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『O駅の隙間女』第2話

2.古い喫茶店


二〇二四年。

Jちゃんが消えてから三十年が経過した。

大学進学を機に地元を離れた私は、そのままその地で仕事を見つけて一人暮らしを始めた。

小学生の頃に夢見た線路の先には、ビルも海も確かにあったが、思っていたほど愉快なものではなかった。
とはいえ、窮屈な地元にいるよりもずっと快適だったので、ほとんど帰省もせず、自由気ままに自分だけの暮らしを楽しんでいた。

今回の帰省は、実家の土地を処分するためだったのだが、数えてみると二十年振りだった。
既に家族はおらず、実家といっても草の生えた土地だけが残っている。勿論、生まれ育った家だから思い出も沢山あるのだが、買い手が決まってやっと手放せるという解放感の方が大きくて寂しさはほとんど感じなかった。

私は、駅前の商店街の片隅にある古い喫茶店で、Rが来るのを待っていた。Rは、地元で就職して結婚し、今では高校生の子供がいる。
前回帰省した時に会ったのが最後だったので、彼女とも二十年振りの再会だった。

――久し振り。元気にしてた?

Rの顔を見ると十代の頃に戻ったような感覚になる。お互いに中年の着ぐるみを着ているものの、会って話せば中の乙女が顔を出す。
とはいえ、Rはやはり十分に大人であって、年をとっても浮遊感のあるらしい私に、ご飯はちゃんと食べてるの、などど言う。

珈琲を飲みながらあれこれ近況を語っていたら、自然と話題はJちゃんのことになった。

――Jのお父さんは三年前亡くなってね、お母さんは元気。この前、娘と一緒に人形展を見に行ったよ。彼女がモデルの人形が沢山あって切なくなっちゃって。

Jちゃんのお母さんは元々人気の高い人形作家だったが、失踪した娘をモデルにした作品を発表するようになってからは、その悲劇性も手伝って益々注目されるようになった。

あの時は、警察だけでなく探偵やテレビ局、果ては霊能者まで、Jちゃんを探すためにありとあらゆる手が尽くされた。
駅前では、両親やボランティアによって彼女の写真を印刷したテレホンカードも配られた。

その一枚を私はずっと大事に持っている。
高校の入学式で撮った制服姿のJちゃんの写真。何も知らずに見たら、懐かしのアイドルグッズのようだ。
私は、それを財布のカード入れから取り出すと、Rの方に差し出した。

――丁度、うちの子と同じ年頃だったんだ。

独り言のようにRは呟いた。
そして、それを私の方へ返しながら、気になることを言い出した。

――あの時は、子供だったから言い出せなかったんだけど、私は、これじゃ何の手掛かりにもならないんじゃないかなと思ってたんだ。警察に提出した写真もこれと同じものでしょ。でもね、いなくなる直前のJは、こんな感じじゃなかったのよ。風貌が全然違うから。

一体どういうことなのか。
詳しく話を聞いてみると、当時Rは高校は違うものの、Jちゃんとは朝乗る電車が同じだったという。だから時々見掛けることがあったが、いなくなる一か月程前から様子がおかしくなっていることに気づいたらしい。

――最初は誰だかわからなかった。ガリガリに痩せていたから。それでなんとなく声も掛けづらくて。

学校側としても違和感があったのだろう。
手掛かりにと、担任の先生からクラスで撮影した近影が両親に提供されたということだったが、母親から写りが悪くて良くないと却下されてしまったらしい。この写真では娘に見えないと。

私は、もう一度テレホンカードを手に取って、花のように微笑むJちゃんの顔を見た。
面影もない程痩せ細ったJちゃん。
その姿を想像していたら、あの日の<隙間女>を思い出した。

二人の間に沈黙が流れる。
私たちの座る窓際の席からは、今は青葉の銀杏が見えた。何を思うでもなく、私はそれをぼんやりと眺めていた。

すると突然鳴り響く、ガッシャンガラガラ、ガッシャンガラガラという物凄い金属音。
私とRは、同時にその音がする方向を見た。

それは喫茶店のマダムが、年代物のカートワゴンを押して隣りの席に向かっている音だった。ワゴンの上には、珈琲が入ったサーバーと空のカップ、それとロールケーキが載っていた。
カートワゴンとテーブルの高さは少しのずれもなくぴったり同じで、お盆をそのまま滑らせるだけで全ての注文の品をテーブルに移動させることができる。

この喫茶店を何度か利用したことがあるRによると、ここのマダムは事故の後遺症で手に力が入らないので、こういう形で給仕をして、後はセルフサービスということになっているらしい。

一時間程前に私たちの珈琲を運んでくれたアルバイトの女の子は、もうあがりのようで、店にはマダムと奥の厨房にいる調理担当の男の人だけになっていた。

時刻はもうすぐ午後五時。

Rは、そろそろ帰って夕食の支度をしなければ、と席を立った。
その際、伝票を素早く取り、いいからいいからと私の分まで払ってくれようとしたので、いやいや悪い悪いと、私もそれを取り返そうとして、押したり引いたりのひと悶着。

すぐにどちらからともなく笑い出し、

――オバちゃんみたいなことしてる。あっ、オバちゃんだったか。

とRは言った。

――まさか自分がオバちゃんになるなんて、高校生の頃は思いもしなかった。近頃なんて時間が経つのがものすごく早くない?すぐにお婆ちゃんになってしまいそうだ。

そう言うと、Rは私の手の中の伝票をパッと取り、お婆ちゃんのような優しい顔で笑った。

――家はなくなったにしても、時々は帰ってくるんだよ。ここには私がいるんだから。そうでないと寂しいよ。

別れ際、Rの目は潤んでいた。

もう少しここで時間を潰すことにした私は、窓の外で手を振るRを見送ると、飲みかけの珈琲カップを持ってカウンター席に移動した。
そして、珈琲のおかわりとアップルクランブルを注文し、またテレホンカードの中のJちゃんを眺めていた。

店の中には私の他にスーツ姿の若い男が一人、ハンチング帽を被ったお爺さんが一人。しかし、それぞれ程なくして店を出て行き、客は私一人だけになった。

厨房からマスクにバンダナ姿の男の人が出て来る。何か作業をしているマダムの代わりに珈琲とケーキを運んくれたのだ。その人は無言で頭を下げ、すぐに厨房へ戻っていってしまった。
カップを置く時、ほんの一瞬見えた眼鏡の奥の目に懐かしさを感じたのは何故だろう。

入れ替わるように流れ出す音楽。
マダムが、レコードに針を落としたのだ。
年代物のレコードプレイヤーから流れる音楽は、とても甘くて切ない旋律だった。

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