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『O駅の隙間女』第8話(最終話)

8.レコードが終わるまで


傘を持って喫茶店に到着した時には、すでに辺りは薄暗くなり始めていた。
扉に<準備中>の札が出ている。傘を表に立てかけて帰ろうとしたが、窓から灯りが見えた。

そっと扉を開くと、カウンターにマダムが一人座っている。
私に気がつくと、笑顔でいらっしゃいと迎え入れてくれた。

――また、レコードが終わるまでお話しましょう。

と、マダムはあのレコードアルバムをセットする。二人だけの店内に優しい音楽が流れ出した。

――実は、あなたとは、昔々に会ったことがあるんですよ。

不意にマダムがそんなことを言い出した。

――可愛らしい女の子たちでした。私は中から覗いていて、あなたたちは外から覗いていて。目が合った時にはびっくりしました。

まさか…。
私は、ポシェットからJちゃんとのツーショット写真を取り出すと、そっとマダムに差し出した。

――そうそう、この二人組。いきなり写真なんか撮るから焦ってしまった。あの子にもそう言ったら、綺麗に写っていましたよなんて言うんですよ。あの子、そう…、昨日見せてもらったテレホンカードの子。

私は、マダムの言うことに理解が追いつかず、固まっていた。
気にせずマダムは続ける。

――私があの子を初めて見たのは、夕暮れのO駅の待合所でした。寂しそうな顔をして一人でベンチに座っている。それが見る度にやつれていって…。ある時、思わず、声を掛けました。昔の自分を見ているようでしたから。それ以来、この店にもよく来るようになって、こんな風に二人並んで色々な話をして。ある時、あの子がもう消えてしまいたいと言いました。普通の人間ならば、なだめたでしょうが、その点、私は違いますから。その手伝いをすることにしたんです。

私は、そんなはずは…と思いながら、密かにマダムの足元を確認した。
いや、しかし、足はあるし生きている。
混乱する私に、マダムは、

――そう、私が、あの時の<隙間女>です。でも、死んでなんかいませんよ。幽霊じゃありません。

と笑った。

――まずは、<隙間女>が何者だったのか、ちゃんと説明しないといけませんね。

マダムは、そう言って立ち上がると、カウンターの向こうに回った。
まるで、初めてそれを扱う子供のように、覚束ない手つきでゆっくりと珈琲を淹れている。

――ここまでできるようになるまで時間はかかりましたが、今では、重い物を持つこと以外は自分でできるようになりました。幼い頃の事故で、腕の自由が利かなくなってね。長いことずっと、母の手助けがないと生活することができませんでした。でも、大きくなって自分でできることが増えてくると、新しい世界を見てみたくなるじゃありませんか。しかし、母はそれを許しませんでした。私を見捨てるのかと。お前のために献身的に生きてきた自分の人生はどうなるのかと、私を責めました。自由にできないようにリハビリすら禁じられて。その結果、私は自分という存在を全否定するようになりました。母の人生を台無しにした自分、夢も希望も持つ資格のない自分、全てを。それはそれは地獄でした。…それでも、母の留守を見計らって、外の世界に繋がる電車を見に行くことで自分を解放していました。毎回連れ戻されるのですが。でも、ある時、コインロッカーの裏にいい隠れ場所を見つけたんです。ここなら誰にも見つからずに外の世界を覗くことができます。

しかし、どうやってコインロッカーと壁の隙間に?
不思議顔の私にマダムは種明かしをしてくれた。

――隙間の先に空間があったんです。小さな売店の跡地がコンコース側にコの字に開いていて、本格的な改修工事が始まるまでコインロッカーで塞がれていたんですよ。そこには、誰も知らない小部屋がありました。

私は、待合所で見た色の違う床を思い出した。そして、Jちゃんとのツーショット写真の背景に写るコインロッカーをじっくりと観察した。
確かに、コインロッカーの右側面には、奥に空間を感じさせる黒い隙間が見える。その隙間には、華奢な人であれば体を滑り込ませることができそうなくらいの幅があった。

――辺りに誰もいない時、素早くここから入り込むんです。ホーム側の窓を塞いだダンボールの破れ目を覗くと電車が見えて、その反対側のコインロッカーの隙間を覗くと行き交う人たちが見えて。そこは、私だけの秘密基地でした。

その大切な時間を邪魔したのが、遠足前の私とJちゃんだったという訳である。
<隙間女>の正体はお化けなどではなかったのだ。

それなら、裏の沼の悲劇はまた別の話だったのだろうか。
マダムに尋ねると、

――いえ、それも私です。身動きの取れない毎日に疲れた私は、いっそのことこの世から消えてしまおうと思いました。底なし沼だったら、亡骸すら上がってこない。命の抜けた体になっても母と一緒にいたくはありませんでした。それで、駅の裏の底なし沼に。ところが、あわやの所で助けられたんです。だから、落ちたのは片方の靴だけで済みました。

若き日のマダムを助けたのは、この喫茶店の先代マダムだったという。
その憔悴した様子を気にかけ、駅に行く度、さりげなく見守ってくれていたらしい。
その後、店で介抱され、落ち着いたら自宅まで送ってもらうことになったが、それを拒否して居ついてしまった。

――幸か不幸か、死んだことになりまして、<隙間女>に生まれ変わったという訳です。

マダムは微笑みながら話していたが、その後の身を隠す生活はとても大変なものだったらしい。

――暮らしそのものの大変さというよりも、母を見捨ててしまった罪悪感というのでしょうか。その重さ。でも、愛情があるかといえば、それも違うのです。同じ町にいるからどこかで出くわすかもしれない。それを考えただけで恐怖と不安で震えました。…それは、あの子も同じでした。でも、ある時、先代が言ったんです。逃げた罰で地獄に堕ちるというなら、地獄の方がマシではないの、私たちはこれまで地獄よりも辛い所で耐えていたのだからと。そういう彼女も愛のない家庭から逃げてきた人でした。彼女の幼い子供と逃亡者二人、合計四人で助け合って生きてきました。罪悪感も一緒に。

マダムは目を瞑り祈るようなポーズをとっていた。

――あの子は、ついさっき、この町を発ちました。

Jちゃんは、長い時間をかけて容貌を変えながら、身元不明の記憶喪失者が別の戸籍を作るという方法で、新しい人間になったという。

――新しい土地で、カフェをするそうですよ。あの子の作ったアップルクランブル美味しかったでしょう。

人の目につく所では男の恰好をして正体を隠していたというJちゃんも、これでやっと自由にできる。

――私も、亡くなった先代のお嬢さんのいる所に越すことになりました。双子ちゃんが生まれたから傍にいてほしいって。だから、今日でこのお店も終わりです。

アルバムの最後の曲、「ロータス・ブロッサム」が流れてきた。

…私の脳裏にとある光景が火花のように弾けて甦る。

二十年前。
呼び出されて久し振りに帰った実家には、家に籠りがちな弟とその世話を焼く母と酒を飲んで荒ぶる父がいた。

二階の弟の部屋の前で母は、強い口調で私に悪態をつく。
弟がこんなに可哀想なのに、お前だけ楽しく生きるなんて。

一階の居間では、酔って人の変わった父が暴れるだけ暴れた後、いびきをかいて寝ていた。
倒れたウイスキーの瓶。
その中身が絨毯に染みている。
テーブルの上の灰皿には、火がついたままの煙草が煙を上げたまま散乱していた。
私は、それを持ち上げると、思い切り絨毯にぶちまけた。
すぐ傍に、赤々と燃える灯油ストーブがあることを知りながら。

私は、鞄につけていたバクのキーホルダーを落としたことにも気づかず、家を飛び出しO駅から電車に飛び乗り町を出た。

そして今…。

レコードが終わったら、私はこの店を出てまたO駅から電車に乗る。
しかし、今度はもう戻ることはない。


この二十年、私も<隙間女>だったんですよ。


喉元まで出かかった言葉を熱い珈琲で流し込んだ。

(了)

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