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舞台『モダンボーイズ』大阪公演が中止になった

先日、舞台『モダンボーイズ』の大阪公演中止が決まりました。

わたしは別に観に行く予定があったわけではありません。
東京公演はすでに終了しており、わたしはそれを観ています。

観ているなら良いじゃないか、と思うでしょうけど、観たからこそ「これを観れるはずだった何千人もの人が観ることができない」という事実が、いっとう悲しく、身に迫るわけです。

なぜか。

この舞台『モダンボーイズ』を観に行ったキッカケ自体は、何を隠そう、主演がNEWS加藤シゲアキだったからに他なりません。
もう20年以上も前に木村拓哉主演で上演されたものを再演するという、いわばジャニーズ肝いりの作品ですし、ファンからすれば直前で観に行けなくなるなんて、しかも東京公演が終わったあとで大阪だけなんて、そんなの苦行でしかない。

そういう意味では、イチファンとして、この不平等さにも憤りは隠せないけれど。

そんなことはどうでもいいんです。

そりゃあ、加藤シゲアキが主演じゃなきゃ観に行くこともなかったやつがいうことじゃないかもしれませんが、この舞台はいま絶対に演らないといけないし、観たい人が観れなければいけない舞台なんです。

これが言えるのは観たからかもしれない。
本当は大千穐楽が終わってから感想を書こうと思っていたんだけど、このタイミングで書くことになってしまった。

いま、この新型コロナの流行している最中だからこそ、上演する意味が100000倍ぐらいある演目。

『モダンボーイズ』の舞台は昭和、戦時中です。
実在した劇作家・菊谷栄(演・山崎樹範)が生きて、浅草レビューを盛り上げていた時代を描いています。

浅草レビューの一大スタァ・エノケン率いる一座に、社会主義の活動家で菊谷の同郷の後輩である奏(演・加藤シゲアキ)が色々あって転がり込んで、どんどんレビューのきらびやかな世界に魅了され、歌と踊りの才を発揮し、レビューの花形となっていく……その舞台裏を描く。
……んだけど、戦時中ね。

舞台の台本は検閲にかけられ、国から厳しく規制されているし、一方で社会主義共産主義の人からは「チャラチャラしてんじゃねー!」と罵られ。
「舞台なんてやってるヒマか?いま!」っていう風潮。

華やかな舞台の裏は、そりゃあもう、大変なんですよ。

検閲に引っかかるかもしれない。
急に演者が飛ぶこともザラ。
トラブルはしょっちゅう、だけど、毎日劇場の扉を開け、幕を上げ続ける。
というのを菊谷はいつも言っている。

華やかな浅草レビューだけれど、見に来るお客さんは決して裕福な人じゃなくて、なけなしのお金かき集めて来たりしてる。
もしかしたらやなことばっかりあったかもしれないし、ワケアリな人もいるかもしれないし、いろんな人が来るけどみんなレビューを観ている間はそんな現実の苦しいことや暗いことを忘れられる。

じゃなきゃ、わざわざお金かき集めてまで観に来ないよね。
そこまでして観たいものに、価値がないなんてことはないよね。

だから観たい人がいる限り、幕を上げ続ける。
検閲にかかって、いろんなセリフを削られようとも、それで全部なくなるわけじゃない。
劇場の扉を開く限り、信念を揺るがすことなんてできない。
というようなことを菊谷(他の人もだけど)は劇中、いろんな言い回しで、何度も、言うわけです。

え、めっちゃわかる、ってなった。
いまじゃん、この状況って。戦時中と一緒じゃん。

世間の声の風当たりは強く、国の規制は厳しい。
苦しく暗くなっていく世の中。
それでも歌や踊りや演劇や、「舞台」を必要としている人がいて、そのために舞台の幕を上げ続けたいと願う人がいる。

え、いま、まさに、わたしが舞台を必要しているまさにその「観客」で、この『モダンボーイズ』こそが、舞台の力を信じて願う人が開けた扉そのものじゃん。

劇中劇の逆、というか、この世界のいまこの瞬間そのものが、この瞬間の気持ち全部が乗っかっている舞台だった。
役者さんはいつだって真剣だろうけれど、とびきりエネルギーを感じるし、わたしもそのエネルギーに実際励まされて、劇場を後にしたわけで。

なんで、この「幕を上げ続けることの意義」を強く強く伝えてくる、そんな舞台ですら、いまこの時代では中止になっちゃうんだろう。

歌声や踊りに元気をもらって、それでまた明日から頑張るぞ!と思えるし、そのためにまた働く。
働いているときも、次の予定に胸を踊らせて、それを目標にがんばる。

舞台の上で魅せることを生業としている人がいる。
それを支えることを仕事としている人がいる。
こうやっていろんな人の生活が成り立っている、そういう意味では舞台だって「生活必需品」なのにね。

これじゃあ愚痴になってしまうが、対面での食事がよくて観劇がダメな理由って謎だ。
マスク絶対外さないし、声だって食事より出す可能性低いし、対面になることってないしね。

自粛ばっかりで、どんどん自分の楽しみも減って、リモート作業にも慣れなくて、わたしはいわゆるコロナ鬱になって仕事を休んだ時期がありました。

そんなわたしにとって、久しぶりの観劇は希望で、そしてまさにいまの時代を表したかのような演目で。

観れるって思ったから、観れたから、就活頑張って再就職して、いまもいろんなことががんばれている。

もちろん、それだけが理由じゃないけど、それがキッカケになったり、その「あとちょっとがんばるエネルギー」があるかないかで、踏ん張れるか変わってくる。
その踏ん張りが効かないと、全部崩れてしまう人もいる。

わたしはそういう人だって自分で分かっているから、あの手この手で自分で工夫してきた。

わたしの趣味は「映画館に行くこと」「買い物」「旅行」「カラオケ」「ライブ・観劇」「美術館・博物館巡り」と、外出してやるものが多いです。
友だちとご飯に行くのも好きだし、お酒も大好き。
読書やドラマ鑑賞、ゲームやマンガも好きだけれど、そればっかりだと疲れてしまって、インドアとアウトドアのバランスが取れていたから、どっちも楽しめていたんだなあとは思った。

でも、じゃあ「自分の機嫌を取るにはある程度外に出る趣味をしないと、仕事や生活に支障をきたすな」と、思ったとする。

お店は開いてない。映画館も美術館も開いてない。旅行も行けない。ライブなどのイベントは軒並み中止。

わたしの機嫌を取るための手段が奪われている。
その結果、上手く生活できなくなって、会社も休んで、病院に行って……

お金はかかる、仕事はなくなる、楽しみもなくなる。
わたしにとっての必要至急がぜんぶない世界が言っている「不要不急」って誰目線なん?って。

そういういらだちとか、悔しさとか、苦しさとか、ぜんぶ超えた先で観た『モダンボーイズ』は、まさしくいまの日本社会だった。

それがいまの日本社会によって中止を余儀なくされている状況は、観たからこそ残念だなあと思う。

菊谷栄は史実上も、舞台の中でも、召集されて、戦地の、それも最前線へと赴くことになります。
その際にも「舞台を開け続けてください」「陽気にジャズを流してください」、そんなことを「遺言」としてのこしていきます。
戦地のどんな情景も「舞台に生きるレビュー人として」、見て、聞いて、肌で感じるのだと言いました。

生きていたら日本の演劇の歴史が変わったと言われている、菊谷栄とはそんな人です。

演劇に限らず、いま「みんなが菊谷栄のような人であるかもしれない」とわたしは思う。

中止になったり、仕事がなくなったり、趣味が消えたり、みんなが人生や社会や自分にとっての大きな変化を味わって、いろんな立場で「もしかしたらこうだったかもしれない」と思っている、きっと。

それって本当にコロナのせいかな。と思う部分もある、正直。

未知の感染症は広まっているかもしれないけれど、そんな中でどうやったらできるのか、安心してもらえるのか、どう働くか、どう楽しむか。
提供する側としても、享受する側としても、自分の本質が求めているもの、に対しては、みんな努力して、工夫して、「新しいやり方で今まで通り」を目指しているのを感じる。

それは自分が色んな趣味や色んな仕事で、ちょっとずついろんな側面を見てきて思うこと。

『モダンボーイズ』の主人公・奏は、田舎のお坊ちゃんで、社会主義にも傾倒して、歌と踊りに魅了されて、舞台人となる。
時代のいろんな側面を見て、自分がその中に身を置いた人物として、そこにいました。

奏は、警察に捕まってしまった先輩や、時代の荒波に揉まれた恋人や、戦地に赴く恩人の背中をすべて見送る側です。
それでも舞台に立ち、幕を上げ続けます。歌って踊ります。
実際に歌うシーンがあるんですが、奏、もとい加藤シゲアキの声は、ファンの贔屓目でもなんでもなく、めちゃくちゃ響きました。

最初社会主義に傾倒していた奏くんは「主義を捨てて舞台やっててええんか?」と悩みますが、菊谷がその時いうんです。
「君が変えたいと思っている、その未来に音楽はないのかい?」と。

奏はその時じっと聞いて、涙をながし、悩み、答えないけれど、
どんなときでも、日本が変わるその時にも、暗くても明るくても、その世界には音楽や演劇が、エンタメが必要だよ!
と代わりに心の中で答えました。

奏は舞台に立ち続けることを決めます。
彼の思い描く新しい時代にも音楽が必要で、音楽をやっていても信念が揺らぐことがないと、確信できたから、立つんだと思います。

エンタメは不要不急でしょうか。
お酒は不要不急でしょうか。
外出は不要不急なんでしょうか。

何かの信念のために捨てなくてはいけないものがあるとしたら、それは「楽しいこと」なんだろうか。
我慢できることは素晴らしいけれど、この不要不急に困っていない人だっている。我慢しなくとも。
この不平等な我慢のしわ寄せで、令和にも菊谷栄のような人がいっぱい生まれているんじゃないだろうか。

わたしは、菊谷のようになにかを成したり、確固たる信念があるわけではない。
でも正直、体調を崩して何もできなくなってしまったとき、感染症になる前に別の理由で死んじゃいそうだった。
それは、信念じゃないかもしれないけど、わたしの足場、生活の基盤とか根底の部分が総崩れだったってこと。

わたしは、20年以上生きてきて、さすがにわたしのことがそこそこ分かっている。生活の仕方、機嫌のとり方。
だから「わたしにとって、いま」、何が必要で、不要かは、わたしが決めることが、自分自身にとって最も健康的な生き方のはずだ。

その健康を捨ててまで、別のなにかと戦うのは不要だ。
……とまで言うと、語弊があるね。

そりゃコロナはやっぱりこわいと思うよ。
対策をしないといけないし諦めないといけないこともあると思っているよ。

でも対策をして、声出しや、友人との感想を語らう時間も我慢して、他の外出は控えて、そこまでしてでも行きたいライブや演劇がそこにある。
舞台を観る側だけれど、声援を送ることだけが正義じゃないし、ライブの後にお酒を飲んで語り明かすのが不要不急だと言われても納得するし、その代わり何が何でも舞台やライブやイベントの開催を守りたい。
それ以外ならいくらでも我慢するから、そう思って頑張っている、観る側なりに。

それぞれがそれぞれの立場で取捨選択をして、守っているんだよ、大事なものを。

菊谷と奏はまさに、それぞれの立場で、それぞれの思いで、自分の大切なものを守った人たちの姿でした。

それが、守れない令和3年はつらい。

緊急事態宣言また出ましたが、そんな中でも、自分の大切なものを、また新たなやり方で守っていく術を考えることは止めないで、立ち止まらないでいれたらな、と思う。せめて。

感想というよりは、ちょっとうるさい内容になってしまいました。

『モダンボーイズ』の幕が再び上がることを、そして観れなかった、観たかった人全員が観れることを願っています。
それから、すべての「誰かのための劇場のような場所」たちの扉が開く日を祈っています。

その日までわたしは生きて、生活して、わたしを守っていかねばね。
それぞれの居場所を守りましょう。
苦しいけれど。

志邑でした。


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