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『できることならスティードで』の感想 その2

志邑です。

ずい分前に、加藤シゲアキ著のエッセイ『できることならスティードで』の感想を書いたんです。

その時こんなことを書いていました。

キューバの話だけでエネルギー切れました。今までで最長だから、当然といえば当然……他の感想は追々書くかもしれないし、書かないかもしれない。いやでもまあ「肉体」「小学校」「渋谷」「パリ」とかはちょっと、書きたいかもしれない。(具体的に言っておけばやりそうだから書いておく)
 そんなこと言っても〆切を設けられても破っていく人間なので、自分のことながら期待はできません。頑張れ。

頑張れ。

覚えていたんですよね、去年の4月のことなんだって。なんと覚えていました。

今さらですが、この中から「小学校」について、感想文のようなものを書きたいと思います。

Trip.8 小学校 の感想

旅をテーマにしたエッセイを謳ってはいるけれど、実のところ、実際に足を使った旅ではなく「思いを馳せる旅」の章がいくつか存在していて、「小学校」はそのひとつだった。

著者がMCを務める番組で小学校に通っていない子どもと触れ合う機会があった。
親たちの意見は多種多様。

そもそも、その子ども、彼女を取り巻く環境もポリアモリーといういわば概念にとらわれていない家族のかたちを取っていて、彼女自身も生き方として、「小学校に通って、みんなでわざわざ一緒に並んで、一緒の勉強をするだなんて、おかしい」という結論に至ったようだった。

それについて著者は、親たちや彼女の言い分を聞いた上で「通ったほうがいい」と答える。

わたしは、その答えと、理由とに、非常に納得をした。

著者は、彼女に分かりやすいよう対面では非常に端的に回答したようだが、本文では、自身の経験になぞって、この結論にいたるまでの経緯を説明していた。

その経緯こそ彼の”旅路”、小学校の思い出。

一日だけ、不登校になったことがあるらしい。
わたしはとんでもない小学校時代を送っていたが、それでも不登校にはならなかったのだが(そういう発想がなかったので)、多感な時期に芸能界に入った著者は珍しがられることも多く、学校に行きたくない!となっても仕方ないだろうと思った。

しかし、そレも結局「一日で満足した」ため、次の日から普通に通ったらしい。満足した、その日を共に過ごしてくれた父親の存在というのは大きいのだろう。
いいお父さんだな。

さて、わたしは著者のいうところの下記の一節が、なんというか、とてもしっくりきたのだ。

今思えば、ひとつひとつの経験や記憶から広がっていった学びは多く、学校は社会の縮図とも言えたし、結果的に協調性と自主性の両方を培うことになった。
これは決して能動的に選択出来るものではない。受け身であるがゆえの、不条理な経験を自分に通すことで、その後の人生がいくらかたくましくなる。生きていくということそのものが不条理の連続なのだから。

わたしは、どうせ社会に出たら理不尽な目になんかいくらでも遭うんだからわざわざ学校でそんな目に遭わなくてもいいじゃないか、と思っていた。

勉強も、自分ですればいいと思っていたし、自分でしていた。

と、思っていた。

実際は、私塾に通ったりして面倒を見てもらっていたし、自主勉強に使っていたのも学校でもらう資料集で、その代わりやっていなかった宿題を手伝ってくれていたのは友人や担任の先生だった。

わたしが理不尽な目に遭っている、と思っていた例えばいじめのようなことは、本来だったら、逃げていい場面だろう。

会社員でも、環境を変えようとするはずだ。

けれど、自分で出来ると思っていたことも、結局は人の助けを借りたり、人に迷惑をかけたりして、やっていたことだった。

たとえば、宿題なんか出さない学校に行くことも出来るし、自主勉強を手伝ってもらうようなスタイルでサポートしてくれる学校だってあるだろう。
公立ではわからないが、日本にも学習方法に工夫を凝らしているところなんて探せばあるはずだ。

それをしていなかったけれど、わたしは、すでに社会をやっていた。

だからいま、「会社員でも環境を変えようする」ということが言えるわけだ。
これが「協調性と自主性の両立」であり、不条理に対抗する生きる術でもあるのではないか。

何より「受け身であるがゆえ」というところが、なるほど、と思った。

わたしはよく質問をするが、たまに「何が分からない分からないのでとりあえずやってみます」と答える。

何ができて、何ができないか。何がわからなくて、何を持っているか。

それはまず教えてもらわないと分からない。
それは勉強に限らず、社会もそうだろう。

小学校は知らずしらずに、そのどちらもを学べる場なのだ、と思うと、どんな形であれ(いじめなどがない限りは)「とりあえず行ってみる」のは悪くない。

通うことに疑問を抱く小学生ではなかったわたしは、きっと「とりあえず通っていれば、ほかは何をしても文句を言われまい」と思っていたし、実際にそうだった。
好きに生きるために、社会のルールにも則ってみる。
そういう狡い考えがつくようになるのもまた、社会勉強なのかもしれない。

そのことを疑問を抱いたその子に教えたら、さすがに悪い大人すぎるかもしれない。

わたしも小学校に思いを馳せてみて、思い出される校舎はもう建て替えられてしまったけれど、心の旅の中で鮮明に浮かび上がった。
それはきっと、全くちがう著者の思い出の中に、わたしの過去を見い出したからだろう。

*****

本のレビューだけ、どうしても、いつもの文体で書けないんですよね。

気になったらぜひ、貸しますから、読んでくださいな。

志邑でした。

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