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『O駅の隙間女』第3話

3.幽霊と覗き穴


――デューク・エリントン楽団の「ロータス・ブロッサム」という曲です。<蓮の花>という意味ね。ビリー・ストレイホーンという人のジャズの名曲なんですよ。

カウンターを挟んで座ったマダムは、私に今流れている曲の説明をしてくれた。

少し前から降り出した雨が外の喧騒を消し去り、店内は甘美な音楽で満ちている。

マダムは厨房に向かって今日はもう大丈夫よと声を掛けて表の札を<準備中>に返すと、まだゆっくりして行って下さいと言うように私に軽く頷いた。もう閉店時間のようだ。

――雨が上がるまで居て下さい。気にしないで。

マダムは、黒いブラウスに銀のショールを羽織り、目を瞑って音楽に聴き入っている。

――雨が降ると、この曲が聴きたくなるんです。

「ロータス・ブロッサム」が鳴り終わると、この曲が一番最後に入っているというレコードアルバムを今度は一番最初からかけてくれた。

――私がここに初めて来た時、このレコードがかかっていたんです。その日も雨が降っていました。

先代から店を引き継いで、かれこれ十年程経つという。
今は厨房係の男の人と給仕アルバイトの女の子の三人で細々と営業を続けていると言っていた。

――こちらへはご旅行で?

マダムは、私の傍らにあるボストンバッグを見てそう尋ねた。

私は、元々この町の生まれであるということ、用事があって二十年振りに帰ってきたということを話した。
そして、その時期に実家も家族も火事でなくしたということも。

――まあ、そうだったんですね。立ち入ったことを、ごめんなさいね。

私は、重くなった空気を変えようと、別の話をマダムに振った。
高校までこの町に住んでいたのに、こんなに素敵な喫茶店があることに今まで気づかなかったのが不思議だと。

――奥まった所にありますからね。看板の字も消えたままにしているから、気づかない方も多いみたい。外観は何の補修もしていないから、入るのに勇気が要るとよく言われます。静かにやりたいから、あまり知られない方が私としてはいいんですよ。

そう言ってマダムはふふと笑った。

話をする内に、マダムもこの町で生まれ育った人だということがわかった。
私とはひと回り以上歳が離れているように見受けられたが、中央公園にある時計塔の時間がすぐに狂うという話や、国道交差点角にある店舗のテナントが一年もせずにコロコロ変わる話など、ここの住人なら誰もが知っている話題で盛り上がった。

思えば子供の頃から、一方的に投げられるばかりで、こちらから投げても受け取ってもらえなかったり、受け取ってもらったとしても投げ返されない会話の中にいることが多かったから、こんな風に会話のキャッチボールを楽しめる相手と出会えた時はとても嬉しい。何を話しても聞いてもらえる安心感。
Jちゃんと時間を忘れて語り合ったことが思い出される。

私はふと、<O駅の隙間女>のことをマダムに話してみたくなった。

――そういえば、壁際にありましたね、コインロッカー。

その背面と壁との隙間を覗くと中に女の人がいたという、私が何十年も秘密にしてきたことを打ち明けると、マダムはスッと真顔になり、数秒間の沈黙の後、

――出ますのよ。

と小声で呟いた。

やはりあれは幽霊や妖怪のような超常現象の類だったのか。私は、自分がそういった神秘的な世界とは無縁な人間であることを自覚していたので、まさかあれがお化けであるとは信じられずにいた。
しかし、ここに来て第三者からのお墨付きを頂くと、見てしまったのだなと認めない訳にはいかなかった。

――昔ね、あなたがそれを見た頃だから四十年近く前になるのかな。その頃に駅の裏で不幸な事故があったんです。

マダムの話によると、駅の裏にある沼に落ちて亡くなった人がいたらしい。体の不自由な人で泳ぐこともままならず、誰にも気づかれることなく沼の底に沈んでしまったと。

――沼の縁にはその人が身に着けていた靴が片方と肩掛けが落ちていたと聞きました。若い女性だったようです。随分探したらしいのですが、あの沼は見た目よりもずっと深くて、泥や水草で混み合っているから、亡骸を見つけることは遂にできなかったとか。気の毒なことです。

その後、沼の周りには柵が設けられ、近づくことはできなくなったという。周辺は草が伸び放題で、そこに沼があるということすら知らない人も多いらしい。実際、私自身、駅の裏に沼があるというのは初耳だった。

――身体を引き上げてもらえず、その上存在したことすら忘れ去られたら…、幽霊にでもなってアピールするしかありませんね。だから、あなたの前に姿を現したのかも。

私は、何十年も経ってからこんなに恐ろしい気分になるとは思わなかった。この場にJちゃんがいたら、悲鳴を上げていたかもしれない。

私は、マダムにその幽霊を一緒に目撃した友達がいたことを打ち明けた。
そして、その後行方不明になって、いまだに再会できずにいるということも。

マダムは、私が差し出したテレホンカードを眺めながら黙って聞いてくれていたが、その間ずっと、どこか遠くを見るような、懐かしいような悲しいような複雑な顔をしていた。
暗い話ばかりしすぎたのかもしれない。

珈琲はすっかり冷めている。静かにそれを飲んでいたら、マダムが別の話題に変えてくれた。

――小さい子供は、隙間とか穴とか覗くのが好きですよね。私も子供の頃大好きだったんですよ、<のぞきからくり>とか。ご存知?

<のぞきからくり>というのは、お祭りの時などにやってくる見世物で、屋台に設けられたレンズ付きの覗き穴を覗くと、中に仕掛けられた物語が次々と展開するというものだ。
私は実物は見たことがないが、祖父母の思い出話の中で、その摩訶不思議な面白さについて聞いたことがあった。

――レンズの向こうには別世界があって、場所も違えば時代も違う色々なお話を覗くことができるんです。地獄だったり極楽だったり。幽霊の物語もありましたね。今でも思い出すだけでワクワクしちゃう。さっきは、小さい子供は…って言ったけれど、子供だけとは限りませんね。よくよく考えたら、いまだに私も隙間とか穴とか覗くの好きだもの。

マダムはそう言うと、いたずらっ子の顔で笑った。

いつの間にか、店内にまた「ロータス・ブロッサム」が流れていた。
マダムと話している内に、レコードアルバムを一枚聴き終わるだけの時間が過ぎていた。

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