中にいるはずのない人の姿を探した。
Jちゃん、さっきは言えなかったけれど、実は私もバクのキーホルダー、もう持っていないんだ。
実家が火事で焼ける時、その場に落としてきてしまって、一緒に灰になって消えちゃった。
それ以来、私、毎晩毎晩、悪夢ばかりを見ているよ。
私は一人心の中で、Jちゃんとの電話を続けていた。
そうしたら、誰もいない夕暮れの待合所で、涙ばかり流れてきた。
私はしばらくそのまま、鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら子供のように泣いていた。
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